唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』 四月度講義概要 (2)三性分別門 (2)

2016-04-19 00:06:01 | 『成唯識論』に学ぶ
 

 第八阿頼耶識は、無覆無記なりと結ばれましたが、では、無覆とは?無記とは?如何なることなのかという疑問が出てきます。この問いに答える形で、無覆無記の名義について説明されます。
 阿頼耶識は無記だというところに、僕は救われるのです。若し、阿頼耶識が善であるか、悪であるかが一方的に決定されていましたら、僕はここに生きる術を失ってしまいます。自分から言えることではないですが、過去の経験のすべてが許されてある、過去の経験を引きずって、背負って現在の姿があるわけですが、その全体が無記性ですよ、と。今あなたは何処に向かって歩を進めているのですか。過去の為した業は消え去るもではありませんし、悪業が許されるということはないでしょうが、菩提を求めることは許されてある。そこに僕は限りない恩徳を感じます。そして慚愧をいただきます。
 人倫の道にはずれるようなことを平気でしてきたわけですから、いつ闇に葬り去られても文句はいえないんですね。また過去を見つめます時に、胸が痛むわけです。「あんた勝手なことをしてきて、いまさら何をいってんねん」と言われるでしょうね。墨林さんはよくご存じだと思いますが、そんな僕でも、仏法を聞ける、聞くことを許されている。過去の悪業を許してもらう為に仏法を聞いているわけではなく、過去の悪業に向き合って、無記の貴方が、人間として菩提を求めよという声を聞けという催促に耳を傾けていくことが、生かされていることへの応答ではないのかなと思うことです。
 無覆無記の名義について。最初は覆について解釈されます。
 (1) 覆とは、覆障。
 (2) 覆障の体は、染法。
 (3) 何を覆障するのか、聖道を障へる。
 「覆と云うは、謂く染法ぞ。聖道を障へるが故に。(『論』第三・五左)
 「述して曰く、何をか無覆と名づけるとならば、覆と云うは覆障ぞ。体は即ち染法なり。覆の義は如何ぞ。聖道を障えるが故に。」(『述記』第三末・三十二右)
 覆というのは、覆障という意味であり、(煩悩等が)心を覆い隠してその心を不浄にしてしまう。だから覆は染法であり、染法は聖道を障礙することになりう。仏道の妨げになるということですね。
 「又能く心を蔽って不浄なら令むるが故に。」(論』第三・五左)
 覆とは、心を蔽いかくしてその心を不浄にしてしまうということ。それが覆の指し示している意味だと教えています。
 「又(マタ)能(ヨ)く心(シン)を蔽(オオ)って不浄(フジョウ)になら令(シ)むるが故に。」
 「述して曰く、合(ガッ)して二義(ニギ)を以て其の覆(フク)の字を解す。即ち覆とは覆蔽(フクヘイ)するなり。心を蔽って浄(Iジョウ)ならざら令むるが故に名づけて覆と為す。」(『述記』第三末・三十二右)
 また、慈恩大師窺基の著述であります『樞要(スウヨウ)』の釈は注意して読まなければと思っています。
 「蔽心(ヘイシン)とは二有り。一に法性心(ホッショウシン)、二に依他心(エタシン)なり。」(『樞要』巻下本・二右)
  『樞要』は正式には、『成唯識論掌中樞要』(ジョウユイシキロンショウチュウスウヨウ)といい、唐 · 慈恩大師窺基(ジオンダイシキキ) の作です。
 覆(フク)の解釈について二義挙げられていましたが、第一の覆障(フクショウ)につきましては昨日述べましたので、第二の意義について述べさせていただきます。第二の意義は「覆蔽(フクヘイ)」であると教えられています。
 染法(ゼンポウ)が心を蔽って不浄にする。染法は無覆無記(ムブクムキ)の心を蔽ってですね、心を汚くするという、具体的には煩悩・随煩悩です。煩悩・随煩悩は縁に触れて自らの中から出てきたものです。外から蔽ってきたのではないのですね。それが外から蔽ってきたと思っています。それが煩悩生起の因ですね。
『樞要』の注釈にですね、何を蔽うのかということに対して、
 一つは法性心、法性心は浄らかな心です。清浄心、それを蔽う隠してしまう。
 もう一つは、依他心、依他は他に依る、縁に依って生じるもの、因縁所生の法です、縁起されたものです。
 この二つの意味から教えられることは、無覆無記である阿頼耶識を覆ってしまうことと、現実の動いている心を蔽ってしまう、つまり私の現実に動いている心を蔽って、本当でないものを本当にするという過ちを犯してくるのですね。それで二つの意味を以て「覆」というのだと。

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