幼い頃、雛祭りというと実家ではお雛様を飾ったものだ。今でも桃の節句が近づくとあのお雛様のことを懐かしく思い出す。
家にあったのはいわゆる御殿飾りだったので、飾るとなると一仕事となり、それこそ一家総出で、父が仕事で忙しいと母はあれこれやらねばならず存外手間暇がかかるものだった。しかし、そうした時間は子どもだった私にとって非日常であり心浮き立つかけがえのない時だった。
飾りつけのための手順はこんな風だった。
第一段階は、大小の机を出し父の本を本棚から出す。それを積み重ねて階段状にしてその上に赤い毛氈を敷いて雛壇を作る。
それが整って初めてお雛様の入っている木箱が座敷にたたたっと広げられ、その中でもまずは「御殿」と書かれた木箱が最初に開けられる。
妹と私は早くお人形を出したくてたまらないのだが、人形を出してしまうと御殿を組み立てるのが場所も取るし大変になるので厳にそれは戒められていた。
何しろ御殿が組み上がらない限りお雛様をはじめとするお人形の出番はまだまだで、大屋根、小屋根、たくさんの柱、飾りとなる様々な小さな部品たちを前に両親が毎年奮闘していたのを覚えている。
父が忙しいと、母が一人でああでもない、こうでもないと金の小さな部品を手にどこに置くものだったかしら?と考え考え組み上げてくれていた。
そうして、ようよう御殿が出来上がると、ああ今年も会えたね!と次々お人形を別の箱から出して並べていく。
お人形の一つ一つの顔には柔らかい和紙がかけられていて、それを丁寧に外して飾っていくのである。
お内裏様、お雛様、三人官女、右大臣、左大臣と呼び習わしていた随身、五人囃子、それと靴を持ったり槍のようなものを持ったりしている三人組の仕丁、三人上戸と呼んでいた気もするが、私なぞは三人まとめてお供の人と呼んでいた、など飾っていった。
お人形が並ぶと、彼ら一人一人が持つ小さなものをまた別の箱から出し、ああでもないこうでもないと持たせていった。
こうして飾られたお雛様は美しくて、子供心にうきうきとした感じとある種の晴れがましさとを秘かに味わったりしたものだった。
実家のお雛様が飾られなくなって久しいが、いつでもこうして雛祭りの季節が近づくと生き生きとその思い出がよみがえってくる。
4年前に名古屋陶磁器会館の凸盛り体験で作った雛飾りのお皿はあるが、我が家は男の子なので雛人形は持っていなかった。(ま、ここにお雛様がいるけど
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!!と心密かに思ってたし)
そんな私に今年のお正月、母が手作りの兎の雛人形をプレゼントしてくれたのである。
丁寧に一針一針縫って作ってくれたその雛人形をそおっと、やはりこれも母の手による刺繍の敷物の上に出して飾っている。