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穴にハマったアリスたち

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一言感想:週刊少年マガジン 「やっぱり波打際のむろみさん」

2009年07月23日 | 週刊少年漫画「マガジン」「サンデー」感想
■波打際のむろみさん #3「生存競争とむろみさん」

「むろみさん」目当てで「サンデー」から「マガジン」に乗り換えて2週目。
今週もやっぱり「むろみさん」は頭がおかしいです。
この作者さんは何者ですか。どうしてこうも人魚さんのツボを押さえてますか。

ただのサカナ以外の何者でもない むろみさんが色気に溢れています。
やっぱり三枚下ろしプレイはデフォですよね。猫やカモメに怯えてこそ人魚さんですね。巻末には「ピッチピチ」なんて不穏当な単語まで。
もう劣欲が止まらない。

ただ一つ納得がいかないのが、何故にむろみさんにはヘソがありますか。
奴らは卵で増える下等生物だというのに。
好意的に察するに、あの窪み状のヘソらしきものは擬態なのでしょう。化け魚め…!

あと巻頭のヒロインキャラによるグラビア企画に、むろみさんも呼んであげてください。
水着に着替えてもらってもありがたみが欠片もない。
それが人魚さんの素晴らしさ。

■めだかボックス

他誌ですが「水」つながりで。
クラブ対抗の水中競技大会が開催されているのですが、ちょっと突っ込みたい。
「あくまで漫画上の演出であり、現実に即す必要はない」ということは承知の上で。

まず先週号にて、「息を吐きだして浮力を捨てることにより、通常よりも早く潜水する」行為が「危険を顧みない捨て身技」と称されていました。
実際はこれ、泳ぐ人なら普通にやってます。
多分、泳ぎが苦手という人はここを勘違いしてるんじゃなかろうか。
泳ぐときは、息を吐きながらの方が泳ぎやすいんですよ。
浮力による抵抗を減らすのと、吐かないと息継ぎできないという単純な理由で。

私も潜水50メートルくらいは問題なくできてたのですが、その際は肺は空にして泳いでました。
もちろん特に危険というほどのこともでない。逆に肺に空気入ってたら無駄な労力がいるので無理。
(ついでに、これくらいは「普通」であって自慢になるほどのレベルでもない)

今週号では「水中二人三脚の競技で、走らずに泳ぐ」というのが大技扱いされてました。
学生時代、休日ともなれば一日12時間以上、足のつかないプールに浮かんでいた私らとしては、それくらいはやっぱり普通です。
両手足が使えない程度で溺れてどうする。…というか、「走る」方が難易度高い気がする。

全般に「水中でやるというだけで、陸上と変わらない」という説明もなされてましたけど、こと水中戦に関しては陸上生物は話になりません。
バスケが上手い人は、サッカーや野球もそこそこ出来るものですが、水の中は別世界。
私の場合は逆に水の中の方に慣れ過ぎて、陸上で足を踏ん張りながら遠投するよりも、水に浮かびながらの方が遠くまで投げられる体になってた。

そしてそんなんだから、人魚さんに対し羨望の感情を、海洋性ほ乳類に対し恐怖の感情を植え付けられたんだと思う。
水中であんな高機動するの無理だから。なまじ水中生活してただけにリアルに悟れてしまう。
ライオンに襲われても、まぁ普通に喰われるでしょうけれど、一矢報いることくらいは期待できるかもしれない。でも水中でイルカに襲われたら一方的に嬲り殺しですよ。おぞましい…!

とりあえず突っ込まないと座りが悪かったので書いてみた。
念のため補足すると、「めだかボックス」さん自体は好きです。
「ジャンプ」さんには珍しい方向性だと思うだけに、頑張って欲しいです。

■蛇足

「溺れる」とかのワードを使ったので、余計なことも書いてみる。
基本的にはある程度の泳力がある人間なら、服を着たままだろうが足がつろうが両手を縛られていようが、通常は溺れません。だから「泳力がある」というわけですし。
ただし、湖や池で泳ぐ時だけは注意が必要です。

海と違い、湖や池は周囲から隔離されているため水の対流が起きづらく、水温が場所によって大きく異なります。
そのため生ぬるい水の中を泳いでいたと思ったら、突然に冷水の領域に突っ込んだりする。
そうすると急激な温度変化に筋肉や血管が収束し、最悪の場合、いきなり心停止します。風呂上りに冷水ぶっかけられるようなもの。

こうなるともう泳ぎの上手い下手とは無関係に、一発で溺れます。
傍で見てる分には何の危険もなさそうなところで、いきなり溺れるわけだから結構な怪奇。
これが河童を初めとした淡水系の妖怪の正体の一つだったりする。「水に引きずりこむ」妖怪の多くが淡水系なのもこのせい。

意外と知られていないことのようなので、念のため。
リアルに命に直結することなので、洒落になりません。
季節柄、泳ぎに行く人も多いと思いますのでご参考までに。

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ディケイド蛇足:ルーシーモードモンゴメリもハピネスハリケーンの悪夢を見てる

2009年07月23日 | アニメ・日曜朝 感想その他
数時間の差で早い者勝ちした。わぁい。

メタ解釈的「仮面ライダーディケイド」(ランゲージダイアリーさん)

読んで感じたことを私も書いてみる。

「ディケイド」さんにはメタ的側面を非常に強く感じます。
劇中で語られてることが、自分らの今の環境とひどくマッチするような気がするんですよ。
音也父さんの「このシリーズが最高なんだ!見ろ!」という押し付けも、鳴滝さんの「原典を一切汚すな変えるな続編もリメイクも認めん」も、長期シリーズものではよく見かけるもの。

そういう自分にとって大事な番組があること自体は良いことなんですけど、大事に思うあまり批判のための批判をするの良くないなぁと。
批判もテンプレ化して来ていて、酷いのになると「見るまでもなく駄作」「明らかにつまらない」「批判は作品のためだ。無条件で受け入れろ」等も珍しくありません。
逆に批判以外の感想もテンプレ化してしまって、コンテンツを物凄い勢いで食いつぶしていってる面もありますし。

で、最近はネットを見ててもそういったシリーズ毎の対立や批判・テンプレに辟易し始めてる人が増えて、反動が来てるように感じます。
そのタイミングで「ディケイド」のこの展開は絶妙だなと、勝手に感動してしまってる。
やっぱバンダイ様や東映様は凄いや。

私の場合「555」に一番思い入れがあって、単純なストーリー上の面白さ等々とは違う部分に格納されてます。
「ディケイド」の影響で、「555」劇場版を初めて見た時のことを思い出しましたけれど、熱かったなぁ…。
クソ暑い夏休み中に、自転車こいで映画館まで見に行って、感動したんで友人に連絡とって呼びつけて、そのまま2周目を見ました。
そういう思い出が「帰る場所」「原典」としてあるもんだから、ストーリーが変わったとか設定変更されたとか役者が違うとか、そんなもんではブレないです。
大喜びして受け入れられる。

ついでに書くと、その時の友人とは毎年ライダー映画を見に行くのが恒例行事になってます。
ちょうど盆の時期だし、プチ同窓会。
多分今年も行く。今の30代前後の層だと、こういう人も多いと思うんですよ。
私みたいなのの他にも、学生の頃に「ライダー」を見てて今はお子さんと見てる人とか。
「10年に一度のお祭り企画」ってのは、単に10周年という以外にも、こういうタイミング的な部分も大きいんじゃなかろうか。

ニチアサさん他、週末朝アニメが他コンテンツと比べて圧倒的に優位なことに、放送曜日と1年シリーズということがあるように思う。
繰り返しになりますけど、もはやお話それ自体だけでなく、見ていた当時の思い出とリンクしてる。
「週末の朝」なんてその時々の生活を如実に映します。嗚呼、そう言えばこの回の頃、休日出勤してたなぁとか。この回の後、どこそこに出かけたなぁとか。
1年できっちり区切りもつくので、益々その影響が顕著。例えば「ケロロ軍曹」も10周年ですが、あちらさんは毎年それほど内容が変わらないので、あまりこういう懐かしさ的なものがありません。
(逆に変わらない安心感という強みを持つので、総合的にどちらが優秀かということでもないですが)

前に「何でもディケイド化できる」「でも思い出や原典がある限り、破壊ではない」と書いたものの、こういうバックボーンがないと逆にディケイド化もできない気がする。
「ディケイド」がただのパロディではなく「ディケイド」として成立するための必須要件は、「テーマを抽出している」ことにあると思ってます。
取りたててテーマも何もない短期消費型のコンテンツだと、これが出来ない。
ということは定義から言って、「ディケイド」化できる話は決して「ディケイド」化によって「破壊」されないってことになるのかも。

で、もう一つ↓を読んで思った関係があるんだかないんだかなこと。

少女創作の二作目~ルイザ・メイ・オルコットはハピネスハリケーンの夢を見たか?~

私は「赤毛のアン」がベースの人なのでそれ基準で書くと、真面目に言って「プリキュア」さんは100年後には「赤毛のアン」と似たような立場にいるんじゃないかと思う。
たかがアニメで…という声もあるかもしれませんが、それを言ったら「赤毛のアン」もただの娯楽小説です。
別に御大層な文学小説として書かれたわけではない、ただのお遊びコンテンツ。それが今日までこうして残っているのだから、「プリキュア」さんだってそうなっておかしくないと思うんだ。

それと「赤毛のアン」も結構なシリーズが出ていて、シリーズ毎にファンの対立があったりします。
対立というか、第1巻「赤毛のアン」が強すぎてそれ以降の巻を蛇足と呼ぶ人が少なくない感じですけれど。
「好きなキャラは?」「マリラ!ブライスの方の!」が持ちネタの私としては肩身が狭い。

「赤毛のアン」は(事実上公式の)劇場版も作られました。
主演のミーガンさんは3000人のオーディションを文字通り血肉を削って生き残り、アン・シャーリーとしてしばらく生活して心身ともに改造しきった後に撮影開始という病的な苦行をする羽目に。
それくらい「原作」が重要視されてました。
ちなみに映画の続編は、何を間違ったかほとんどオリジナル展開に走ってしまい、各方面からバッシングの嵐。
原作に準拠してるかどうか以前に、色々問題のある映画ではありましたが、ファンの原作に対する拘りは半端じゃない。

何が言いたいかといえば、「赤毛のアン」時代から人気が出ればシリーズ化されてたし、そうなると各シリーズにコアなファンもつく。
迂闊に改編やメディア化するとオールドファンが大騒ぎするのも昔から同じ。
特に「公式」でそれをやることに拒否反応を示す人はかなり多い。「非公式」ならば「赤毛のアン」ミュージカル等々、幾らでもありますけれどね。
「同人誌は認める(というか気にしない)けど、公式での改編は不可」というのと同じ心理だと思う。

それを踏まえると、改めて「公式」で改編をやってる「ディケイド」は思い切ったことをしたなぁと。
大げさに言えば神話の時代からシリーズコンテンツは存在するわけですけど、その時代から今日にいたるまでこの手法は実行されてないんじゃなかろうか。
まぁグリム童話や太古の歴史書等々はそんなノリな気がしないでもないですけど、「原典」が公開情報の状態でやったのはなかなかない気がする。

ところでテーマさえ抜き出せば「ディケイド」になるのだから、「赤毛のアン」や「若草物語」でも「ディケイド」はできますね。

ディケイド姉:
 「…想像に浸る毎日は、現実から目を逸らしているだけなのかもしれない」
 「でも人はそうやって、辛い日々に小さな幸せを見出していくことができる」
 「そして曲がり角の向こうの景色を見るために、力強く歩いていくのよ!」
 「まだ失敗のない今日と明日を信じてね!」

 がしゃこん!

 『Rider of Arts ... Century!』

 ジャーラララジャーラララッジャーラララッジャーラララ、ラララッ♪


…しまった。また世界が浸食された。おのれ世界の破壊者め!

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