第二門 煩悩の心所の体と業について説明する。六を釈するを以て六を為す。六とは、貪の心所・瞋の心所・癡の心所・慢の心所・疑の心所・悪見の心所である。
一が、さらに二つに分けられ、体と業とが問われる。(中に於て各々二あり)
「云何なるを貪と為す。有と有具とに於いて、染著(ゼンジャク)するを以って性と為し。能く無貪を障へて苦を生ずるを以って業と為す。」(『論』第六・十二左)
「云何」という言葉が置かれている意味は、貪についての、体と業を問うているのです。以下、瞋の心所等も、同じ意味になります。
どのようなものが貪の心所であるのか。貪とは、有と有具に対して、染著(執着すること)することを以て性とする、よく無貪を障碍して、苦を生起させることを以て業と為す心所である。
- 有 - 生命的存在(bhava)を指し、後有(迷いの生存)のこと。三有(三界)における異熟果。
- 有具 - 「有」を生じる原因。中有と煩悩と業と器世間等。
最初の三つの煩悩が三毒の煩悩といわれ煩悩の主といわれているのです。『述記』では、貪・瞋をまとめ「貪愛」といっています。それと癡です。癡は無明といわれますから煩悩を貪愛と無明の二つにまとめています。「貪」は「有」-私と 「有具」ー器世間ですね、私と私の世界です。世界といいましても私が作り出した世界ですね。一人ひとりの世界です。生まれた環境や育てられた環境、その人のもっている才能や経験によって人それぞれの世界観は違ってきます。貪りは一人ひとりの世界で染著し、そして苦を招来するのです。善の無貪を障碍して苦を生ずるといわれています。「貪愛」ということですが、「愛の力によって」といわれています。親鸞聖人も「貪愛・瞋憎の雲霧」と云われますね。愛を貪るということなのですが、何を愛し何を貪るのでしょうか。ここにいわれていることは、仏を愛し・仏道を愛し・涅槃の世界を愛することを貪る、貪愛するのであるというのですね。執着を起こすのです。ここは問題ですね。大事なことを教えられています。聞法に励む、仏道を歩むこと自体に貪りの心が働くのです。聞法が好きだ。、仏法が好きだというのが一番危ないのですね。貪れば皆、染汚に収められるのですから。「万のものを貪る心なり」といわれているのです。そして「貪」の深層にあって「貪」を起こしてくる働きですね。それを根本無明と云うのですね。ものの道理が判らないということです。私でいうと業縁存在であるということが判らないということになりましょうか。五蘊仮和合といわれても実感がありませんからね。仮和合が道理なのですが、私は私だと思っていますから。これが無明だと教えられるのですね。「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」と。
愛の力によって貪る心が起きる。愛するということは美しい心です。人を愛し、芸術を愛する事は感性豊かな心ですね。清閑なひと時、そのひと時は日頃の喧騒を離れて静かに己を見つめる機会になります。しかしその全体が苦を生んで来るのだといわれているのです、これは問題ですね。
『成唯識論』には有と有具とに於いて、これは有は異熟果・三有果であり有具は中有・煩悩・業・器世間であるといわれています。三有とは欲界・色界・無色界の三界に生存する存在をいいます。「三界は虚妄にして」といわれますように三界は迷いの境界です。何故かといいますと、煩悩と業です。「わたしはわたし自身の業が因となり苦悩する」といわれ、煩悩から業を生じ、その業に由って苦を生ずるのですね。いわゆる自縄自縛です。私が私に貪欲を起こすのだといわれているのです。愛ということはですね、ものを貪り執着することなのです。私から出てくる貪りはerosといわれ、性欲・生存欲・生存を否定する欲の三愛であるといわれています。これが業となり(欲を起こした行為と果としての苦です)行為と云う選択肢は多様ですけれども、いったん決定し行為・実行となるとですね、その結果は自己が責任を持って負わなければならないのです。貪る心を縁としますと、そこには必然として苦が生じてくるのですね。表層の意識で三毒の煩悩が起こってくるのですが、これはどこまでもどこまでも自己を愛してやまない深層に横たわっているマナス(末那識)という意識に染汚されているのですね。最初に愛は美しく、感性豊かであるといいましたが、その底に流れている自己愛にメスを入れ、自己愛を慈愛に転ずることができれば、美しくそして感性豊かな人生を送ることが出来るのではないでしょうか。仏教は三毒の煩悩を転じて、悔いのない、豊かな人生を送ることが出来るのであると教えているのではないでしょうか。
「貪」が何故苦を生ずるのかという問題を考えてみました。『成唯識論』には「愛の力に由って取蘊生ずるが故に」と述べられているということも考えてみなければなりません。ここでは「取蘊生ずる」ということはどのようなことなのか考えてみたいのです。「愛」は自己愛・渇愛という十二縁起の愛ということであると教えられています。取は執着のことです。蘊は種類という意味です。五蘊という場合は「色・受・想・行・識/一切皆空」(『般若心経』)といわれますように、五蘊仮和合といい、本来は無我であり一切は皆空であることを言い表しているのです。しかし私は私として実体として存在し執着を起こすところから五取蘊といわれるのです。これは我執を伴っているような激しい執着だといわれているのです。私(我)と私の物(我所)として執着を起こすのですね。この様な心の状態を「貪」と言っているのではないかと思います。五蘊とはどのようなことなのでしょう。「色」は肉体を含む物質です。身体と言っていいのでしょう。「受」は感受作用で私の感覚ですね。「想」は表象作用で表現です。「行」は意思です。意識を生んでくる意思の働きです。「識」は色・受・想・行を統一する意識の働きですね。この五つは仮に和合して私というものを構成しているのです。しかし私はわたしだという思いがありますから「仮和合」とは思っていません。まして私に執着していますから、そこに苦を招来するのでしょう。
今日は「貪」の心所の概略を述べました。明日は、『述記』の釈に学びながら、もう少し考えてまいります。
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