唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(19)第五・経言無属難(5)

2018-04-08 21:23:21 | 阿頼耶識の存在論証
 第三は、余非受熏等難です。
 受熏処の問題です。種子を熏習する場所はどこなのかが問われています。
 「諸の色等の法は、識に離れては皆無しといい、熏を受け種を持すということも、亦已に遮してしが故に。」(『論』第四・五右)
 (諸々の色等の方は識に離れてはみな存在しないといい、熏習を受けて種子を保持するということも、また既に否定されているからである。)
 本科段は経量部の根幹をなす色心互熏説を論破することになります。
 色は身体的要素
 心は精神的要素といっていいと思います。熏習の解釈の相違に目を向けますと、私たち日頃の考え方にも大きな示唆を与えていると思います。たとえば,香料と衣服を一緒に置くと,その香りが衣服に移り,衣服にもともとなかった香りが残るように,あるものの性質が他のものに移行することを熏習といいますが、この場合,衣服に残った香りに相当するものを習気 (じっけ) または種子 (しゅうじ) と云われ、この考え方は、外界の物質と人間の心とが日常互いに熏習し合うとする経量部の色心互熏説に内含され、経量部は阿頼耶識は必要はないと主張しています。それに対し大乗仏教の唯識説では、身体的行動,言語のうえでの行動、精神的な思考のすべてのものが阿頼耶識に種子を残すとされます。
 経量部の色心互熏説の主張を論破しなければならない必要があったのですね。そして色心互熏説の誤りを正すことも必要であったわけです。
 しかし、これらの問題は、種子の六義の持種証において明らかにされており、ここで言われることは既に遮せられている(否定されている)ことである、というわけです。

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