唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (8)

2015-03-04 20:58:51 | 古希を祝ってもらう


 私たちは常日頃から、日常の会話の中で「私は」「私が」と、恰も私自身を熟知しているかのような言動に走ってますが、菊池 萌師は『アポロンの雄鳥』で「皆さんは、其の人を知っていますか。 ジブンと云う人のことを。」とボールを投げかけました。受け手である私はどのように答えたらいいのでしょうか。
 私とは投げ出されたもの、対象化されたものということが云えるかと思います。対象化されたものは私ではないということです。しかし、私たちはと云う時の私は対象化された私を対象化して実体化しているわけです。それはね、妄想なんですね。でも、妄想が大切と云うのは、妄想が扉になる入口だからですね。妄想を潜って初めて触れ得る存在が「私」であるわけです。
 『アポロンの雄鳥」を読んでいる自分は、対象化された自分なんですね。「私が読んでいる」という視点です。読んでいる私って?誰?この「誰」を唯識ヨーガ学派が言い当てたのですね。世親菩薩に代表されますが、「第七末那識」の発見です。「我思う」「我」は投げ出された我ですね。思う我がいるわけです。投げ出された我は、我執の我。我執の我を知っている存在がアーラヤ識です。我思うに先立って我がいる、それを世親菩薩は自大語、或は流布語とおさえられたのでしょう。
 ですから、第八識の果相は異熟識と押さえられています。自相は阿頼耶識だと、この阿頼耶識は我愛執蔵現行位という「雑染のために互に縁と為るが故に、有情に執せられて自の内我と為らるるが故に」と云われるところに、末那識の存在を覚知したのでしょうね。純粋無垢の働きを、生起すると同時に汚すものがある、同時ですから任運です。分別はしません。分別せずに染汚してくる、その染汚してくるものが、対象化された我であると云えると思いますね。我と思っているのは無始以来の等流習気ですね。これが種子です。種子から現行が生れてくるのは因縁による。從って、対象化された心を縁ずるということはないと、所縁とすることはないということですね。
 「故に異熟識は心等を縁ぜず。」(『論』第二・三十二右) 
 從って、異熟識は心・心所及び無為法・不相応行法も縁ずることはないんだと。ここまでが有漏位についての所論でしたが、ここから、無漏位について述べられてきます。
 「無漏の位に至ると云うは、勝れたる慧と相応す。無分別と雖も、而も澄浄なるが故に設ひ実用は無けれども亦彼の影を現ず。」(『論』第二・三十二左)
  無漏という、漏れることのない浄らかな世界に至る時には、勝慧と相応すると。
 「述して曰く、無漏の位に於いては、勝れたる慧と相応す。籌度して相を取る分別は無しと雖も、而も澄浄なるが故に。」(『述記』第三本・八十七右)
 勝慧とは大円鏡智のことであると云われています。転識得智ですね。識が、有漏れの識が転じて澄浄の智慧になるということですね。仏教は何が言いたいのかというと、転識をいいたいんですね。迷いの識が転じて大円鏡智になる。
 「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(『教行信証』序)
 ここがですね、大乗仏教の醍醐味ですね。真宗のすごさだと思います。 今日は此処までで。

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