唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2010-09-23 19:40:33 | 聞法の意義
 小・中・高の夏休みは先月末日を以て終わり、夏のいろいろな思い出を胸に第二学期の授業に励んでいますね。今日は気温もぐっと下がりました。一気に長袖です。秋は短いのでしょうか。異常気象に依って、紅葉もずいぶん遅れているようですが、行楽の秋・読書の秋・芸術の秋と、秋の夜長を楽しむ時節になってきたようです。私事ながら、息子の大学一回生の夏休みが終わり、後期の授業が明日から始まります。夏休み前に前期の試験も終っていて、おおいに学生生活を送っていたようですが、将来の目標が有るのか、ないのか、はっきりしなくて親としてははらはらどきどきの日常です。勉強好きの学生は勉強に精をだし、スポーツ好きの学生はスポーツに精をだし、遊びが得意な学生は遊びの中から自分にとって何が大事なことなのかをつかみ取ってもらいたいと思っています。先日も息子さんが司法試験に合格して喜んで話されていた知り合いの方がいらっしゃいました。嬉しかったと思います。一生懸命に頑張って、努力をして、難関を突破して掴みとられた栄誉には心から敬服し、おめでとうといったあげたいです。しかし大切なことは、一つの形から何を学ぶかなのですね。その点をはずしてしまいますと、合格・不合格或いは勝つ・負けるという差別を生みだしてくるのです。“生きていること・それが奇蹟”という眼差しが必要なのではなでしようか。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大きなるよろこびなり・・・また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて・・・」(『横川法語』)真聖p961)という眼差しですね。私たちは仕事に関しても、出来る人・出来ない人と差別をして接してしまいます。出来る人を優遇し、出来ない人を冷遇するという構図が成り立っているようです。子どもにしても出来る子・出来ない子と差別をしながら子育てをしているのではないでしょうか。恐らくそんなことはない、と否定されると思いますが、心の奥底ではどうなんでしょうか。勝てば官軍・負ければ賊軍ではないのですね。共に命をつなぐともがらなのです。この一点に立たれたのが親鸞聖人ですね。仏教学に立たれたのではなく、仏教の学びは自己と自己を存在させる大地、すなわち、身と土の問題に自分を尋ねられたのではないでしょうか。「共に是れ凡夫ならくのみ」(『十七条憲法』第十条・真聖p965)ここに本当の私の立脚地があると思いますが、いかがでしょうか。

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