豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

乗れぬ人、降りれぬ人

2001-12-16 22:23:03 | Weblog
12月16日(日) 曇時々雨

 台風一過

6:00amにポナペ到着の予定でした。しかし台風の影響で海は大荒れで、5:30pmにポナペ沖に投錨。ここは日没後の船の出入りが禁じられているために、双眼鏡で島を眺めるしかありません。昼間のシケが嘘のように波は静かになり、美しい夕焼けを見ることができました。それでも、最後の寄港地に上陸できなくて残念と、ため息が甲板にあふれていました。

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    乗れぬ人、降りれぬ人

8:00ミクロネシアのポンペイに入港の予定が、台風の影響で大幅に遅れて17:30ポンペイ沖に到着。6人の下船と2人の乗船が予定されていたが、接岸もテンダーボートでの上下船も不能と判断して、19:00進路を神戸に向けて発進。日本から4日をかけてポンペイに来ていた水先案内人2人は更に3日ほどかけて空路帰国することになろう。往復とも交通費や宿泊費など、一切合財が自分持ちだ。ポンペイは人口11万人で、めぼしい観光資源もない。メインストリートも日本の田舎村並だという。

下船を予定していた陶芸家夫婦は、船酔いに耐えながら生徒の作品を大切に荷造りして待ち構えていたが、更に1週間の悪夢が続く。陶芸教室を再開することも可能だが、今はロクロを見るのも厭だろう。

JGスタッフのH男も窮地に陥っている。彼はサラ金に300万円の借金があり、精神病院に潜伏後オリビア号に乗って日本脱出を図った。12月23日に晴海に戻ると、2日後の12月25日には次のクルーズに出航の目論見だった。しかし敵もさる者で、居場所を突き止めると船に無線電話を何度もかけてよこして、清算のため1週間下船を早めなければならなかった。彼はまた1週間無線電話攻勢にさらされた挙句に、次のクルーズに乗船の予定も変更せざるを得なくなった。住む家も冬服も金もない彼は、29年の生涯で最悪の大晦日を迎えそうだ。

乗客のB子、32歳の看護婦だ。連日ミュージカルの稽古で汗をかいたのが原因なのか、1週間前から全身に湿疹ができて受診した。3,4回受診してよくならないので、ポンペイで下船して空路帰国し日本の皮膚科に入院をするそうだ。熱帯医学上重大な病気である可能性もあるので、航空運賃を支払って付き添いもつけろと要求していた。医務室やPB事務局で連日何時間も駄々っ子ぶりを発揮していたが、振り上げたコブシのやり所に困るであろう。



読書:「地方分権事始め」 田島義介

映画:「陽のあたる教室」

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エスペラント

2001-12-15 22:22:15 | Weblog
12月15日(土) 雨時々曇(台風)

  パーフォーマンス

また台風接近ガ接近しています。今度の航海で台風は3度目です。大波のために航程が遅れています。寄港地ごとにピースボートの若者たちは色々のパーフォーマンスを行います。琴や三味線のような楽器から、歌、踊り、手品や落語や合気道なんてものまであります。必ずしも毎回上出来ではありませんが、地元の人たちは日本のようにせかせかしていませんから最後まで見物してくれます。投げ銭も飛びます。中には飛び入り参加したり、そのまま街の案内役を買って出る人もいます。

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  エスペラント

ザメンホフは1859年12月15日、ロシア領ポーランドのリトアニアのビヤリストックでユダヤ人の両親から生まれた。リトアニアは中世以来ドイツ藩王、ポーランド王国、ジンギスカン帝国、プロシア帝国、ロシア帝国、ナポレオン帝国などの支配下に置かれた。

リトアニアはコペルニクス、カント、ショパン、キュリー夫人、ローザ・ルクセンブルグなどの天才を生み、「国は滅んでも永遠に学芸の滅びない国」と言われてきた。

ビヤリストックの住人の7割はユダヤ人で、ユダヤ教会でヘブライ語を使い、街ではユダヤ語を使った。2割はポーランド人で、天主教会でラテン語を使い、街ではポーランド語を使った。1割はドイツ人とロシア人で、それぞれプロテスタントの教会と街でドイツ語を使い、ロシア正教会でスラボーナ語の聖典を読み、街ではロシア語を使った。小数のタタール人はイスラム教会でアラビア語の教典を使い、町ではトルコ語を使った。ジプシーはジプシー語を使った。このように小さな町で、主な言語が4種類、細かく見ると13種類の言語が使われ、人種や宗教や文化や世界観が衝突しあう環境であった。

ロシア皇帝政府の憲兵や役人は威張りくさり、ポーランド人やドイツ人は陰でロシア人を馬鹿にしながら、ユダヤ人やタタール人やジプシーを蔑むことが当然のように行われていた。

子供の頃から、すべての人々が完全で平等な権利を持って話す言葉を持ち、人種や宗教などを越えて、お互いに分かり合い、愛し合い、幸福な世界を築けるような世界をザメンホフは願い続けた。十代の彼はロシア語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語などを学び、世界共通語の創作に没頭した。しかしそれは、ロシアの圧制に対して戦うポーランドの独立運動の闘士たちが、暗号や秘密の言語を使用していたので、危険な研究だった。

1867年、国際的労働運動を指導する第1インターナショナル第2回大会で「世界語は共通の利益である」と決議され、世界共通語の研究は各国でも進められていた。ドイツ人のシュライエルは40ヶ国語を学んだ語学の天才であった。彼は1879年、世界語を創作し、発表した。しかし、欠点が多く実用に耐えるものではなかった。

1887年、19歳のザメンホフはエスペラントの「第1書」の学習全書を発表した。これは16条の文法と、915語の単語と、6つの短い例文からなる小冊子だった。トルストイは「私は2時間足らずの学習で、まだ書けないにしても、読むことは自由にできた。私は人間が、ただ外面的な障害から憎みあう場面をたびたび見てきた。エスペラントの学習と普及とは人生の唯一の主要目的たる神の国を築くことを助ける仕事であることは疑いもない」と述べた。

アピアから水先案内人として福山市に窯を持つ陶芸家夫婦が乗り込んできた。陶土1kgで3000円の陶芸教室をやっている。しかし東京からパッセンジャーとして乗っている別の陶芸家が何度も、自主企画の無料の陶芸教室をやっているので、客足はさっぱりだ。PBから頼まれて医務室の3人でサクラの客になったが、夫婦とも船酔いでかわいそうだった。

17:00よりGETミュージカル公演「コモンビート」の収録リハーサルを観た。乗客70人以上が3ヶ月間練習してきた成果が今夜2回公演される。21:00からサダコバーで小幡、竹花とウクライナ人ピアニストの演奏を聴いていると、22:00ミュージカルの公演がはねて出演者たちが打上げにやってきた。船内には5箇所のバーがあるが、他のバーも珍しく混んでいる。ウクライナ人クルーで貸切のバーもある。今日はオリビア号の25歳の誕生日でもある。ドニエプルバーで24:00まで飲んだ。



読書:「ザメンホフ」 伊東三郎

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日本語

2001-12-14 22:21:39 | Weblog
12月14日(金) 曇時々雨

 ピース・ボール・チーム

世界各地を転戦している我がピースボール・チームは今回も成績が不振です。ラスパルマスで子供チームから1勝を上げただけです。甲板にはサッカーとバスケットができる運動場があります。オーバーヘッド・シュートは構いませんが、オーバーネット・シュートは困ります。

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   日本語

日本語はそれほど機能的な言語ではない。まず文字から言うと、アラビア数字を除いても、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字の4種類は覚えなくてはならない。アラビア数字は0から9の10種類しかないが、漢字にも数字があり0から9まで複数の字がある。1は一であり、壱でもある。十、百、千、万など多くの漢字があり、拾や萬などとも書かれる。

五十音などと言われるが、濁音や半濁音や促音などを加えると、ひらがなでもカタカナでもそれぞれ100くらいの字を覚えなければならない。仮名は表音文字で、聞いたとおりに書けるから簡単だというが、two やpartyなどという言葉をワープロで打つのは結構難しい。「トー」や「ツー」になったり、「パーテー」や「パーチー」になる。それに仮名だけの文章なんて読むことはできない。20文字くらいの電文を読むのにかなり苦労する。アナタハカタカナダケノブンショウヲヨメマスカ。

漢字は普段使用される文字だけで2000文字だ。これを正確に読み書きするのは至難の業だ。そして同音異義語がとても多い。ためしに「きかん」とワープロで打つと、『帰還,聴かん、聞かん、期間、機関、器官、基幹、気管、,季刊、既刊、旗艦、奇観、亀鑑、貴官、貴簡、帰艦、帰館・・・』などと22も並ぶ。こんなクイズみたいな問題を試験に出して喜んだり、日本語が乱れていると嘆いているのが文部省だから、あきれる。

日本語は縦書きでも、横書きでもいける。そしてどちらも不便だ。縦書きでは数字やアルファベットなどが書けない。横書きでは新聞や文庫本の割付が組めない。小学校の教科書は国語が縦書きで、算数、理科、社会科、音楽は横組みだ。

日本語は外国人が学ぶのにも苦労が多いが、日本人自身も多くの無駄な努力を余儀なくされている。日本人は大学を出ても英語が使えないそうだが、日本語だって正確には使えないのだ。日本語の古文は外国語以上に難しい。日本の歴史の本に出てくる地名や人名は、そのすべてに仮名をふってもらわないと読むことはできない。現代社会でも固有名詞は難解だ。皇族や大臣の名前も読めない。新聞を読んでも難しい漢字に必ず出会う。活字離れ、漫画好きはこんなところに原因がある。

日本語の4種類2500文字と、英語の26文字では明らかな優劣の差がある。ワープロの入力速度が格段に違うし、誤入力の有無もまるで違う。日本語のワープロソフトは「変換」の作業が必要なのに、英語ではその作業が不要だからだ。



読書:「国際連合」 明石康

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日本語の背景

2001-12-13 22:21:05 | Weblog
12月13日(木) 晴

船体のペンキ塗り

水彩画教室でにわか絵師に変身した乗客は、牛乳パックから作った和紙に停泊港ごとに絵を描いて、絵葉書にして送ります。デッキから下を見るとウクライナ人の船員が相変わらずのペンキ塗り。「手伝ッテクレイナ」って言っています。

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   日本語の背景

以心伝心、言外の意、言外の言。「平行線は交わるし、無限は有限である」これは非ユークリッドの世界の話ではない。言わなくても分かるらしいが、それなら言葉は必要がないのでは?と考えるのは素人の浅ましさだ。

「はじめに言外ありき。言外は言葉とともにあり、言葉は言外なりき」ヨハネの福音書・日本バージョンである。「神が人を作ったのではなく、人が神を作ったのだ。この世に神が住めないように、あの世に人は住めないのだ」それじゃ神は言葉の中か、紙の中に住んでいるのだろうか?

「次の文章の行間から意味を汲み取れ」こんな試験もあった。「作者が本当に言いたかったのは何でしょう?」まるで黙示録の世界だ。

「言わなくたって分かるだろう?」何が分かればいいと言うのだ。言わなきゃ分からない。日本語の第1の特徴はこの曖昧さにある。

日本は単一民族・単一言語の国、というのは嘘だ。アイヌ人もいれば琉球人もいる。在日朝鮮人だってかなりいる。アイヌ人にはアイヌ語があるが、文字はない。琉球人は琉球語を話すが、やはり文字はない。琉球語は日本語の方言だ、という見方もある。その根拠は文法がほぼ同じで、共通の単語が多いことだ。朝鮮人はハングルを話し、ハングル文字を持っている。在日朝鮮人は日本人ではない、という主張は考え直した方がいい。

日本人は昔は日本語を話しながら、漢字だけを使用していた時代もあった。その後仮名が発明されたが、女文字として軽視されていた。次第に仮名混じりの漢字が使われ、漢字混じりの仮名の文章へと移って行く。しかし江戸時代までは、漢文の方が権威があるとされていた。これは学問や法律などを庶民から遠ざけることで権威や権力を独占しようとする保守主義である。話し言葉と書き言葉は別のものとされ、庶民には事実上読み書きを制限した。

明治に至りやっと言文一致の文章が書かれるようになった。しかしその後も書き言葉は話し言葉より上位にあると喧伝されてきた。法律や役所の文書がそれを示している。裁判官や役人は時々奇妙な言葉を使い、言語学者は書き言葉が先にあり、話し言葉は後でできたなどと、馬鹿なことを言っている。

はじめに言葉ありき、なのだ。




読書:「市民版・行政改革」 五十嵐敬喜・小川明雄

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読書と書評

2001-12-12 22:19:59 | Weblog
12月12日(水) 晴



    遅れてやって来た陶芸家

サモアから乗船した陶芸家夫妻は船は苦手のようです。夫婦揃って船酔いをこらえながらロクロを回しています。酔った時に回るものを見たり、細かい仕事をするとますます酔うことを知らないようです。それに東京から乗船している別の陶芸家がこれまで何度も陶芸教室を開いているので受講生が集まりません。急遽手の空いているスタッフがサクラの生徒に早変わり。

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   読書と書評

日本では毎日数10冊の本が出版されている。ほとんどは読むに耐えない本だ。「このたび私つまらない本を出しまして」と著者ははしゃぐ。出版の自由は憲法で保障されている。日本の文化と経済の下支えにもなっているのかもしれない。しかし資源の無駄使いじゃないのか。アマチュアやプロの文筆家、企業のプロパガンダ誌、定期出版物、その他の印刷物が先進国では溢れ返っている。読者は大変だ。毎日チラシと新聞に眼を通し、忙しい暇を見つけて自分の仕事に必要な本や、趣味の本も読まなくてはならない。時間と金を無駄にしないために、まず書評を読む。しかし、この書評がまた曲者なのだ。書評に惹かれて読んだけど、くだらない本だった、何てことも多い。だから書評の執筆者つまり批評家名を見てから書評を読まないと、間違いを犯す。それでいいのだろうか?

「私はこの論文を書くために数1000冊の本を読み、現場に何度も足を運んだ」という一文によくお目にかかる。これは嘘だ。「数1000冊」というのは素直に解釈すると5000―6000冊ということだ。毎日1冊読書しても10年か20年かかる勘定だ。

有名な批評家はあちこちの新聞や、雑誌に毎週たくさんの書評を書いている。1編の書評を書くためには、1冊の本を読まなくてはならない。これは割に合わない仕事だ。同じ書評をあちらにも、こちらにもというわけにはいかない。有名な批評家には講演というおいしい仕事も結構ある。読書の時間がなくても本業の書評は書かなければならない。

何かいい方法はないだろうか?書生というか、弟子に読書をさせ、書評を書かせて、自分の名前で出すのは危険が多い。

僕は毎日かなりの読書をするし、読めば書評を書くのが習慣になっている。そして口が堅い。僕が多忙な批評家のために、彼の文体を真似て書評を書いてあげると、彼は10万円の原稿料のうち8万円を僕に渡してくれる。彼は書評の対象となった本を買うと、肝心の本はちらりと眺めるだけで、10分もかけて僕の書評を熱心に読む。かつ僕の書評の原稿に少しアカを入れて、彼の名前で書評を新聞社や雑誌社に届ける。10万円の原稿料のうち2万円は税金だから、僕に8万円を払えば彼には金は残らない。しかし彼の名前で書評が世に出て、高額納税者として1年に1度、資本主義的成功者として業界紙にランク付けられる。僕には税金を払う義務はない。そんなことをしたら、僕は口の堅い人間ではなくなる。



読書:「マルチメディアと著作権」 中山信弘

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 失われた1日

2001-12-11 22:50:12 | Weblog
12月11日(火)???

 失われた1日

日付変更線を越えたので時計を24時間進めなければなりません。つまり今回の世界1周航海に12月11日は存在しないのです。この日が誕生日の人は不満そうです。僕は12月10日の午後11:50から12月12日の午前0:05まで屋台でビールを飲んで部屋に戻りました。3日飲み続けたんですよ。写真はある日の帰船風景。異国の街を歩きくたびれて船に戻ると「やっと家に戻った」と感じるそうです。

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    失われた1日

日付変更線を越えたので時計を24時間進めなければなりません。つまり今回の世界1周航海に12月11日は存在しないのです。この日が誕生日の人は不満そうです。僕は12月10日の午後11:50から12月12日の午前0:05まで屋台でビールを飲んで部屋に戻りました。3日飲み続けたんですよ。写真はある日の帰船風景。異国の街を歩きくたびれて船に戻ると「やっと家に戻った」と感じるそうです。
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日付変更線

2001-12-10 22:19:28 | Weblog
12月10日(月) 曇時々雨

   歓迎風景

ピースボートは1年に2,3回世界1周航海をしているのでどの寄港地でも大歓迎を受けます。地元のNGO諸団体や若者や警察や軍のブラスバンド、観光省のお偉方、時には大臣や首相が家族連れで出迎えてくれます。港では双方のパーフォーマンスが繰り広げられ、若者同士のサッカーの対戦で親睦を深めます。

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   日付変更線

オリビア号は日付変更線を越えた。今日の次の日は明後日ということになる。飛行機ではいつの間にか日付変更線を越えているので、理屈で納得するしかないが、船旅だと実感を伴う。日本と時差は20時間、これまで22回時差調整をして来たが、僕の時計には日付表示がないから、今夜は調整が不要だ。その後11日間で、多分4回時差調整をするのだろう。

大晦日の夜はいつも24:00過ぎまで起きていて、年越しそばを食べたものだ。しかし最近の10年ほどは家にはいないで外国で新年を迎えることが多い。2000年の元旦はY2Kで世界中が大混乱に陥るとのことで、本州で1番先に初日の出が見られる岩手県の宮古にいた。大山鳴動ネズミ1匹、僕のカーナビが変調をきたした。2001年の元旦は台湾の阿里山で初日の出を見た。その前日には北回帰線上に立った。

話はあちこちに飛ぶが、この航海90日間で、水平線から昇る太陽は1度も見ていない。水平線に沈む太陽は2度見る機会があった。雲の陰に隠れていても太陽は水平線から昇り、水平線に沈んでいるのだと言うのは理屈だ。ホエール・ウオッチングに行って鯨が見られなくても、そこの海面下には鯨がいたのだと言うのと同じだ。

エクアドルでは赤道間近まで行ったが、赤道上には立っていない。オリビア号はこの航海で既に5回赤道を横切っている。僕は船上で5度赤道上に立ったことになるが、飛行機の中で赤道に立ったのとたいして変わりはない。水や空気のような流体上では、単に通過したという感じで、到達感は希薄だ。海面や空中にこれぞ赤道という目印がないのでなお更だ。「ただいま本船は赤道を通過しました」とのアナウンスもなぜか納得がいかない。スエズ運河やパナマ運河を通過した時のような感動に欠ける。

12月11日が誕生日の乗客がいて、その人だけは23:00から24:00の1時間だけ12月11日にするとの船側の配慮で、甲板の片隅でささやかにバースデイ・ソングが鳴り響いていた。

僕は医務室、インフォメーションの4人に23:55プールサイドの屋台に集合の号令を発していたが、来たのは小幡、渋佐の2人。3人で3日2晩を飲み明かした。

時差調整の日に、24:00になると船内のすべての時計が23:00に逆戻りするというのは、どうやら小幡のジョークらしいことに気付いた。これまで10回くらい夜中に時計を見にプールサイドに来ていたのだ。

2:00バーも屋台も店仕舞いして、甲板に僕たちしかいなくなったので解散。



読書:「エビと日本人」 村井吉敬

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サモアの分割

2001-12-09 22:18:41 | 海外旅行
12月9日(日) 曇時々雨

      サモア

サモアは観光開発がされていません。それに日曜日は島民全員がの大半が教会に行くのでほとんども店は閉まっています。やっと見つけたレンタカー屋でクルマを借りて島内を1周。行けども行けどもヤシの木と田園風景。放し飼いのブタが道をさえぎります。それでも2箇所の滝を見て、景色の良い海岸砂浜でシュノーケリングができました。珊瑚礁はあまり発達していませんが、熱帯魚はたくさん見ることができました。

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   サモアの分割

6:00アピア入港。雨季のため土砂降り。朝食後、雨が小降りになった頃に小幡、竹花と下船。港でレンタカーを借りて、島の探検に出発。ヤシの木が茂る林の中に、ニッパヤシで屋根を葺いた壁のない家が点在する。サモアの人口は10万人だ。教会がやたらと目に付く。今日は日曜日なのでほとんどの店は閉まっている。ラバラバと呼ばれる腰巻にネクタイ姿の男たちが教会に集まっている。小さな島なのに川が多い。牛、豚、鶏が放し飼いにされていて、通行を妨害する。パパパパタイの滝やソポアガの滝などを見物し、12:30タパガ岬に到着。ラロマヌビーチで昼食を取り、スキンダイビング。珊瑚礁の状態はまずまずで、魚影は中程度。15:00に切り上げてアピア港へ。17:00帰先船。18:00よりデッキでサモアン・ダンスショウ。19:30出航。

サモアは紀元前500年頃モンゴロイドが定住を始めた。950年頃トンガ王国がサモアを支配したが、1250年頃独立を回復した。

1922年、オランダ人ヤコブ・ロッゲフがサモアに到着。1830年、イギリス人宣教師ジョン・ウイリアムズが上陸し、キリスト教の布教を開始した。

1889年ベルリン協定により、英米独の共同保護領となった。1889年には生計171度を境に分割され、東サモアはドイツ領、西サモアはアメリカ領にされた。

第1次世界大戦の1914年、西サモアはニュウジーランド軍に占領された。1920年ベルサイユ条約により、ニュウジーランドの委任統治領にされた。

1962年「西サモア共和国」として独立。1997年国名を「サモア独立国」に変更。米領サモアからはあまりいい感情では見られていない。



読書:「琉球王国」 高良倉吉

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世界覇権語

2001-12-08 22:18:07 | Weblog
12月8日(土) 曇時々雨

  食品庫

船倉にある食品庫は、大きく言うと常温庫と冷蔵庫と冷凍庫に分かれています。冷蔵庫と冷凍庫は更に小部屋に分けられて食品別に庫内温度の設定ができるようになっています。それぞれが荷崩れしないように工夫されています。食品庫と厨房は専用のエレベーターで直結されています。このエレベーターの途中に食材の搬入口があります。

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   世界覇権語

1941年12月8日、今から60年前に太平洋戦争が始まった。日米の戦争でありながら実際に戦場になったのは、ハワイ、ミッドウエイ、ガダルカナル、ラバウル、フィリッピン、サイパン、グアム、硫黄島、沖縄と太平洋の島々であった。これらの島々の多くでは現在では英語が使用されている。

英語はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インド、フィリッピン、シンガポールなどで話される。英語人口は世界60億人中およそ10億人だ。中国語、スペイン語、アラビア語と並ぶ最強言語だ。ロシア語、スワヒリ語、ポルトガル語が第2戦線だ。そして日本語やインドネシア語などの第3戦線が続く。

ピースボートの旅で感じるのは、英語とスペイン語とアラビア語をマスターしていれば世界1周で困ることが少ないということだ。船内の外国語講座で人気があるのは、英語とスペイン語だ。ロシア語の勉強も盛んだが、それはオリビア号の船員のほとんどがウクライナ人であるという特殊事情があるからだ。僕が不思議に思うのは、エスペラントの講座が船内で行われていないことだ。

英語は学術論文、通信、メディアなどで他の言語を圧倒していて、事実上世界の最重要語の地位を占めている。PC用語も英語で書かれることが多いので、今後ますますその地位を強化していきそうだ。言語は強力な政治性を内蔵している。言語は武器のようでもあり、貨幣のようなものでもある。宗教のようにある種のイデオロギーでもある。このまま成り行き任せで英語を世界標準語に指定することに何の問題もないのだろうか?

第1の問題は英語が言文不一致言語であることだ。スペルを覚えなければならないし、なんと読んだらいいのか分からない単語も多い。

第2の問題は、文法上の例外規定が多すぎることだ。複数形でも活用形でも必ず例外があるというより、例外だらけと言っても良い。

第3に、英語は世界覇権語で、民族の怨念がこもっていることだ。これは英語に限らず、スペイン語でも、フランス語でも、ペルシャ語でも同じことが言える。言語は通貨や暦よりも政治性を有しているからだ。結局新たな世界共通語を制定することがベストだ。



読書:「西郷隆盛」 猪飼隆明

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母語、国家語、方言

2001-12-07 22:17:25 | Weblog
12月7日(金) 晴

厨房

乗船客700人の胃袋を満たす厨房は2つのレストランをつなぐ位置にあります。陸上のホテルやレストランの厨房とほとんど変わりありませんが、船が揺れても食器や什器類が落下しないような工夫がされています。夕食のコース料理は350人ずつ2班に分かれて取ります。洋食は作った順番に配膳すれば済みますが、和食は1度に配膳するので苦労が多いそうです。

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   母語、国家語、方言

母語である話し言葉は、文法を学ばなくても自然に話せるようになる。だが、書き言葉はそのために特別の訓練が必要な、聖なる言葉だ。それは支配階級のために複雑なほど都合が良かった。宗教儀礼や権力や権威への畏怖の情を醸し出す、特権階級だけが理解できて、下層の民衆には解釈が困難なものが好ましかった。文法の誤りなんて、文法が定められる以前には全くなかったのだ。実用語が先にあり、文法は後から定められる。実は実用語が文法を所有しているのだ。大衆が俗語を言葉に持ち込むと、言語エリート達はその乱れを嘆いて、話し言葉を文法に従わせようとする。

日本では母語に文法を制定し、母国語とした。これは国民に正しい言葉を与えるためのものであり、国家語または国語とも呼ばれる。文法は母語以外の言葉を学習するための手引きである以上、日本の国語または母国語は、厳密には日本人の母語ではない。母語の文法は言葉そのもののために必要なのではなく、国家とその矯正機関である学校と教師のために要求されるのだ。禁止の体系で国民に自発的な言動を制限し、自分以外の決められた規則でしか自分を表現できないと思い込ませる躾なのだ。

アイヌ民族はアイヌ語で話すことを事実上禁じられ、子供にアイヌ名をつけることを禁じられた。国民は政府の制定した標準語で話すことを強制させられ、方言は不純な言葉として軽蔑された。

1907年、琉球では琉球語の廃絶を目指して、罰札制度が導入された。これは方言札とも呼ばれ、琉球語で喋った人間に「罰札」と書かれた黒い札を首からぶら下げさせた。彼は琉球語を喋る別の人間を見つけると、罰札をその人間の首にかけかえることができる。一見ゲームのようだが、方言を廃絶するための密告制度、相互監視制度だ。この罰札制度はごく最近まで実際に行われていた。僕が通った青森県の小学校でも「東北弁を使うことはとても恥ずかしいことです」と教師によって堂々と実施されていた。日記や作文の文中でも登場人物のセリフとして方言を言わせるだけで、「下品で行儀が悪い」とか「だから青森県は東京から馬鹿にされるのだ」と大目玉を食らったものだ。



読書:「日本人とユダヤ人」 イザヤ・ペンダサン

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言葉についての基本的科学的知識

2001-12-06 22:16:42 | Weblog
12月6日(木) 快晴

     衛星通信

ピースボート専用の無線回路が不調で、東京事務所との連絡やEメールがうまくつながりません。最上部の甲板に緊急用のアンテナを広げて衛星通信を試みます。船が揺れるのでなかなか人工衛星の位置を特定できないようです。猛暑の中、女性スタッフが頑張っています。果たしてうまく接続できるでしょうか?「大丈夫?」と声をかけたら、「うるさいから、向こうに行ってて!」との回答でした。残念ですが現場からの中継を終わります。

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   言葉についての基本的科学的知識

世界には200ほどの国家があるが、500以上の言葉がある。2000以上あると言う人もいる。「日本は単一民族、単一言語、単一国家だ」と言う人がいる。これは明らかな間違いで、原住民だけに限っても、日本語を話すヤマト民族以外に、アイヌ語を話すアイヌ民族と、琉球語を話す琉球民族がいる。琉球民族なんていなくて、日本語の沖縄方言を話すヤマト民族の沖縄県人なのだという主張もある。これは科学的な見解ではなく、政治的な意見である。1つの民族は1つの言葉を使わなくてはならない、というのはレイシズムの主張である。

アメリカではアメリカインデアンが、オーストラリアではアボリジニが公用語以外の独自の言葉を持っている。

英語圏のカナダではケベック州がフランス語を公用語に指定している。それがいいことかどうかは政治的な判断で、科学的見解では事実だけを見る。

また、方言とは中央語、標準語に対する地方語のことで、支配と従属の政治的意味をも持つ。方言を1つの言葉として数えると中国には100以上の言葉があるし、パプアニューギニアには1000以上の言葉があるとも言われる。

英語はイギリスから、アメリカ、カナダ、オーストラリア、インド、フィリピンなどに広まった。イギリスが標準語で、その他は方言だと言う人もいる。イギリス1国をとってもスコットランドの方言もあれば、ロンドン下町のコックニー訛りもある。

一般に標準語は書き言葉にされるが、方言はあまり書き言葉にされない。しかし文字を持たない言葉もたくさんある。

間違ってならないことは、話し言葉から書き言葉が生まれたのであり、その逆はない。ヒトが初めて覚えた言葉を母語という。赤ん坊は母親から母乳と母語とを与えられる。母語とは母親語のことで、母親から与えられた身体と母語はその人間に一生ついて回る。母親は乳母であることもあるし、継母であることもある。いずれにしてもヒトは話し言葉を最初に覚えてから、書き言葉を覚える。くどいようだが母語は必ず話し言葉である。母語を覚えてから書き言葉や外国語など他の言葉を覚える。

国家は政治や法律や教育のために書き言葉を必要とする。公用語を指定し、文法と辞書を使って均質で単一な言葉を作る。色々の地方で勝手に使われていた方言が、一定の資格付けが行われて国家の言葉、すなわち「言語」に統一される。言葉が話し言葉を越えて、書き言葉になる時に、言葉は科学を超えて政治学になる。「母の言葉」は民衆の言葉で、「父の言葉」は公権力の言葉である。

民族を作るのは言語であり、言語を作るのは国家であるのだ。

ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く 啄木



読書:「ハプスブルグの実験」 大津留厚

映画:「6デイズ7ナイツ」

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 外国語よりエスペラント

2001-12-05 22:16:03 | 海外旅行
12月5日(水) 快晴

 モーレア島の水上コテッジ


タヒチ島から高速フェリーで30分、モーレア島は珊瑚礁に囲まれた夢の島です。日本人の新婚旅行客も多数訪れています。
珊瑚礁の上に建つ水上コテッジは全室スイートで、ガラス張りの床から熱帯魚が見られます。ベランダから直接海に泳ぎ出せます。電話をすると小船でルームサービスの食事を届けてくれます。1棟1泊7万円前後です。

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  外国語よりエスペラント

小幡、トミーたちと9:30のフェリーボートでモーレア島に渡り、シェラトン・ホテルのビーチとプールで泳いだ。昼食はマグロの刺身とビールで、ボリュームもたっぷりだが、代金も3000円ほどたっぷり取られた。17:15パペーテに戻り、港のすぐ前のお土産屋で買い物。5年前と比べて随分英語が通用するようになってきている。18:00帰船し、夕食。20:00パペーテ出航。鼻骨骨折のためラスパルマスで下船、入院・手術し、その後髄液漏出のために帰国していたB男が合流していた。入院中に通訳として付き添った、スペイン人通訳のハビと3人で甲板で乾杯。

ハビは英語とフランス語とスペイン語と日本語を話す。4ヶ国語を喋れても通訳程度の仕事にしかありつけないそうだ。ピースボートに乗っていると、ほとんどの国では言葉にそれほど不自由はしない。中国、ベトナム、アラビア語圏、ブラジル、ギリシャ、クロアチアではコミニュケーションが取れなかった。となると半分はだめということだ。もっと色々の言葉を覚えると生活が向上するということでもない。外国旅行する時に便利だが、観光旅行するほど給料を稼げないらしい。ヨーロッパの大卒は4ヶ国語くらい喋れる人はざらにいるので、就職に有利ということもない。

語学の苦手な日本民族には4ヶ国語を喋れる人間は少ない。他人にうらやましがられたり、感心されたりはするが、だからと言って、良い仕事につけたり、高い給料がもらえるわけでもない。

外国語は他国を理解する上で必要だ。しかし世界に無数の言語がある以上、現在のやり方では外国語教育に限界がある。すべての国の人々が簡単な方法でコミニュケーションを取り合えるためには、世界共通語を制定することだ。それはエスペラントが最適だ。すべての国で義務教育にエスペラントを採用することだ。そうすれば世界中の人びとはエスペラントで意志の疎通が可能になる。文学書の翻訳もエスペラントを第1選択とする。Eメールも映画の字幕も、外国人向けの看板やアナウンスもエスペラントにする。

多民族、多言語国家では、公用語を3つも4つも指定しないで、エスペラント1本槍の方が混乱も少なく、費用も安く上がるはずだ。



読書:「新しい民族問題」 梶田孝道

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楽園の物価地獄

2001-12-04 22:15:32 | 海外旅行
12月4日(火) 快晴

  タヒチ

昔はハワイが地上の楽園ともてはやされましたが、今の日本人のイメージではタヒチかバリでしょうか。
タヒチは確かに美しい。でも物価が日本より高いのです。フランス領で数年前に近くのムルロア環礁で原爆実験が強行され、島民の暴動が起こりました。5年前にタヒチに来た時、空港ビルや商店街は焼け跡だらけでしたが今はすっかり改装されていました。

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   楽園の物価地獄

11:00オリビア号はパペーテに入港した。昼食後、小幡と市内見物。マルシェ、インフォメーションを訪ねた後、港と街を散歩し、レストランで夕食。1995年フランスはすぐ近くのムルロア環礁で核実験を強行し、タヒチで暴動があった。5年前にここに来た時には飛行場のターミナルビルは焼け落ちて、商店街も荒れ果てていた。街は当時の面影がないほど復興していた。しかし物価の高さは相変わらずだ。50米ドル両替したのだが、腰布が3000円、ビールが小ビンで500円、すぐに現地通貨がなくなった。マルシェではキャベツが1個500円もしていた。夕方港にはルロットと呼ばれる屋台が20軒ほど並んだが、他の島なら100円程度のメニューがここでは1000円以上という異常な物価高だ。街のショウウインドウには黒真珠や高価な電気製品やドレスが並ぶが、その経営者も現地の顧客もほとんどがフランス人か中国人だ。原住民のマオヒには手が出ない。

タヒチには紀元前から東南アジアから移り住んだマオヒによるポリネシア文化が栄えていた。タヒチ島の存在が西洋人に確認されたのは1600年ごろスペインのメンダーニャ一行によってだ。1767年イギリス人サミュエル・ウオリス、フランス人ブーゲンビルがタヒチに上陸した。1789年、タヒチに滞在していたイギリス船バウンティー号の乗組員が反乱を起こし、彼らはタヒチ北部の酋長の雇い兵になり、島に銃を持ち込み、ポマレ王朝が誕生した。その後ビクトリア女王が他の植民地経営に力を注ぎ、1842年、タヒチはフランスの保護領となった。1966年フランスはムルロア環礁で核実験を開始し、実験施設への投資やそこで働く労働者の高い賃金が、自給自足のタヒチの経済を破壊した。

タヒチの人々がフランスからの独立を望んでも経済的な事情が障害として立ちはだかっている。フランスの援助金に頼りきった経済は、タヒチの農業や序行を荒廃させた。失業率の高いこの島では職のない人々が公務員や実験施設労働者の高給取りの親戚にすがって生きているという図式も珍しくない。

ゴーガンの絵やモームの小説などから想像される「楽園」のイメージと裏腹な現実がタヒチを取り巻いている。「非核・独立」の運動も前途多難だ。



読書:「ハンガリー事件と日本」 小島亮

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憎悪されるアメリカ

2001-12-03 22:14:55 | Weblog
12月3日(月) 晴

ドラ

出航の合図に甲板をドラを叩いて回ります。スピーカーからドラの音を流せば良さそうなものですが、、どうやら神聖な意味がありそうです。特別の人が、定められた衣装を着用して、叩き方もむやみに叩けばいいというものでもなさそうです。世界1周航海でもドラが鳴るのは20回だけ。と聞くと1度はドラを叩いてみたくなるのが人情。船内のチャリティー・オークションで「ドラ叩き」に最高値がついたそうです。真偽のほどは分かりませんが。

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   憎悪されるアメリカ

1989年のベルリンの壁の崩壊は、冷戦構造の終焉以上の意味がある。それは20世紀の「戦争と革命の時代」の終焉であり、アメリカのソ連に対する勝利ではあるが、それにとどまらない。ソ連型党国家を形成したコミンテルン主義の敗退であり、それは裏返すと覇権主義型国家のアメリカ帝国を形成した自由民主主義の瓦解でもあり、そして両者のバランスの上に成り立っていたヨーロッパ型福祉国家を形成した社会民主主義の崩壊をも意味する。これは統一ドイツの混迷、ユーゴ危機、旧ソ連邦を形成していた新独立国家の混乱、世界各地での紛争の激化として現れている。

これらの原因は冷戦構造化の秩序を形成していた東西およびその中間勢力のイデオロギーの世界同時代史的な突然死によるものだ。20世紀の「戦争と革命の時代」に軍事的にも経済的にも勝利したアメリカは、軍事的には世界のあらゆる紛争の解決の責任当事国となり、経済的には旧西ドイツと同様に異常巨大化した資本主義システムでグローバル化した世界を牽引していかなくてはならなくなった。アメリカの戦略であった徹底した軍事力の巨大化と絶えざる成長と発展の中でしか維持できない社会経済システムは、世界同時不況、南北問題の激化、宗教対立と民族対立の多発、地球環境の悪化などの形で、人類全体の危機、現代文明の行き詰まりの状態に追いやってしまった。今やアメリカが自らのリーダーシップでどのようなやり方で世界を動かそうとしても、諸悪の根源として常に憎悪の対象とされる。

アメリカは覇権主義を放棄し、圧倒的な軍事力を背景とした他国への恫喝的な外交姿勢と国益優先主義を改めなければならない。道徳的な国家として、発展途上国への政治的、軍事的干渉と、経済進出を中止しなければならない。

これは同じことが日本にも言えるのであって、ミニ・アメリカを目指してはならない。



読書:「ことばと国家」 田中克彦

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遅すぎた革命

2001-12-02 22:14:02 | Weblog
12月2日(日) 晴

ヤシの実割り講習会

恒例のフルーツ・パーティーの前座に、島の自然保護運動家を講師にヤシの実割り講習会。ヤシの実割りを覚えて何の得があるんだ?と言うのは愚問です。もしもお中元にヤシの実をもらったら必ず役に立ちます。それに、万一無人島に漂流した時にヤシの実割りを知らないと生き延びることはできません。

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    遅すぎた革命

「戦争と搾取のない世界。自由・平等・愛で支えられた世界」というのが無政府主義の目標だ。国家が消滅すれば軍隊が消滅し、戦争と搾取はなくなる。国境がなくなれば人種の坩堝化が進み、不自由と不平等がなくなる。

30年前に無政府主義集団「しらかば」は日本と沖縄での武装蜂起を目指した。フィリピンからバナナを日本に運び、ベトナムにインスタントラーメンを運んでいたイエロウベアー号が、1000人の傭兵と1万丁のAK銃を積んで日本の1万人の武装勢力と合流するはずだった。8000人が革命の大義のために殉死し、僕の人生も27歳で終わりのはずだった。その後の30年の人生は付録みたいなものだ。

世の中は変わった。先進国の革命が後進国人民の蜂起につながる構造はない。白兵戦による先進国でのクーデターの可能性さえほとんど考えられない。ニューヨークのテロ事件のように市民の受難なしに都市ゲリラ戦やクーデターは想定不可能だ。

フィリッピンのマルコス政権の崩壊、ルーマニアのチャウシェウスク政権の崩壊など、ドラマチックな革命劇をその後もTVで見てきた。しかしこれはCIA公認、コミンテルン公認の政治芝居だ。

1989年のベルリンの壁の崩壊は、人民勢力による国境の撤廃を想定させるものであった。暗黒時代のヨーロッパにルネッサンスの到来を感じさせた。かすかに無政府主義の香りがした。しかし東ドイツは西ドイツに飲み込まれただけで終わった。天安門事件は平和革命は甘くはないことをまざまざと見せ付けた。その後のユーゴスラビアの内戦は、時代が50年以上も逆転したような印象であった。

西ヨーロッパで国境を廃止し、通貨を統合する壮大な実験が行われようとしている。日米は世界制覇の新たなライバル出現に、あれこれケチをつけるであろう。東欧諸国やイスラム圏は対抗姿勢を強めるであろう。そして何より問題なことは、世界の救済への速度よりも、世界の破滅への速度が圧倒的に速いことだ。



読書:「中欧の分裂と統合」 林忠
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