豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

 カプセルの中の楽園   

1974-04-03 15:55:30 | Weblog
              カプセルの中の楽園                        

ある朝、男は眠りから醒めた時、夢を見た様に感じた。彼の頭の中は酔った様に濁っていた。それは疲労や眠気のせいではなかった。彼は長い間、考える事を忘れていた。彼の横には長い髪の一人の女が、白い背を見せて、安らかな寝息を立てていた。彼は、この部屋の中のすべては自分のものである、とぼんやり考えた。だが、その中にあるものといえば、その空間と一人の女、そして彼自身の肉体がすべてであった。家具も道具類も何一つなかった。その部屋には窓も出入口さえなかった。彼は左右を見渡した。そして突然恐怖を感じた。その部屋には、壁と天井と床の区別が全くなかった。それは内径が4メートル程の完全な球の内部であった。彼は一体何故この様な密室に閉じ込められたのであろう、と驚いた。

間もなく、彼は昨日もここで過ごした事を思い出した。その部屋には昼夜の区別がなかった。いつも明け方の様な曙光が満ちていた。すっかり忘れていた時間の観念が記憶を呼び起こそうとしていた。しかし彼の頭の内部に焦点の合わない映像が次第にはっきりして来るのが判った。彼の記憶には長い空白の時があった。そして、その以前には、彼は何かを持っていた。彼は自由にならない頭でそれを追い求めた。それは、彼の現在の運命を決定したものであり、彼が密室に閉じ込められた原因であった。自分はかつて生きたいた事がある。そして現在も生きている。そしてその境い目に何かがあったのだ、と考えた。この部屋の中では想像出来ない様なものが彼の前にあった。その機械の前に彼は立っていた。また、無数のカプセルが規則正しく飛び回っているのを彼は見た。そして、その内部を確かに覗いた事があった。

彼は吐息をついて寝ている女の方に目をやった。夢であろうか、記憶であろうか、と彼は考え疲れた頭を左右に振ってみた。しなやかな肢体を持った女が、彼の隣に横たわっていた。それは確かに彼の所有物であった。つまらぬ事は無用である。
突然、彼は視線を感じた。再び恐怖が甦った。彼はまわりを見渡した。しかし壁は和かい光を放っているだけであった。こぶしで壁を叩いてみた。柔らかな音が返って来た。それは彼が記憶している壁の感じとは違ったものである。不安な監視の眼は、なおも彼に注がれている様であった。彼は周囲を警戒した。一定の間隔で規則的に飛び回る無数のカプセル、不思議な機械、この断片的な記憶と現在彼を取り囲んでいる奇妙な壁の間に、密接な関係がありそうだ、という考えに行き当たった。彼はカプセルの内部をのぞいた事があった。その中には色々の生物がいた。蝶がいた、馬がいた、魚がいた。すべての生物は二匹ずつ狭い部屋の中で生きていた。それ等を彼は見たのである。それ等の生物は物捲気に動き回っていた。

「君が殺したんだ!」
突然彼は背後から冷たい声を聞いた。二匹の鹿は折り重なって死んで居た。彼は恐ろしさに振り向く事が出来なかった。
「見給え、君の失策からこのツガイの鹿は死んだのだ。」
背後から大きな手が延びて来て、人差し指がブラウン管の死んだ鹿の上に置かれた。
彼は恐る恐る振り返った。密室の中には清浄な空気と和らかな光が満ち、彼の女が規則的な寝息を立てていた。

彼は追い立てられる様に、過去の記憶に立ち戻った。
太い人差し指の下で突然、鹿の死骸は消えた。振り返って我に返った彼は、恐ろしい声の主がテレビのスイッチを消った事を知った。
遠い昔の事は思い出せないが、ある時彼は特別な才能を認められた。誰によってであるのかは判らないが、兎に角、その時彼は沢山の機械の並ぶ部屋にいた。見渡す限り、同じ様な形をした機械の並ぶ部屋であった。白いぴっちりした服を着た人々が内部を歩き回っていた。彼も同様の服装であった。彼は無数のカプセルが飛び回るのを見た。彼はテレビを通して多くの生物の状態を観察しなくてはならなかった。すべての密室の内部は無菌状態に保たれていた。栄養補給、湿度、温度、照明等、すべて密室内の状態は、その壁を通じて行われた。彼の仕事はその管理であった。

彼は自嘲した。現在では自分が観察され、飼育されているのだ、と笑ってみた。倦怠感が彼を包んでいた。密室内では常に眠気が生物を支配していた。それは内部の状態が最良である証拠であった。彼は今日夢を見た。そして意識が甦った。多分、密室内の状態が悪い状態に陥ったのであろう。かつての自分と同様、今日もまた密室の管理の失格者が、こんなに快適な牢獄に送られるのであろう。
「俺に残されたものといえば、この限られた空間と二つの肉体と原始的な欲望だけだ。俺には自由はない。しかし自由を欲する心もない。俺はほとんど何物をも所有していない。しかし、ほとんどすべてを所有しているとも言える」
彼は壁をこぶしで力一杯叩いた。
「どうだ、俺を黙らせてみろ!」
彼はそう叫んだ積もりであった。だが、それは無駄な事であると気付いた。彼は既に言葉という無用のものを忘れていた。

女がわずかに目をあけた。彼は欲情を感じた。本能だけが依然として根強く残っている事に、彼はかすかな慰めを覚えた。女は寝返りを打つと再び彼に背を向けた。

「見てごらんよ。哀れなものだねえ」
自由な人間として彼が機械の前にいた時、一人の仲間が彼に言った事がある。テレビには犬か猫を連想させる様に、折り重なって眠っている一組の男女の姿が写しだされていた。相槌を打ちながら、彼は心の中にはそれと裏腹なものを感じていた。どんな小さな過失も許されない当時の生活は脅威であった。

一体幸福とは何なのだ。彼はテレビに写っている自分の姿を思い浮かべながら考えた。密室の生活には何の苦労も悩みもない。普段の自分は、他人の事も自分の事をも考えない。昨日の自分も明日の自分をも知らない。幸福とか不幸という観念は全く存在しないのである。一時的に意識が甦ったからといって、こんな事を考えて一体どうなるというのであろう、と彼は失笑した。選ばれた人間であった当時、彼には自由があった。幸福と不幸のいずれをも選ぶ自由があった。自由が幸福であるという事になろうか?彼は女の方に眼を向けた。果して、女は彼の目には不幸とは見えなかった。何事をも欲していないのである。欲する事が許されていない、と言い直したたところで何の違いがあろう--彼は自分の頭が濁り出して来たのを感じた。意識が早く消え失せてくれれば良い、と彼はかなり前から願っていた。そして、その兆しが見え始めて来た時、彼はそれに気付いた。この部屋の中ではすべてが曖昧だ。俺はやはり現在の自分の境遇を不幸であると感じているのかも知れない、と彼は意識の消え入る寸前に思った。頭に霧が一杯に拡がり、瞳の光は鋭さを失った。彼は今始めて眠りから醒めた様にぼんやり左右を見回した。女の滑らかな肌が目に止まった。彼は丸い肩に手をのばした。
思考は一切必要ではなかった。意識の伴わない行動の感激は一瞬のうちに消えた。
もつれ合っていた二つの肉体からは、潮が引く様に、次第に力が抜けて行き、最後には動かなくなった。寝息だけが後に残った。密室の一日は非常に短かった。
(74.4.3)
コメント
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