豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

下北、雪の洪水

1977-02-15 15:33:40 | Weblog
 1977年2月・下北、雪の洪水

下北は災害の多い所である。2年に1度は冷害のため米はほとんど収穫が期待できなかった。平地が少なく、山すそが海に落ち込むような地形のため、大雨のたびに中小河川が氾濫した。洪水は年中行事だったので、ボクの診療所も自宅も高台に建てられていた。地震のたびに山すそに住む人々は崖崩れに脅え、海辺に住む人々は津波に脅えた。   

下北は陸の孤島である。人間と生活物質とエネルギーの輸送の大半は、本土と下北を結ぶ細長い陸の回廊の3つの線に頼っていた。1日4往復の国鉄大湊線、未舗装部分の多い国道279号線、単線の送電線である。この3本の生命線は毎年のように災害によりズタズタに引き裂かれた。        

1年に数回の停電は慣れっこだった。桝田医院の看護婦達は停電で分包機が使用できない時には器用に薬包紙で薬を包み上げる技術を全員が持っていた。臨床検査技師達はローソクの光源を利用して顕微鏡で赤血球の数も白血球の数も調べることができた。調理士達は電気釜なしで御飯を炊くことができた。父もボクもレントゲンや心電計なしに肺や心臓の病気を聴打診で判断することができた。入院患者達もローソクの光を頼りにトイレにも行ったし、入浴もした。

湿った雪が下北半島の陸の回廊の高圧線に着雪して、送電線がズタズタになると1週間以上も停電になることもあった。桝田医院の向いの阿部床屋ではローソクの光の下で手動のバリカンで仕事をしていた。ボクは懐中電燈を下げて真暗な町を夜の往診に出掛けもした。ボクは最後まで桝田医院に医療用コンピューターを導入はしなかった。冬期間3日以上停電が続くと、鉄筋コンクリートの診療所は床も壁もすっかり冷え込んで、20ヶ程の石油ストーブはほとんど暖房としての意味はなかった。ボクも職員もヤッケの上に白衣を着て、入院患者にはもう1枚の毛布を支給した。              

大雨が何日も降り続くと、街中が水びたしになり、半島の回廊の陸路も鉄路も徹底的に破壊され、下北は何ヶ月間も孤立した。人員や物資の輸送は海路に頼るしかなくなり、商店から商品は姿を消して、医薬品さえ不足した。灯油もガソリンもプロパンガスも酒もタバコも自由に買えなくなり、パンやインスタントラーメンや肉や魚も手に入らなくなり、米さえ不足した。

1977年2月15日、下北は一晩に180センチの記録的な降雪を体験した。家も車も樹木も川もすっぽりと雪に包まれた。朝6時、目を醒しても真暗だった。一体何が起ったのだろうかとボクは外に出ようとしたが玄関のドアが開かない。重装備をして窓からスコップで雪を掘り起こしながら進んで30分後にボクはやっと雪の上に首だけを出すことができた。あたり一面白一色の雪野原だった。ボクは門の方向にスコップで雪をかき上げながら掘り進んだ。道路と思われる地点を300メートル離れた診療所に向って更に掘り進んだ。路上の雪の底には放置された車が何台も沈んでいて、そのたびに迂回して進まなければならなかった。1時間以上かかってやっとボクは診療所に到着した。いつもなら3分の距離である。診療所前の駐車場は摂氏10度の井戸水を利用した消雪パイプが24時間水を噴き出しているので、道路から1メートル以上も下にアスファルトが露出していた。隣近所の人が自分の家の玄関前の雪を運んでは駐車場に投げ込んでいた。「井戸のポンプの出力を最大にするから道路の雪をどんどん駐車場に運んで下さい。どうせ今日は仕事にならないんだから、夕方までに中荒川までの除雪を皆でやりましょう」診療所から中荒川までの距離は20メートルである。診療所の20人の入院患者達も防寒具に身を固めて前代未聞の災害に驚いて消雪作業に協力していた。脳卒中後遺症で半身付随の入院患者までがゴム長をはいて、消雪パイプから噴き出す水の付近の雪を踏み潰していた。

8時頃に非常招集のかかった10人前後の自衛隊員達が2列縦隊で東から西へ次々と雪中行軍をして行った。行軍の跡に幅1メートル程の通路が切り開かれ、生命線が回復しつつあった。午前8時半になると職員達が次々と徒歩で出勤して来た。ほとんどがスコップ片手のヤッケ姿で、リュックサックを背負っていた。「下北の人間は馬鹿じゃないの?こんな日に患者は来ないんだから、まず、自分と家族の安全を考えなきゃ!」「院長、その考え方は間違ってます。災害の時こそ、医療機関の社会的任務が問われるのです」と大滝婦長が反論した。「そうかい、そうかい。それじゃ男子職員は除雪作業。女子職員は炊き出しをして下さい」                         

ボクは5年前に下北に帰って来て父の診療所の代診医を務めていた頃に第一次オイルショックで、かなり手痛い経験をしている。ファッショな国民性の日本人達が買いだめ売り惜しみに走ったために、下北に運び込まれる生活物資はほとんどなくなった。石油は勿論、食料、布類、紙製品、嗜好品、医薬品が品不足で価格が何倍にもはね上った。この苦い経験を生かして、傾斜地に建設したボクの桝田医院にはかなり余裕のあるスペースの地階の備蓄庫があったし、地下タンクには灯油が常に法定許容量の満杯状態に保たれていた。

桝田医院の地下の備蓄庫には6ヶ月分の医薬品と3ヶ月分の食糧、毛布、タオル、おむつ、トイレットペーパー、ナプキン、その他多種多様な「生理用品」が備蓄されていた。そしてボクが「物理用品」と呼ぶ、ローソク、カンテラ、携帯ラジオ、寝袋、衣類、ライフジャケット、スコップ、ネコ車、ナイフ、その他の工具類、ロープ、防毒マスク、サバイバル用品などが備蓄されていた。                      

ボクは下北が孤立した時に備えて3艘のモーターボートと燃料を備蓄していた。蛋白源として50頭のホルスタインとホタテカゴと刺し網を所有していた。ビタミン源として果樹園とかなり広大な畑も借り切っていた。                   

大雪の朝、入院患者20人は定刻より3時間遅れて午前10時にやっと朝食が支給された。ボクは備蓄の食料の放出を職員に命じ、近所の人達のために炊き出しをさせた。   

午前10時、ボクが近所の人達と一緒に除雪作業に励んでいる時に当院臨床検査技師が「胃の透視をお願いします」と言いに来た。ボクは「ああ、判ったよ」と笑って答えて除雪作業を続けた。10時半に彼は今度は怒った表情で、「先生、患者さん2人は2時間かかって雪の中を歩いて来て、腹ペコで待っているんですよ!」と怒られた。下北の人間は大低こんなだ。臨床検査技師の冗談だと軽く受け流していたのだが、本当に2人の患者が前日のボクの指示通り、未曽有の大雪にもかかわらず、検査を受けにやって来ていたのだ。下北の人達は豪雪をそれ程の災害とも考えてはいないし、普段それ程親密なつき合いのない人達が共同作業をすることによって親睦の輪が拡がる楽しい機会だと考えているようにも思われる。                          

結局、大災害にもかかわらず、この日の来院患者は普段の7分の1の20人もやって来た。胃透視検査の終了後2人の患者は当院炊き出しのおニギリを食べた後、スコップを振りかざして中荒川までの生命線を復活する作業に従事してくれた。           

市の災害対策本部が動いていることを知ったのは1週間後のことであった。むつ市内は全くマヒ状態だった。ボクは1週間かなり計画的に、桝田医院地下室の備蓄品を近所の人達に配布し、この天災で傷ついたホルスタイン1頭を役所の許可を得ないで殺して食料として提供した。                              

道路が横の生命線であり、川が縦の生命線であるとボクは信じていた。この巨大な雪の量を消すためには桝田医院の井戸水の汲み上げ量をフルに回転させても全く無力である。桝田医院から半径50メートル以内の地域は翌日には雪が消えた。「ボクの診療所の摂氏10度の井戸水は高台にあるボクの診療所から東に100メートル流れてから海に向っていた。ボクはボイラーの排水口を半開にして側溝の温度を上げたので東側の住民達は側溝での融雪が可能になったが、西側の住民達は中荒川に雪を捨てるしか生命線を切り開く方法はなかった。中荒川の橋の周辺には雪のダムが築かれて水位が上り、氾濫の危険が迫った。大雪の翌日に中荒川の水位は道路スレスレになっていた。ボクは明け方雪のダムを爆破して開通させた。爆音に驚いて飛び出して来た近所の人々は、「自然の力はたいしたもんだ。大きな音立ててあの雪ば押し流したんだ」と言い合って薄暗いうちから排雪作業を開始した。


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