今回は、第二の論破、無体非因儀難(ムタイヒインギナン)という、体が無い存在は存在の因とはなり得ないという点からの論破になります。
「過去と未来と不相応法とは、実有の体に非ずということ、已に極成してしが故に。(論』第四・五右)
(過去と未来と不相応法とは実有の体ではないことはすでに部派仏教の間でも認められているからである。)
このことは既に破斥したことでもあるわけです。
過去は現在に影響を与えてはいますが、すでに過ぎ去った存在なのですね。また当来の未来は、未だ来ない存在です。また不相応行法とは、縁に依らずに存在するものではなく(つまり実体として存在するものではない)実有の存在を生じる因とはなり得ないと論破しています。
何故ここで過去を取り出して経量部は反論するのかという問題が出てきますが、滅尽定で六識が消滅するけれども、滅尽定から出た後には、消滅する以前の種子が次の識の因となるんだと反論しているわけです。
ですから護法は過・未は無体であると。過去も未来も、不相応行法もすでに実有の体ではないと説き終わっているので再論はしない、また部派の間でも無体であることは認められているのです。
「過去と未来と不相応法とは、実有の体に非ずということ、已に極成してしが故に。(論』第四・五右)
(過去と未来と不相応法とは実有の体ではないことはすでに部派仏教の間でも認められているからである。)
このことは既に破斥したことでもあるわけです。
過去は現在に影響を与えてはいますが、すでに過ぎ去った存在なのですね。また当来の未来は、未だ来ない存在です。また不相応行法とは、縁に依らずに存在するものではなく(つまり実体として存在するものではない)実有の存在を生じる因とはなり得ないと論破しています。
何故ここで過去を取り出して経量部は反論するのかという問題が出てきますが、滅尽定で六識が消滅するけれども、滅尽定から出た後には、消滅する以前の種子が次の識の因となるんだと反論しているわけです。
ですから護法は過・未は無体であると。過去も未来も、不相応行法もすでに実有の体ではないと説き終わっているので再論はしない、また部派の間でも無体であることは認められているのです。