豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

地球の這いずり方 (第1部:日本編) その1-4 

1945-01-31 20:49:21 | Weblog



    地球の這いずり方




=== 第1部:日本編 ===


その1 バナナ・コンプレックス


本州の北はずれの下北半島。終戦の年に僕はここで生まれ、幼年時代を過ごしました。飢えと寒さの中で僕は、えらい人間になろうなどとはつゆ考えず、南洋で暮らしたい、バナナを毎日3本食べたいと、そればかり望んでいました。当時バナナは貴重品で、いただき物にバナナが2-3本でも入っていようものなら、一家そろって記念写真を撮ってから、2人で1本とか、3人で1本をよーく味わいながら食べたものです。

中学生になり上京した軽い反抗期の僕は、バナナに憧れと憎しみの入り混じった感情を抱いていました。折りしもハリー・ベラフォンテのバナナ・ボートが大ヒット。「イデデ、イデデ、イデデ・・・」心の傷が疼きます。「馬鹿な歌だ」そして決してバナナを食べませんでした。食い物の恨みは怖いですよ。

医学部を卒業後青森県で街医者稼業を15年ほど続けた頃、妻が突然癌死。呆然と過ごした数週間、狭い街で外食もいやだし、かと言って炊事をする気力さえなくて、毎日3本ずつバナナを食べていました。

ある朝、山のようなバナナの皮を片付けながら、僕は突然、再び生きる目標を見つけました。幼年時代の夢の1つは達成したのです。あとはもう1つの夢の実現、つまり引退して南洋で暮らすことです。この時僕は47歳、子供はアメリカに留学中で数年後には扶養義務からも解放されるはずです。

その日僕は職員と患者とに「3年後の50歳で診療所を閉鎖して南の国へ移住する」と声高らかに宣言しました。しかし誰も本気にしてくれません。




その2  キンパチ先生

廃業して海外移住という決意を誰もが本気にしないので、まず僕はあらゆる公職から退き、態度で示すことにしました。街医者って結構いろんな公職を押し付けられるのですが、辞めるときにもたいして面倒はありません。「そんだば、しばらく体っこ休めてください」「そうじゃなくって、永久にやめるんです」「先生、心も少し休めたほうがいいんでねえか?」

次の策は、診療日数の削減という実力行使。1年に数回診療所を1週間から10日ほど休診にして、海外の移住先探しを始めました。患者が減り、休日が増えたので、職員は大喜びです。「先生、外国さ移住しなくても、もっと頻繁に海外旅行さ行くのがいいですよ」

もう少し頭を働かせて僕は髪を金髪に染めました。「髪に誓って僕は外国に移住します!」今度は患者も大喜びで、ついに僕は「キンパチ先生」と呼ばれるようになりました。

そして3年が過ぎて僕は廃業のための事務手続きを開始しました。ところが役所で廃院届を受け付けてくれません。今度ばかりは患者も職員も大騒ぎです。銀行も医師会もいい顔をしてくれません。「病院をやめるのは勝手だよ。しかし社会的責任というものがあるじゃないか。唐突過ぎる」「何をそんな。3年前からやめると言い続けてきたんですよ。もう髪だって外国人になっているし」「最初にはっきりさせておきたいことが1つある。その髪だけはやめたほうがいい」

すったもんだの挙句、「5年後なら廃業を許可する」という妙なお墨付きをもらいました。55歳になってしまえば体力、気力とも衰えて、馬鹿な考えを改めるみたいな下心が見え見えです。




その3  病める医療

実は僕はずっと前から日本の医療と、行政と、消費文明とに失望していました。できるだけ早めに開業医生活にピリオドを打ちたいと願い続けていたんですよ。

27歳で故郷の下北で内科医院を開業しました。医療過疎地域で若かりし僕は早朝から深夜まで働きずくめ。田園の素朴な人情にも支えられて、それはとてもやりがいのある仕事でした。開業資金は1億5千万円、その借金も5年で返済できたのです。僕より少し遅れて東京近郊で開業した友人の嘆きようは大変。「俺の借金は5億円だ。下北の土地価格はここの20分の1以下だろう。人件費は3分の1だろう。なのに同じ医療費だなんて納得できねえ」そうなんです。世界に誇る日本の健康保険制度は、全国統一料金で、低額でもかなり高度の医療を受けられるものでした。

しかし僕が30歳の頃、老人医療の自己負担が無料になりました。それは老人が困っていたからじゃないんです。健康保険の資金がだぶついていたからです。健康保険諸団体では死亡お見舞とか出産お祝いなどの名目で金をばらまきました。風光明媚な観光地に豪華な保養施設も建てました。それでも黒字は減りません。これに目をつけた与党と政府の人気取りの政策と、医師会の利益導入の思惑が絡んで老人医療の無料化がめでたく実現したのです。

只より高いものはありません。医療費が無料になると、相互扶助の倫理観が失われ、保険財源は節度なく食い荒らされます。老人も無節操になりますが、医者は更に輪を掛けて無節操になります。日本の健康保険制度は出来高払い制です。窓口でいくら取られるかは最後までわかりません。「今日は1,000円しか持っていねえんだけど」「大丈夫ですよ」「だけんどよ、隣町の病院さ行ったら風邪で、血採られて、レントゲン撮られて、5,000円も取られたって聞いてら」「うちでは風邪は300円くらいですよ」「只みていなもんでないけ。ほんだら高くても、いい薬使ってけれ」ナニ?!これは、ただ事じゃないですよ

僕は老人医療の無料化は国を滅ぼしかねない制度改悪であると大反対の声をあげました。しかし、役所、医師会、労働組合、マスコミ、そして老人クラブからまで「危険人物」のレッテルを貼られる始末です。

はたして僕の内科医院も待合室は老人サロンと化し、入院ベッドは老人に占領され、本当の病人の治療が困難になりました。老人医療は楽で儲かる仕事です。すぐ良くなったり、すぐ悪くなる患者は採算に合わないのです。しかしドーピングみたいな真似で弱った年寄りを元気にしたり、死期の迫った老人に点滴や酸素が必要なのでしょうか?

そして30年、医療環境はすっかり荒廃し、日本経済の後退とともに無駄使いを極めた健康保険制度は破綻しました。




その4  浪費と飽食

実験室でワインを作って見ましょう。密閉したフラスコに砂糖と酵母菌を入れると、酵母菌は砂糖を食べてアルコールを排泄しながら、どんどん増えていきます。そして砂糖を食べ尽くすと死滅します。これが辛口ワインです。次に少し条件を変えて同じ実験をすると、一定のアルコール濃度に達すると、砂糖が残っているにもかかわらず、酵母菌は死滅します。これが甘口ワインです。このように人類は地球上の資源を使い果たすか、産業廃棄物などの有害物質の増大によって滅亡するのです。

僕の下北での開業と同時期に、原子力船むつが故郷の街にやってきました。受け入れか反対かで街を二分する激しい対立、夜の街からは「おばんです」の挨拶も消えました。「原子力は儲かるもんだ」「日本が原爆持って、またアメリカが攻めて来るど」電力会社の札束攻勢と与野党の介入で素朴な住人たちは頭がおかしくなりました。

2つの原発と1つの核燃料処理施設の計画も同時進行形です。寒村に突然立派な道路が作られ、不似合いで近代的な公共建造物が次々誕生しました。「こりゃ、たまげた」しかし冷暖房完備の文化センターや天文台や博物館や郷土館や何とか開発センターなんて、本当に必要なんでしょうか?

土地を手放した農民も漁業権を放棄した漁民も立派な家を建て、つかの間の文化生活に感動を隠せません。「本当に便利が良くなったもんだ」しかし生活の基盤を失った住人たちは次々都会へ引っ越していきました。本来豊かさは心の問題です。かつては贅沢じゃないけれど豊かな生活があったのに、今では残った人も心貧しく、家の維持費と税金の支払いに四苦八苦です。

人間は贅沢に慣れると後戻りは困難です。「シャワーのついていないトイレって不潔でしょう?」そんな考え方こそ不潔です。便利さ快適さの追求に過度に慣れ親しむと、次には買い物や消費自体が快楽となり、さらには飽食や浪費に溺れるようになります。「食べ過ぎてもやせる薬があれば、いくら高くても買うわよ」消費文明は麻薬です。人間と社会を支配し、巨大な自己回転を繰り返し、確実に地球を破壊し続けます。際限を知らない人間の欲望に歯止めを掛けなければ、宇宙船地球号は沈没します。果たして今からでも間に合うのでしょうか?日本人は20年前の消費水準に戻ることができるでしょうか?

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地球の這いずり方 (第1部:日本編) その5-8

1945-01-30 20:52:01 | Weblog
その5   お役所仕事

街医者稼業のかたわら地域紙や郷土の出版物を発行する小さな出版社を経営していました。地方自治の健全化、環境保護、地場産業の育成、地域文化の保護などがその地域紙の主張でした。これを見た十和田市役所から、倒産状態の市立病院の再建事業に誘いがありました。「行政さ経営感覚ば持ち込んでください」東北大学から派遣された新院長の下で僕は3年間役人生活を送ることになります。

民間企業に比べて役所仕事のなんとお粗末なことか、あきれ返ってものも言えません。役人は仕事をやり過ぎてはいけないし、やれないシステムになっているようです。いつまでたっても誰もやろうとしない簡単な仕事を片付けると「出すぎたことをしてくれた」とか、「権限を逸脱している」という非難の嵐。大半の役所仕事なんて民間なら5分の1の人員で済むことでしょう。

新院長は病院を新築して医師数を大増員して、3年で病院の収支を黒字にしました。しかし役所の会計はまやかしです。新築された病院の建物や設備や医療機器は市の財産なので、市当局がその借金を返済します。病院の黒字とは診療収入が人件費と薬品購入費より多かったというだけです。借金返済は当然市民の肩に重くのしかかってきます。

土建屋の金で市長が誕生すると、市長は公共工事をその土建屋に発注します。自分の金ではなくて、どうせ税金です。つまみ食い、みんなでやれば怖くない。役人たちも心得たもので、飲み食い、接待、視察、研修とあらゆる名目で税金のつまみ食い。予算を消化しないことは役人の恥です。組合も革新政党も既得権保全に力を貸す見返りに上納金を吸い上げます。さらに嘆かわしいのは、住民さえも地域エゴ丸出しで行政にたかり、税金の無駄使いの構造を下支えしていることです。

僕は自分の発行している新聞で、健全な地方自治再建のために次のような主張をしました。まず市議会議員の定員を女2人、男2人の計4人に削減します。ついで市長の代わりにシティーマネージャー制度を導入し、一般公募の行政の専門家の候補者の中から市民が選挙でマネージャーを選出します。行政の大半は民間に委託し役人の数を大幅に削減し、その上で次々と市町村合併を推し進め、郡と県とを廃止し、仙台の東北地方庁の管轄とします。

これには市議会も組合も政党もかんかんです。あちこちの後援会事務所から脅迫めいた批判が相次ぎました。県庁からも事情聴取されました。こうなりゃ、とことんやるしかないと、税の無駄使いストップの行政訴訟を起こしました。しかし怒りに声を震わせた裁判官は僕を極悪人扱いです。「原告は日本の現状では税金を払いたくないと主張するのであるな。納税の義務を果たそうとしないいわば非国民が、国民の権利たる訴訟を提起せんとしとるのかね」つまり裁判官も税金で生活しているのです。




その6  世界が違うぞ

役人生活を続けているとじきにサボリ癖とタカリ癖に染まってダメ人間になると感じた僕は、十和田市で再び開業医生活を開始。37歳でした。けれど医療への情熱は次第に薄れていくばかりです。医療の主流はCTや超音波を使用した画像診断や高度医療。安い費用で必要最小限の医療を施す時代は終わっていました。

単なる風邪の患者でも、精密検査をすると何万分の1かの確率で肺がんが見つかるかもしれません。「ラッキー!」だからと言って、風邪の患者のほとんどから採血をし、胸部レントゲン写真やCT検査をして良いのでしょうか?これは医療費と医療資源の浪費です。

僕の診療所では医療費の無駄を徹底的に排除。検査も投薬も必要最小限、医薬品もメーカー品ではなくてゾロ品を使用しました。これは患者からとても不評でした。患者の立場ではたくさん検査をしてくれて、たくさん薬をくれる医療機関こそ好ましいのです。3流メーカーの薬より、多少高くてもブランド品の方が安全で安心です。「キンパチ先生、シャーネルの眠り薬ござーませんの?」無駄だらけの医療なんて衣の厚い天ぷらだ!グチも出ます。

行きつけのスーパーで1,000円を払ったら1,200円のおつりを渡されました。「これ間違いですよ」「いいんです。レジがそう言ってますから」「故障でしょう?計算機でもう1度・・・」「システム以外の方法でやると叱られます。次の方が待っていますから」貯金を解約してこういうスーパーに注ぎ込みたいもんです。

一流病院で医療事故が頻発、副院長をしている友人の謝罪会見がテレビに流れました。彼は医療事故対策委員長も兼任しています。「大丈夫かい?」「大丈夫じゃねえよ。あんなの氷山の一角だぜ。毎週1つや2つ事故さ」「そんなに?」「診療科目があんまり細分化されてさ、専門外に目配りできねえのよ。それにコンピューターがしょっちゅうトラブってさ、何がなんだかわけが分かんねえ」「頑張れよ」「頑張らねえ。俺はやめて離島に行く。魚釣りでもしながらノンビリ島民の健康管理をやる」1,2年後に現院長が定年で、次期院長が確実視されているこの友人は辞表をたたきつけたとのこと。

「キンパチ先生、明日も来ても良かんべか?」「薬を2週間分出しますから、2週間後においでください」「注射はしてくれねえのか?」「高血圧は注射じゃ治らないんですよ」「キンパチ先生よ、患者さもっと愛想良くした方いいんでねえか」

十和田市は人口6万人、医療機関が30軒以上。市民は最新設備、サービス精神の徹底した施設を好みます。しかし今更サービス合戦なんて。やはり僕には過疎地での診療が向いているようです。遠からず引き時がやってくる予感がしました。十和田での20年間の開業医生活は収支がとんとん、1度も高額所得者に名を連ねることがありませんでした。




その7  渡りに船


「まだ働けるのに隠居するなんて」「きっとバチがあたるよ」地元での僕の評判はがた落ちです。日本人は勤勉です。世間並みの生活水準を維持するために、というよりも世間体を気にして、倒れるまで働き続けます。生涯現役は美徳です。狭いながらも楽しき我が家、期待される父親像、紋切り型の人生、消費の美徳、優良納税者、節度ある言動、体制順応、日本型ナショナリズム、義理と人情・・・・。死の床で「わが人生に悔いなし」と笑ってつぶやく人を尊敬します。僕にはそんな生き方ができないから。立派な大人になれなかったから。

一方海外の友人たちからは「引退おめでとう」「早くボランティア戦線に参加して欲しい」とのメールが届いています。世界には待ったなしの解決を待ち望まれている問題が山積しています。だからと言って、ボランティア活動はやりたいと思えば誰にでもできるものではありません。僕には医療技術があり、ある程度の資産があり、扶養家族はなく、物欲が人並み以下で、健康で楽天的です。何ていうのか、とてもラッキーです。憧れの南国で、生きがいのある余生を送れそうな予感がします。

55歳になりました。2001年3月、引退、廃業です。貯金が1,200万円、自宅を2,800万円で売却し、合計4,000万円が海外移住の資金です。10年後には月額4万円の国民年金も・・・無理かあ・・・、日本のハイエナ役人が控えているから。

南国では衣食住どれもが安上がりです。絶対にそうだと思います。多分そうじゃないかと・・・。年間の生活費を200万円と仮定して20年間分の資金。75歳以上生きたらどうするのか?ドキン、そう言われると、僕の家系は長寿でした。しかし、その場合はですね、当然その前にもっと物価の安い国に引っ越してますよ。

引退と同時にピースボートから船医の依頼がありました。ピースボートは戦争、飢餓、差別、地雷、環境破壊などの阻止を目的にした研修船で、その航海はユネスコの正式行事にも指定されています。理想に燃える青年たちと3ヵ月半の世界1周の船旅は、海が大好きな僕にとってなんら苦痛ではありません。航海中は食住が保証されているのも魅力です。

ピースボートは、乗組員が200人、乗客が500人の大所帯。さまざまな人間模様が展開されるでしょう。肉体的な病だけではなく、船上特有の心の病も守備範囲になります。でも船の医務室の設備は貧弱なものに決まっています。

限られた条件下で状況を切り開く作業は、とてもやりがいのある仕事です。ホームシックの少女を立ち直らせ、「私、先生のこと好きになりそう」。同室の仲間から孤立した少年を励まし、「今度から兄貴って呼んでいいですか?」。短い航海の中でたくましく成長していく若者たちを見守り、「そうじゃない、海が君たちを守っているんだ」。なーんて、まるでドラマの世界じゃないですか。「馬鹿野郎!」海を見ると興奮して絶叫する友人を知っています。僕はそんなことはできません。だから僕は悩める若者に忠告をします。「人間は1人じゃないなんて嘘だ。友情なんて幻想だよ。誰にも頼らず、自分の力で生きていくことが大事なのだよ」と。 





その8  住むのはどこでも構いません

さて、どこに住もうか?田舎者の僕には都会生活は向いていません。贅沢は言いません。多少不便でも自然に恵まれて、気候が良くて、物価が安ければ本当にどこでも結構です。飛行場に近く、インターネットが使用できればなお更言うことはありません。毎日1,000メートル以上泳いでいるからプールが近くにあれば助かります。それから肉食は苦手ですから、魚介類が豊かな所がいいですね。ついでに・・・。

というわけでオーストラリアのシドニーから電車で1時間の田舎町に2ヶ月間住むことにしました。シドニーはたぶん世界一美しい街。オーストラリアは環境保護とリサイクルの先進国です。飾らぬ国民性で、人々は質素で陽気です。権力の源泉である税金も安く、従って役人も威張らない。僕にはピッタリです。インターネットでいろいろ調べて、6月29日に日本脱出と決めました。

しかしその前にボストンにいる息子に引導を渡さなければ。友人、知人に息子への支援をお願いして5月の1ヶ月間アメリカ各地の全国遊説。彼らは僕の引退と外国移住を祝福してくれました。「レイ、君ならどこに行っても大丈夫。君は周囲に自分を合わせない。いつも自分の世界を築いて、その中で生きてきたから」国が違えば見方も考え方も違うものです。そして6月2日に息子の大学の卒業式に参加してから十和田に戻りました。

オーストラリアに友達はゼロ。現地の日本人グループは敬遠、オーストラリア人の友人作りも結構です。孤独が好きってわけじゃないけど、だからと言って妙な絆は重荷です。友達が多いと付き合いに大変でしょう?金持ちになると眠りが浅くなりそうだし、物持ちになると移動に不便じゃない?

引越しの荷造りは1日で終わりました。電圧が異なるので電気製品は送っても無駄。食品は持込禁止。エレクトーンとドラムとギターは知人にあげました。衣類と少しの本とパソコンが主な荷物の内容です。スキーとゴルフの道具も持ちました。送別会らしいものも特にありません。ペットのシーズー犬と障害馬術用の馬は、馬術協会に引き取ってもらいました。動物も持ち込み禁止です。

1年に1度の歯の治療と人間ドックも済ませました。歯と胃が丈夫なことが僕の自慢です。

言葉の壁も平気です。舌と心臓も丈夫ですから。外国人コンプレックスもありません。アレルギー体質じゃありませんので。家事も日曜大工も庭仕事も得意です。現地に到着したら1週間以内に、平穏な日常生活に入れるように頑張ります。さて、いよいよ出発じゃ。ありがとう、美しい十和田!

                           第1部 終わり

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地球の這いずり方 (第2部:豪州編) その1-4

1945-01-29 20:55:22 | Weblog

=== 第2部:豪州編 ===


その1: Good day! OK, Reizo! Good name!

6月30日午前7時半、空が抜けるように青いシドニー空港に到着。よそに行ったらまずご挨拶。何事にもアバウトなこの国では、朝から晩までGood day! 1つで済みます。予約していたシドニー中央駅のすぐ横のホテルのフロント嬢が笑顔で迎えてくれました。化粧の習慣はないようです。みんなスッピンです。「ガッ、ダイ! オーカイ、ライゾー! ガッ、ナイム!」訛りがひどいとは聞いていましたが、これほどとは。でもいいんです。日本でも訛りに慣れ親しんでおりましたから。こちらでは名前は呼び捨てです。ミスもミスターもないのです。レディーファーストもチップもありません。風呂場に歯ブラシやリンスもありません。ついでに暖房もありません。今は真冬です。日中の気温は20度を越えるというものの、朝晩は結構冷え込みます。それでもオージーは厚着で凌ぐのです。往時の下北を思い出します。カフェの植え込みでバナナが小さな実をつけています。街にはたくさんの花が咲いています。

一休みの後すぐに行動開始。中央駅から電車で1時間、居留地のキャンベルタウンへ。ここまで来るとすっかり田舎、まるで十和田に逆戻りしたようです。駅から見上げると丘の上に所々宅地が拡がり、その周辺には牧場や公園やラグビー場が点在しています。さらにその奥はコアラの保護区の森林です。駅で時刻表と路線図をもらいました。

牧場では牛や馬や羊やアルパカが放牧されています。公園の池に黒鳥の親子がいました。芝生にはインコやオウムやハトが群れていますが、日本と同じカラスとスズメもいました。醜いカラスの子は実は黒鳥だったのでしょうか?旅ガラスの僕はうまくこの町に定住できるのでしょうか?

市役所、図書館、観光案内所、ガソリンスタンドなどを巡り歩いて、リュックいっぱいのパンフレットを持ち帰りました。ホテルでチェックするとこの田舎街は人口が15万人、どうやら日本食の食堂も食材店もなさそうです。魚屋もなさそうです。突然めまいを感じました。朝からほとんど食べていません。中央駅から徒歩15分、中華街で海鮮料理を食べました。シドニーは間違いなく世界一美しい街です。中華街でさえオープンテラスで、パリのシャンゼリゼと見違えるほどです。空には南十字星が輝いています。




その2: 創世記

懺悔します。本当はダメな人間なんです。ラーメン屋と回転寿司がなければ、僕はきっと邪な道に走ります。スパゲッティや焼きそばは邪道です。日本そばは掛蕎麦が王道ですよね。大体がですね、天麩羅蕎麦なんてお子様ランチじゃないですか。この際はっきりさせましょうよ、麺を啜るのはマナー違反だなんて、誰が、どこで、何時何分何秒に決めたんですか?言いたかないけど、回らない寿司なんてイキが悪いに決まっています。聞いていない?まあまあ、お互いムキになっちゃいけませんよ。

翌日はバスとモノレールとフェリー を乗り継いで、シドニー市内探索です。ありました、ありましたよ。僕の苦手の納豆だって、らっきょうだって。もちろんラーメン屋も回転寿司も。僕は本当はダメな人間じゃないんです。ナイーブというか、デリケートというか、そういう人っているでしょう?

そのまた翌日の7月2日の月曜日、重いリュックを担いだ僕は、大きなスーツケースを牽いてキャンベルタウンにやってきました。1泊4,000円のモーテルで昼寝をしていると、突然神が現れて言われたのです。「汝、今何時と心得ておるか。1週間で汝の世界を創り上げよ」僕は飛び起きて、駅前の不動産屋に走りました。

月曜日、男は不動産屋5軒を回り借家物件リストもらって、入念にチェックしました。

火曜日、男はレンタカーを借りて、ピックアップした10軒の借家を見て回りました。

水曜日、男は車で海へ・・・。神よ、許し給え。目当ての家は大家の解答待ちなのです。

木曜日、男は大家と契約を交わし、庭と家の大掃除。電話、電気、水道も接続しました。

金曜日、男は家具と電気製品を買い、インターネットを接続しました。

土曜日、男のもとに日通シドニー支店から保管していた船便の荷物が届きました。

日曜日、男の初めての安息日です。

借りた家は日本流に言うと、駅から徒歩5分、敷地200坪、3LDK,築30年、家賃52,000円。台所は電気コンロで、お湯も出ます。ライフラインの接続は電話1本で済みました。リサイクル先進国で中古市場が発達しているから、家具や家電が安く手に入ります。日本にも日曜大工の店がありますが、こちらはもっと徹底しています。DIY,汝、すべて自らの手でなせよ。新品の家具や電気製品はキットや半完成品が多く、自分で組み立てなければならないのです。それはいいけど、図面がいい加減だったり、部品が足りなかったり、ネジが合わなかったり、なんて当然。買った店に文句を言うと、「その部品なら雑貨屋で売ってるよ。何が問題なの?」といった調子です。時間にもルーズだそうで、すべての大物がその日のうちに配達されたのはラッキーだったのかも。故障して修理を頼んでも対応がアバウトそうなので、電気製品は新品を購入。結局総計で100万円ほどの出費ですが、出て行く時に売れば何割か戻りますからまあいいか。引越しはあっけなく終了。中華レストランで食事です。神よ、今宵のお恵みに感謝します。ラーメン。




その3: タランチュラ出現

話は戻りますが、モテル住まいの2日目朝、警察からお呼びです。前日公園でなくしたデジカメが届いていました。デジカメに日本の写真と、モテルの写真と、僕の写真があったので、すぐに落とし主を特定できたのでした。「ガッ、ダイ!」道ですれ違う人は陽気に挨拶を交わします。駅の券売機に戸惑っていたら、気風のいいインド人が教えてくれました。葉書を持って歩いていたら、小学生たちが郵便局まで連れて行ってくれました。公衆電話がつながらなくて困っていた時なんて、金髪のお嬢さんが手を取って教えてくれたのです。これには本当に感激しましたね。

引越しから間もない朝、寝室の壁を巨大なクモが這いずり回っていました。古い家には毒グモが巣食っているとは聞いていましたが、こんなに早々とお目にかかれるとは。ゴキブリだって大型品種がご挨拶にやってきます。厄介者はどこにもいます。市役所で教えられた通りにゴミを出したのに、夕方になっても収集車が姿を見せません。「1日くらい遅れて何が問題?」「私たちは逆に少し生まれるのが早かっただけよ」「何でも面倒みてあげるわ」おしゃべりなご近所の独身3人組の老婦人たち。僕が独身の引退内科医とと聞いて3人の目が妖しく輝くように感じました。僕は身震いをして家に戻りました。夕方は急に冷え込みます。

3人はあまりいい身なりではありません。住まいも僕の家より質素です。1人は車を持っていますが,ポンコツを通り越して粗大ゴミ。日本では今や珍しいバックファイアを連発し、銀行強盗の車みたいです。この国では物を捨てたり、粗末にする習慣はありません。まだ十分住める家を壊して新築することはまずありません。古い車や家具や衣類などは中古品として売買されます。車体が傷だらけでも走行距離が20万キロ以内なら新品だと勘違い、30でやっと己を知り、40にして惑わず、50にして立つ、60万キロでも立派な現役です。

オージーは実用本位で、飾ったり、体面を気にはしないのです。前歯が欠けた淑女、鼻にカットバンを貼った紳士、破れ傘の中学生、超おデブの中年カップル、誰もが堂々としています。いい服を着たり、化粧をしたり、気取ったり、ええ格好しーはしません。本来砂漠の国ですから水資源は貴重。入浴や洗濯はあまりしないのでおしゃれが育つ要素もありません。背広に短パン、ジーパンにターバン、サリーにカーボーイハットなど、はっとするような妙な組み合わせも平気です。

オーストラリアは人種の坩堝です。広大な国土に1800万人の人口、世界200カ国のうち150カ国以上の人がここに住んでいます。多数の言語と文化が共存しています。人口は過疎でも、文化の密度は日本の比じゃありません。




その4: 愛と節操は地球を救う

日本の文化って本当にワンパターンで即物的ですよね。文化と呼べるのはせいぜい厨房器具か電気製品、あるいは劇場かパチンコ屋か宗教団体っていう程度。雑誌や新聞で文化を名乗っていても羊頭狗肉、売らんがための苦肉の策でしょう。あえて精神性を捜しても、せいぜい流行かムード。うまいもん食って、趣味の悪い服着て何が文化人ですか。グルメにブランド、英会話とパソコン、携帯と出会い系サイト。「愛モード使えない大人って程度が低いーって言うか、貧しーい感じがするじゃないですか」そうなんです、文化って愛なんです。入浴と洗濯が嫌いなコギャルにはこちらはピッタリです。もう1つは節操・・・つまり禁欲と克己がなければ、それは文化じゃなくて退化、単なる享楽ですよ。

ワーホリや海外駐在を終えてオーストラリアから戻った日本人は、家の狭さと物価の高さと文化の浅さを嘆きます。こちらの物価は日本の半分というところ。例外は新車とタバコ。車は最大の粗大ごみ。どこの国も対策に苦慮しています。こちらの中古車市場は充実しています。そして、公共の場はすべて禁煙。一方酒は、ビールもワインとも安い。しかし酔っ払いの姿はあまり見かけません。駅周辺や商店街は飲酒禁止区域に指定されていることが多いのです。

物価だけではなくて、税金も安い。相続税はないし、土地や家を売って利益が生じても無税です。税収が少ないので役人も無駄使いはできません。猫も杓子も大学へなんてことはなく、高卒で労働者。住宅ローンで2-300万円のワンルーム・アパートからスタート。所得に応じて買い換えて、夢はプールつきの2000万円の一軒家。衣食住に無駄金を使いません。とりあえず腹が膨れて、夜露が凌げればいいのです。公共料金は安く、スポーツやレジャーや教養には安い公共施設が控えています。これなら少しくらい贅沢をしても年間200万円でやっていけそうです。

ゴミは、一般ゴミ、リサイクルゴミ、有機ゴミの3種類に分別。庭から出たゴミは堆肥やチップにしてすべて自然に戻します。徹底したリサイクルのため、ノート類は紙質が悪く、トイレットペーパーの幅は寸詰まり。缶ジュースはほとんど見掛けません。ペットボトルやプラスチック製品は頼りないほど薄っぺら。ポリの買い物袋が手に食い込みます。それでも誰も文句は言いません。

物だけじゃなく人も大切に扱います。オージーは争いごとを好みません。弱者に親切です。駅でもモールでも公園でも、障害者が電動車椅子で一人で行動しています。ボランティア2人がかりの日本式障害者外出風景はオーマイゴッド、おままごとです。シドニー近郊の電車は2階建てで、各車両ごとに入り口付近に乳母車や自転車や車椅子が乗れる広い場所があります。どの街にも働く女性のための託児所があり、子供を大事にします。役所や図書館では外国からの旅行者や居留者にさまざまな援助をしています。愛と節操こそ文化、真のリッチなのです。

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地球の這いずり方 (第2部:豪州編) その5-8

1945-01-28 20:57:39 | Weblog

 その5: プールに行こう、クールにいこう

十和田では開業医のかたわら、成人病予防のためのスポーツセンターを経営。そこで水泳、テニス、スキー、ゴルフを教えていました。しかし日本のゴルフはねえ、スポーツと言うよりギャンブルか、接待みたいなもんでクールじゃないですよね。グリーンフィーは高いし、女性に重いバッグを運ばせて平気だし、マナーは悪いし。庶民はお近づきになれないスポーツですよね。「八っつあんや。横丁のゴルフ場に囲いができたってねえ」「へー」だから僕は1人セルフで早朝ゴルフか、三沢の米軍基地のゴルフ場。どちらも1ラウンド1500円位でした。

障害馬術もやっていましたが、年会費が3万円ぽっきり。自分の馬を持ってからは餌代が年間10万円余計にかかるようになりましたけど、大型犬やペルシャネコを飼うより安上がりじゃないですか。こちらも庶民と無縁のスポーツですが、ダーティーなイメージはないですよね。「八っつあんや、横丁の馬術場に塀ができたってねえ」「格好いい!」

オーストラリアは馬術が盛んです。近くの牧場で半日1200円で乗れることが判明。ゴルフ場も腐るほどあって、グリーンフィーは700円ちょっと。車で2時間くらいの距離にスキー場がいくつかありますが、ニュージーランドのスキーツアーの方が4泊5日3万円と割安です。テニスコートもあることはありますが、田舎町じゃ人気がないようです。仲間がいないとできません。「スカッシュの方がもてるよ」と市の職員がニヤリ。

市役所からもらった地図によると、市内のあちこちにプールがあります。家から1番近いプールは徒歩20分。屋内と屋外にそれぞれ、成人用8コースの25mプールと小児用プール。年中無休で営業時間は5:15amから7:45pm。利用料は1日200円、半年で8、000円。それならピースボートに乗って4ヶ月不在でも得と考え半年会員に登録し、早速1,500m泳ぎました。

オージーは早寝早起きです。スポーツが盛んでラグビーと水泳は特に人気があります。ラガーは汚れた汗臭いジャージで平然と出勤します。前歯がないのはの勲章です。「こちらじゃ朝一泳ぎしてから出勤っていうのがクールなのよ」本当かいなと翌朝5時に家を出て、オリオン座と大接近中の火星とが輝く夜空を見上げながらプールへ。クールを通り越して肌寒い。嘘じゃなかった。さすが質実剛健のお国柄。昼間より混んでいます。早々と競泳チームが4コース、障害者グループが1コースを占領しています。こうなりゃ格好なんてどうでもいい。早くコースを確保しなくっちゃ。急げや急げ。




その6: 主婦湿疹

プールはとても質素です。箱物行政の日本とは大違い。床はコンクリートのたたき、壁も天井も鉄骨剥き出し。ベンチが並んでいるだけの更衣室の奥はドアもないまま、トイレとシャワー。ロッカーも自販機もありません。シャワーは水だけで、12円投入するとお湯が出ます。時々コインシャワーが故障して只でお湯が出るので、事前の点検が必要です。これが僕の狙い目です。家の風呂は狭くて、蛇口も締りが悪くて、お湯が漏れると居間の絨毯が汚れます。更衣室なんて着替えられればいいのです。泳ぐ間、荷物は観客席のベンチに置いときゃいいんです。泳ぎ終わった後は待望のシャワーですよ。待てよ、ここのシャワーも蛇口がきつい!いいんです、握力トレーニングだと思えば。

オージーは更衣室を使わずにプールサイドで着替えています。「トップレス禁止」の張り紙があるはずですよ。よく見ると下着の上から水着をつけているじゃありませんか。プールを風呂代りに使うのはいいですよ。だけど洗濯とはやり過ぎじゃないですか?

6時半にプールを出たら夜明けを待つ鳥のさえずりがうるさいくらい。図書館に寄ってオーストラリアの鳥と星の学習。パソコンも1時間180円で使えます。安いのは大いに結構です。無駄使いのもとになる只はいけません。正午にモールで買い物。ハエタタキと魚焼きの網の代用品を捜しています。空振りのままシドニー湾名物の生牡蠣を1ダース600円、レモンを10個60円で買いました。モールのフードコートで昼食。ここでは世界各地の料理が300円前後でたらふく食べられます。最後に酒屋で水とビールを調達。重いリュックを背負い、車つきの買い物袋を引いて丘の中腹の我が家に戻ります。水道の水も飲めるそうですが、水質が良くありません。数年前、渇水で川の水が腐敗したことがありました。本当は水の方がいいんですよ。だけど、ビールが安全でしょう。

酒は好きですよ。だけど強くないから、ビールかライトビールですね。ワインもいけません。男と飲むのも厭ですね。男ってくどいし、酔っ払うと御託並べたり、大きなことばかり言うから厭なんですよ。「大体ね、オージーはルーズ過ぎるんだよ。公務員もだらしがねえ。今度は面と向かって文句を言ってやるよ。今すぐ言ってやろうじゃないの。市長でも首相でも連れて来いってんだ!」そりゃあ女だって酒癖の悪い人はいますよ。だけど僕が誰と飲もうと勝手じゃないですか。酔っ払ってなんかいませんよ、僕は。ヒック!

さっきから手が痒いんです。オーストラリアに来てもやっぱり冬は主婦湿疹です、ショック、ヒック!低血圧で昔からシモヤケになる体質なんです。冷え性って言うか、本来がクールなんですね。ジョーク、ジョーク、ヒック!水仕事が過ぎたり、洗剤を使い過ぎたりすると、てきめん主婦湿疹のダブルパンチですよ。日本から持ってきた和食器洗うやら、家の大掃除やらで湿疹奮迅でしたからね。ヒック!

だけど和食器も和服も使う機会があるんでしょうか?これからはシンプルに徹しますよ。CDも本も要りませんよね。背広、ワイシャツ、ネクタイ、革靴もねえ、要チェック、ヒック!




その7: 世界を学ぼう

オーストラリア滞在も残すは1ヶ月たらず。8月19日には東京に戻り、世界1周航海の準備です。ぐずぐずしちゃいられない。ジョンレノンいわく「あるがままに生きなさい」。しかし僕にはやりたいことがあるのです。隣町のリバプールの図書館には大勢の移民や難民が「オーストラリア語」を学びに来ています。留学生はともかく、貧しい人々に当面英語は必要ありません。まずは教養よりも実用。授業料は無料。僕も週2日ここに通うことにしました。

難民は現地語を習得しないと仕事にありつけません。移民法が厳しくなって、不法移民は期限内に語学試験に合格しないと強制送還の恐れがあります。みんな必死で、自分の都合優先です。「知らんで。わしゃ仕事があるんじゃ」先生のオージー訛りもよく分からないのに、それぞれのお国訛りの連発は、白兵戦の戦場です。

戦闘は午前2時間、午後2時間、昼休みには図書館からコーヒーとビスケットが無料で提供されます。「ほんな行きまひょか」それを目当てに外部からも大勢の外国人が集まって情報交換です。

聞けて喋れても、読み書きダメな人がほとんど。僕のアメリカ生まれの甥も、日本語は喋れても、読み書きはできません。祖国日本で一人旅をする時、日本人の友人が忠告してくれたそうです。「決して日本語を使っちゃいけないよ。アメリカ語だけ喋っていれば、日本人はみんな親切にしてくれるんだから」恥ずかしいぞ、日本の文化!

「英語は26文字じゃけん簡単ぞなもし。中国語は5000文字以上ぞなもし」中国人のチャンはベトナム難民です。コソボから2年前にやって来たラファエルはお喋りです。「アイ、ボーン、セルビア」「アイ、ウオズ、ボーン、イン、セルビア」と僕が直してやります。カンボジアから来たトイが電話の請求書を持って僕に訴えます。何を喋っているのかよく分かりませんが、どうやら料金滞納で電話を止められそうな様子。「んだ、んだ。多分そうだんぺ」数枚の必要書類に記入してあげました。アラビア訛りのきついイラン人のマリアからは健康相談、ペルー人のアントニオには僕が不在の4ヶ月間英英辞典を貸す約束をしました。

難民たちは悲惨な戦争体験を口々に述べます。想像を絶する脱出劇、祖国を捨てた不安定なその日暮らしの生活。「ばってん、ようけ分からんな」すべてを理解はできません。しかし僕はこの図書館で言葉と世界を学ぶことができます。




その8: 男リゾはどこに行く

先生が僕に「リゾ」というニックネームをつけました。僕はずっと「レイ」だったのですが、オージーは「エイ」の発音は苦手です。もともとはコックニー訛りなんでしょうね。マイ・フェア・レディの「スペインの雨は平原に降る」という歌はご存知ですか?ロンドンの下町育ちのオードリー・ヘップパーンが確か次のように歌っていました。「ライン、イン、スパイン、ラインズ、マインリー、イン、プライン」「ガッ、ナイム!」つまり「ええ名前やんか」とスパイン人のガルシア。リズ、エリー、ベスの3つのニックネームがあるスーダン人のエリザベスが、僕にウインクを送っています。米料理かトカゲみたいな名前ですが、明るい響きが気に入りました。

3時半に図書館を出るとあちこちの店を覗いて、日本料理の食材や生活便利グッズ捜し。僕はどこに行っても、街中捜しまわって生活必需品や緊急資材を調達する能力があるみたいです。それにプールでも図書館でもすぐに主になっちゃうんです。「お主、しばし待たれよ」行く手をさえぎる2人の人影。殺気が飛び交います。

「拙者をリゾ・マスダと知っての振る舞いか?」漆黒の闇。折りしもS字型のさそり座を切り裂くように一筋の流れ星。ペン、ペーン、三味線の音も聞こえます。こちらの$1は60円であります。「10ドルばかり貸してはいただけぬか?」「な、なんとな?」「いや決して怪しい者では。拙者共日本からの旅行者向けのしがない便利屋でござんす」「この場に及んで無礼千万!して格安搭乗券はござろうや?」

主犯の青山さんは30歳。観光案内、不動産斡旋、引越し請負、各種学校の紹介、翻訳、英会話家庭教師、各種手続きの代行、窓拭き・芝刈り・ゴミ捨て、ベビーシッター、老人介護、路上エンターテイナー、出張男性ストリップと守備範囲はなかなか。しかし生活がかなり苦しそうです。

その日の朝、アメリカの68歳の姉からFAXがあったのです。「世界中いたる所に青山あり。レイならどこに行ってもOKよ」そうなんです。ここから1時間の距離にブルーマウンテン国立公園があります。だけど青山なき人もいます。「青山さん、日本に帰ったら?」彼は涙ぐんでいます。こういうシーンは苦手です。

もう1人の岡さん26歳は確信犯です。「俺は日本に絶対に帰りとうない。無理やり帰れちゅう言われたら死んでやるで。そんでもええか?」あんたが死んでも僕は責任は持てませんけど。けど・・・全く無視もできないという雰囲気で、結構贅沢な晩飯をおごってあげました。次の日も、その次の日も。久々の美食に彼の目は輝いて、舌は弾んでいました。「今度はわしが面倒見っちゃるって。なーんも船乗るこっちゃねえ」どこの方言なんでしょうかね。だから言ったでしょう、男と酒を飲むもんじゃないって。あんたの責任ですよ。

無責任、無計画、無節操のワーホリのなれの果てはアルホリか男性ストリッパーです。多くの人々が南国のパラダイスの生活を夢見てオーストラリアの永住権を取得しようと必死です。だけど、ここではあんまり働かなくても生活できるので安易な移住者も多いのです。「リゾ兄―、行かんでいい。ワイと一緒にオーストラリアで一旗あげんかに。ヒック!」

引き上げますよ、もう結構です。止めてくれるな、岡さん。オペラハウスが泣いている。男リゾはどこに行く?東京に行き、ピースボートに乗る準備ですよ。しばしさらばじゃ、世界一美しい街シドニーよ。            

                             第2部 終わり

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