序章の終章 (50歳のレイより50歳のヨウへ) 1995.2.28.
動物は生まれ落ちた時に人間であることもあるし、ミミズであることもあるし、ホタテであることもある。それは自分の責任ではない。遺伝子の結果にしか過ぎない。ミミズやホタテが人間になろうと努力しても無駄なことだ。学校の成績が良いとか、運動神経や芸術的才能があるとか、肌や髪や瞳の色や、民族的な気性や体格などは、幼い子供の努力では選択や改善が不可能なことである。家柄や血統などという遺伝的なものは、自分が生を受けた時に既に受け継いでいる。「生きる」ということの意味は運命に亢することだとも言える。シナリオに反逆して歴史にささやかな爪跡を残すことだとも言える。
70年安保斗争は世界のあらゆる価値観が逆転した時代であった。旧来の正常が異常に、異常が正常に転化した。知識人や活動家諸君はほとんど例外なく、古い価値観を捨て切れず、新しい時代の波に乗るのに結構苦労をしているようだった。ボクは自分がそれ程の努力をしないでも世界がボクに接近して来るように感じた。多分あの頃は正常者には苦痛で、異常者には安楽の時代だったのであろう。
ボクの人生はラッキ-の連続だ。失敗、絶望、危機、混乱に直面した時、いつも一筋の明るさが見えた。ボクは暗闇の中ではその一筋の明るさの方向に進んだだけだ。
とにかく旧友たちとの約束は遅滞なく果たした。予定通り事を運ぶことができたのはボクがいつもついていたからだ。世間の色分けを無視して、自分の心臓のリズムで自分の人生を刻んで来たからだ。妙なしなやかさがなかったからだ。
20世紀はボクにとって居心地が良かった。文明だとか文化だとかイデオロギ-などという宗教を盲信した人間はすっかり動物的な強さを失っていた。ボクは欲しい物は何でも手に入れることができたし、行きたい所はどこにでも行けたし、やりたいことは何でもできた。今後200年足らずでこんな文明社会なんて崩壊することをボクは知っている。もはや制御しきれない文明の巨大な力に従って生きることが罪であることに、愚かな人間は気付いていない。気付いてももう間に合わないだろう。70年安保闘争が世界を救う最後のチャンスだったというボクの認識に変わりはない。
人間誰しも愛と力とを合わせ持っている。しかし愛が気分や感情のレベルに滞在まり、行動を促すのに必要な量あるいは力に達しなければ、実質のない歪んだ愛に変質する。同情、嫉妬、期待、密告、処刑は悪しき愛の変質である。
しらかば残党の陽子はしらかば家族への責任から、刑期満了後もボクの50歳の誕生日までの年代記を書かなければならなかったのだろう。組織は10年の流刑をボクに言い渡したが、組織は前科者にそんなに甘くはない。人生50年、元気を失い、再犯の恐れがなくなった時にやっと監視の目を緩めるのだろう。
この本には事実誤認が数多くある。しかし、そんなことを指摘して、知られたくないことまで知られる必要はないであろう。従って、この本は「伝記」ではなくて「小説」である。
この本が出版されると迷惑を被る人間が少なからず出現するであろう。それは10パ-セントはボクの責任だが、90パ-セントは陽子と、被害者面をする当人の責任だ。
ドクタ-陽子は、ボクを裸にして、ボクの心を解剖し、ボクの秘密を暴きたてた。これは体の良い生体実験だ。それでもボクは陽子に感謝する。青春のある時期を君と一緒に戦ったことをボクは決して忘れはしない。ボクは君の輝いている姿を記憶していたい。だから君を見舞うこともないし、2度と君に会うこともないだろう。
あとボクが君のためにできることといえば、陽子がもしも望むならば、遺骨を君が希望する場所に運んで散骨することだけだ。
動物は生まれ落ちた時に人間であることもあるし、ミミズであることもあるし、ホタテであることもある。それは自分の責任ではない。遺伝子の結果にしか過ぎない。ミミズやホタテが人間になろうと努力しても無駄なことだ。学校の成績が良いとか、運動神経や芸術的才能があるとか、肌や髪や瞳の色や、民族的な気性や体格などは、幼い子供の努力では選択や改善が不可能なことである。家柄や血統などという遺伝的なものは、自分が生を受けた時に既に受け継いでいる。「生きる」ということの意味は運命に亢することだとも言える。シナリオに反逆して歴史にささやかな爪跡を残すことだとも言える。
70年安保斗争は世界のあらゆる価値観が逆転した時代であった。旧来の正常が異常に、異常が正常に転化した。知識人や活動家諸君はほとんど例外なく、古い価値観を捨て切れず、新しい時代の波に乗るのに結構苦労をしているようだった。ボクは自分がそれ程の努力をしないでも世界がボクに接近して来るように感じた。多分あの頃は正常者には苦痛で、異常者には安楽の時代だったのであろう。
ボクの人生はラッキ-の連続だ。失敗、絶望、危機、混乱に直面した時、いつも一筋の明るさが見えた。ボクは暗闇の中ではその一筋の明るさの方向に進んだだけだ。
とにかく旧友たちとの約束は遅滞なく果たした。予定通り事を運ぶことができたのはボクがいつもついていたからだ。世間の色分けを無視して、自分の心臓のリズムで自分の人生を刻んで来たからだ。妙なしなやかさがなかったからだ。
20世紀はボクにとって居心地が良かった。文明だとか文化だとかイデオロギ-などという宗教を盲信した人間はすっかり動物的な強さを失っていた。ボクは欲しい物は何でも手に入れることができたし、行きたい所はどこにでも行けたし、やりたいことは何でもできた。今後200年足らずでこんな文明社会なんて崩壊することをボクは知っている。もはや制御しきれない文明の巨大な力に従って生きることが罪であることに、愚かな人間は気付いていない。気付いてももう間に合わないだろう。70年安保闘争が世界を救う最後のチャンスだったというボクの認識に変わりはない。
人間誰しも愛と力とを合わせ持っている。しかし愛が気分や感情のレベルに滞在まり、行動を促すのに必要な量あるいは力に達しなければ、実質のない歪んだ愛に変質する。同情、嫉妬、期待、密告、処刑は悪しき愛の変質である。
しらかば残党の陽子はしらかば家族への責任から、刑期満了後もボクの50歳の誕生日までの年代記を書かなければならなかったのだろう。組織は10年の流刑をボクに言い渡したが、組織は前科者にそんなに甘くはない。人生50年、元気を失い、再犯の恐れがなくなった時にやっと監視の目を緩めるのだろう。
この本には事実誤認が数多くある。しかし、そんなことを指摘して、知られたくないことまで知られる必要はないであろう。従って、この本は「伝記」ではなくて「小説」である。
この本が出版されると迷惑を被る人間が少なからず出現するであろう。それは10パ-セントはボクの責任だが、90パ-セントは陽子と、被害者面をする当人の責任だ。
ドクタ-陽子は、ボクを裸にして、ボクの心を解剖し、ボクの秘密を暴きたてた。これは体の良い生体実験だ。それでもボクは陽子に感謝する。青春のある時期を君と一緒に戦ったことをボクは決して忘れはしない。ボクは君の輝いている姿を記憶していたい。だから君を見舞うこともないし、2度と君に会うこともないだろう。
あとボクが君のためにできることといえば、陽子がもしも望むならば、遺骨を君が希望する場所に運んで散骨することだけだ。