唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (40)九難義 (20) 唯識所因 (18)

2016-06-27 20:33:52 | 『成唯識論』に学ぶ
  宗純が24歳になった時のことです。瞽女(ごぜ:盲目の女芸人)が語る「平家物語」を聞いて無常観を感じた一休は、その時の気持ちを歌に詠みました。
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことではない)
この歌を聞いた華叟禅師は、歌の中にある“一休み”という言葉を宗純に授け、「一休」が宗純の号となったのです。


 この「一休み」という感覚、大事ですね。止まることを許さない厳しさが伺えます。
 今日は第四の量についてです。
 「所縁の法なるが故に、相応法の如く、決定して心と及び心所とに離れざるべし。」(『論』第七・二十一左)
 (宗) 「自識の所縁は決定して我が能縁の心及び心所を離れざるべし。」
 (因) 「是れ所縁の法なるを以ての故に。」
 (喩) 「相応法の如し。」
 「述して曰く、これは第四の唯識の量(認識・判断の根拠)なり。又復一切の自識の所縁は決定して我が能縁の心と及び心所とに離れざるべし。これ所縁の法なるを以ての故に。相応法の如し。相応法の体も所縁性なるが故に。有法は前に同なり。故にここに説かず。謂く一切の有無為のただ所縁の法なるは定めて識に離れず、このなかに即識といわざることは、有、無為は別なるを以ての故に。
 唯識無境を証明するために、その根拠を四つに分けて説明しているのです。本科段は最後の第四の量について述べているところです。
 私が認識をする対象は間違いなく、識体である心・心所を離れて存在するものではないのですね。そして対象となる一切法は所縁の法であって、識に離れて存在するものではないと証明していることになります。
 結びが、
 「此等の正理誠証非一なり。故に唯識の於て深く信受すべし。」(『論』第七・二十一左)
 ここまでが教証という経糸になります。その教証の中ではっきりさせていることは、対象(相分)と対象を認識する見分は心の具体相であるという構造を持っているということなんですね。捉えた対象は、我が心が捉え、我が心が認識しているに過ぎないということを明らかににしてきたのです。
 僕はここに仏教の救済の論理が語られているように思うのです。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(『歎異抄』第一条)
 「たすけられまいらせて」と段をくぎりました。僕は、ここに頭の下がった、慚愧をいただかれた念仏者のお姿をおもうのです。「どこまでいっても、聞法を積み重ねていけばいくほど「往生」とか「念仏」を自分の意で解釈をする自分に出遇うこと」が「助からん我が身が、助からんままに転ぜられていく世界に出遇っていくことが出来る」んではないか、と。
 僕は、ここにずっと疑いをもっているように思うのです。「頭が下がって世界が変わるわけはない」と。対象と自分を二分化しているのです。自分が捉えた対象という視線から、「我が思い」が見えてくるわけでしょう。
 一切は我が心が作り出した影像であり、我が心が認識している対象は実像ではない。しかし、影像を成り立たしめているのは他ならない実像と云う真如である。
 
 一切は我が心が作り出した影像であるという信知が「菩提のみずとなる」のでしょう。 
      

最新の画像もっと見る

コメントを投稿