新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
私たちは、生まれてからこの方、私と、私を取り巻く環境と、私のものという存在が有ると信じて疑いません。論者は問いを提起します。
「もし、私(我)と、私を取り巻く環境と、私のもの(法)という認識と存在が、ただ、心の働きだというのであれば、どうして世間や経・論・釈の聖教に我・法が存在すると説かれているのか」と。
慈恩大師は「唯(ただ・ゆい)は境(対象・相分・ノエマ)の有(実体的存在)を遮す(否定する)。有に執(執着)するものはその真(本当の在り方)を喪う(そこなう。失う)。」と解釈されています。
世親菩薩は「仮の存在・仮の認識に基づいて。我・法があると説く」と答えられます。
仮の存在、仮の認識という、「仮」が大事な意味をもってきます。すべての存在は一瞬たりともとどまることなく、例えばナイアガラの爆布のように、常に新しいしぶきを立てているのであって、流れを固定的に、実体的に執すれば、尽日を見失うと教えているのですね。でもね、真実に触れる機縁は、固定的、実体的にすべてものは存在するとする認識から始まるのです。
お正月三が日は、神社・仏閣は初詣でにぎわいますね。貴方はお参りに行かれましたか。お賽銭を手向けられて、その時の心の情景を思い浮かべてください。私は、私の幸福をお願いしているのですが、他者も亦自身の幸福を願っておられるのですね。そうすれば他者は非常に身近な存在に感じます。それが私という仮の存在を通して、つながりを生き、つながりに生かされている存在へと目が開かれていくのではないでしょうか。
また。
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