唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 四分義 (4) 二分義について (4)

2014-11-07 22:30:39 | 初能変 第二 所縁行相門
 能縁の方をみてまいります。
 「若し心・心所に能縁の相無くば、能縁に不る応し。虚空等の如し。或は虚空等も亦是れ能縁なるべし。」(『論』第二・二十六左) 若し、心・心所に能縁の働きがなかったならば、それは能縁とはいえないであろう。虚空のようなものである。虚空には認識する作用はなく、能縁の作用がなくても認識できると云うのであれば、虚空もまた能縁であるということがいえるのではないのか。
 「心・心所には能縁の相有るべし。爾らずんば心等は応に能縁に非ざるべし、能縁の相無しと云うが故に、虚空等の如くと。・・・汝が虚空等は応に是れ能縁なるべし、能縁の相無きが故に、心・心所の如く、と。」(『述記』第三本・四十二左)
 「故に心・心所は必ず二の相有り。」(『論』第二・二十六左) 
 およそ心心所法は、みな見分相分という二分を持つものである。
 「識体転じて二分に似る」というのは護法の立場から説明しているものであり、難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」見分が識体という点から説明されたもので、認識する構造が混乱をすると護法から指摘されることになるのです。能縁・所縁という関係、見分以外に自証分を認めないと主張します。即ち、相分は見分によって変現されたものということになります。しかし、これでは万法唯識、一切不離識という構図は崩れます。三分説は能変と所変、所変に能縁と所縁の用があるという関係です。色法は心が変現したもの、相分なのです。唯識は相分であると主張します。「色法は心心所が所変として心に離れず」。外境といえでも識の内容である。識別する作用をもっているものです。此の辺はもう少し熟考する必要が有りそうです。見・相二分で説明されますと、心の正体がわからなくなるのでしょうね。

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