「能く無貪を障え、苦を生ずるを以て業と為す」という一文について、更に詳しく貪の業について説明を加える。
「謂く、愛の力に由って取蘊(シュウン)生ずるが故に。」(『論』第六・十三右)
- 取蘊 - 取は煩悩のこと。蘊は五蘊。五取蘊の取蘊のことで、五蘊は取より生じることから、取蘊といい、また取を生ずるから取蘊という。この場合、取は欲貪という煩悩であり、この欲貪が種子となり、未来と現在との有漏の五蘊が生じることを述べているのです。
- 「愛の力」 - 貪のこと。
『述記』はこの間の事情を次のように述べています。
「若しは発業し、若しは潤生して、皆取蘊を生ぜしむ」と。貪によって煩悩を潤し(潤生)、業そのものを発し(発業)五蘊を生じる因となる、と説明をしています。
「論。謂由愛力取蘊生故 述曰。若發業。若潤生。皆令取蘊生。非謂唯潤惑。上二界中。由愛靜慮等故。彼諸煩惱因此増長亦取蘊生。大論第八・五十五・及五十八・顯揚・五蘊・對法皆廣説貪相。然大論第八同此。」(『述記』第六末・二左。大正43・444a)
「疏。愛佛貪滅皆染汚收者。有義今解此等非是法執。若不堅著但起欣求。此既善心不可名執。可同有部名善法欲。若起染愛是煩惱貪 詳曰。如名起義既云貪佛。豈有貪法非是染執名爲善耶。若但欣求不起染執。誰言此等名之爲貪。又誰不知是善法欲勞爲分別。
論。謂由愛力取蘊生故者。釋此貪等聖教非一。大意無著但廣略異。蓋作者意取尚不同。今引異要同繁不取。顯揚第一云。業有五能障無貪爲業。障得菩提資糧圓滿爲業。損害自他爲業。能趣惡道爲業増長貪欲爲業。餘嗔等業皆有五種。初後二別。中三並同。思作可悉 五十五中貪由十事生。一取蘊。二諸見。三未得境界。四已得境界。五已所受用過去境界。六惡行。七男女。八親支。九資具。十後有及無有。」(『演秘』第五本・二十二右。大正43・917a~b)
(「述して曰く。若しは発業、若しは潤生、皆取蘊を生ぜしむ。唯潤の惑を謂うのみには非ず。上二界の中には静慮等を愛するに由るが故に。彼の諸の煩悩は此れに因って増長す。亦取蘊生ずと云う。大論の第八、五十五、及び五十八、顕揚、五蘊、対法皆広く貪の相を説く。然も大論の第八は此の論に同じ。」)
『演秘』の釈。
(「疏に、仏を愛し滅を貪することは皆染汚に収むとは、有義は今解す。此れ等は是れ法執に非ず、若し堅著(ケンジャク)せずして但欣求を起すは此れ既に善心なり、執と名づくべからず。有部の善法欲と名づくるに同ずべし。若し染愛を起こさば是れ煩悩の貪なり。詳らかにして曰く、名の如く義を起す、既に仏を貪すと云う、豈、法を貪すること有るも是れ染執に非ずして名づけて善と為さんや。若し但欣求して染著を起こさざるをば、誰か此れ等をこれを名づけて貪と為すと言う。又誰か是れ善法欲と知らずして分別を為すことを労せん。」
「論に、謂く、愛の力に由りて取蘊生ずるが故とは、此の貪等を釈する聖教一に非ざるなり。大意差無し、但広略異なり、蓋し作者の意取尚不同なり。今異なる要を引く、堂は繁を以て取らず。顕揚の第一(大正31・481c)に云く、
業に五有り、
(1) 能く無貪を障ゆるを業と為す。
(2) 菩提を得る資糧円満することを障ゆるを業と為す。
(3) 自他を損害するを業と為す。
(4) 能く悪道に趣くを業と為す。
(5) 貪欲を増長するを業と為す、と。
余の瞋等の業も皆五種有り。初後の二は別なり。中の三はな並びに同なり、思作して悉(ツマビラカニ)にすべし。
五十五の中に、貪は十事に由りて生ず、
(1) 取蘊(五蘊)
(2) 諸見(諸の悪見)
(3) 未得の境界(未だ得ていない境界)
(4) 已得の境界(已に得ている境界)
(5) 已に受用せし所の過去の境界(すでにうけた過去の境界)
(6) 悪行、 (7) 男女、 (8) 親友、 (9) 資具(生活の為の道具、器具)、 (10) 後有及び無有(未来と断見)といえり。」)
大乗仏教、特に法相唯識では、仏や涅槃、無漏法に執着することは貪に収める(貪であると位置づけされる)が、有部の教説では、上地や無漏を貪ることは善法欲(『倶舎論』巻第十九。大正29・102b~c)と位置付けされている。
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