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第三番目に、意思食が述べられます。意思もまた「食」と成り、身を資養し、生の充実を図るものとして大変重要な要素を持っていることを明らかにします。
「三には、意思食、希望(ケモウ)することを以て相と為す。謂く、有漏の思(シ)が欲と倶転(クテン)して、可愛(カアイ)の境と希(ネガ)うて、能く食の事と為る。」(『論』第四・初左)
希望(ケモウ)とは、ねがい望むことですが、意思食は「寿命を貪愛し、存活を希望す」という有漏の思の心所が我欲と共に働き、愛すべき対象(可愛の境)を願うことが食の事と為ると述べています。
随分昔のことではありますが、今でも心の片隅に残っている出来事があります。お稽古事を習っていました師匠の奥様が、病気ではないのですが早くに亡くなられました。ずっと寝たきりではあったのですが、お医者様でもどうしようもなかったのです。それはこの意思食が因となっているということを師からお聞きしました。
生きるという生命力が欠如して、食する行為に移行しないのでした。そしてボチボチやせ衰えて、50代で老衰の為に亡くなられたそうです。
食することは、生きようとする生命力が根底に働いているのですね。それを意思食と表したのだと思います。
『述記』は、
「若し可愛の境を希うことは未来と及び現在とに通ず」と述べていますが、生きようとする願いが無かったなら、現在も亦未来も無いということになるのでしょう。
思の心所を振り返ってみますと、
「思謂令心造作為性。於善品等役心為業。」(『論』第三左)
思と云うは謂く、心を造作(ゾウサ)せしむるを以て性と為し、善品等の於に心を役(ヤク)するを以て業と為す。
性は本性であり、不退という意義をもっている。思の性は造作(行為をなすこと)することである。
業は、造作の働きで、心を役するこである。心を使って、行動を起こすことなのですね。
つまり、意思する心です。意思とは考え、思いという意味があり、業を表しますますが、もう一つの意志は、成し遂げようとする心、すなわち行を表します。
受・想・思という流れを見ていますが、受は愛を起こし、想は言語を成り立たせ、そして思は業を成り立たせる。業は行為ですから、行為の本質は思であると教えているのです。
思とは行為なんですね。思うだけではないんです。思うだけなら感情というもので、思は意思決定を伴うのですね。何事かを選択し、決断するのは意業、意の働きであり、それが具体化する場合には、身と口を以て発動する。発動は具体的な表現ですね。身・口・意の三業が和合して行為が成り立つわけです。身・口は直接的には業ではありませんが、意の発動になるときに業になるわけです。意を伴って、身が身による業(身体的行為・身業)となり、口が口による業(言語的行為・口業)となるわけです。意という意志的活動がその元にありますから、意業は思業ともいわれているのですね。
『了義燈』(第四末・二左)に問答を起して意思食の井美を明らかにしています。
「問う。触食は能く喜楽を生ず。思食は必ず欲と倶なり。喜楽を摂益し、欲を自ら希望せば、受と及び欲とこれを説きて食と為すべし。」
「答う。触に由りて受を起し、思に由りて欲を起こす、果を挙げて因を顕す。正しくは触と思に由る、此れを説いて食と為すなり。」と。
そして『瑜伽論』巻第九十四を引用して論証しています。
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