地球の這いずり方
=== 第1部:日本編 ===
その1 バナナ・コンプレックス
本州の北はずれの下北半島。終戦の年に僕はここで生まれ、幼年時代を過ごしました。飢えと寒さの中で僕は、えらい人間になろうなどとはつゆ考えず、南洋で暮らしたい、バナナを毎日3本食べたいと、そればかり望んでいました。当時バナナは貴重品で、いただき物にバナナが2-3本でも入っていようものなら、一家そろって記念写真を撮ってから、2人で1本とか、3人で1本をよーく味わいながら食べたものです。
中学生になり上京した軽い反抗期の僕は、バナナに憧れと憎しみの入り混じった感情を抱いていました。折りしもハリー・ベラフォンテのバナナ・ボートが大ヒット。「イデデ、イデデ、イデデ・・・」心の傷が疼きます。「馬鹿な歌だ」そして決してバナナを食べませんでした。食い物の恨みは怖いですよ。
医学部を卒業後青森県で街医者稼業を15年ほど続けた頃、妻が突然癌死。呆然と過ごした数週間、狭い街で外食もいやだし、かと言って炊事をする気力さえなくて、毎日3本ずつバナナを食べていました。
ある朝、山のようなバナナの皮を片付けながら、僕は突然、再び生きる目標を見つけました。幼年時代の夢の1つは達成したのです。あとはもう1つの夢の実現、つまり引退して南洋で暮らすことです。この時僕は47歳、子供はアメリカに留学中で数年後には扶養義務からも解放されるはずです。
その日僕は職員と患者とに「3年後の50歳で診療所を閉鎖して南の国へ移住する」と声高らかに宣言しました。しかし誰も本気にしてくれません。
その2 キンパチ先生
廃業して海外移住という決意を誰もが本気にしないので、まず僕はあらゆる公職から退き、態度で示すことにしました。街医者って結構いろんな公職を押し付けられるのですが、辞めるときにもたいして面倒はありません。「そんだば、しばらく体っこ休めてください」「そうじゃなくって、永久にやめるんです」「先生、心も少し休めたほうがいいんでねえか?」
次の策は、診療日数の削減という実力行使。1年に数回診療所を1週間から10日ほど休診にして、海外の移住先探しを始めました。患者が減り、休日が増えたので、職員は大喜びです。「先生、外国さ移住しなくても、もっと頻繁に海外旅行さ行くのがいいですよ」
もう少し頭を働かせて僕は髪を金髪に染めました。「髪に誓って僕は外国に移住します!」今度は患者も大喜びで、ついに僕は「キンパチ先生」と呼ばれるようになりました。
そして3年が過ぎて僕は廃業のための事務手続きを開始しました。ところが役所で廃院届を受け付けてくれません。今度ばかりは患者も職員も大騒ぎです。銀行も医師会もいい顔をしてくれません。「病院をやめるのは勝手だよ。しかし社会的責任というものがあるじゃないか。唐突過ぎる」「何をそんな。3年前からやめると言い続けてきたんですよ。もう髪だって外国人になっているし」「最初にはっきりさせておきたいことが1つある。その髪だけはやめたほうがいい」
すったもんだの挙句、「5年後なら廃業を許可する」という妙なお墨付きをもらいました。55歳になってしまえば体力、気力とも衰えて、馬鹿な考えを改めるみたいな下心が見え見えです。
その3 病める医療
実は僕はずっと前から日本の医療と、行政と、消費文明とに失望していました。できるだけ早めに開業医生活にピリオドを打ちたいと願い続けていたんですよ。
27歳で故郷の下北で内科医院を開業しました。医療過疎地域で若かりし僕は早朝から深夜まで働きずくめ。田園の素朴な人情にも支えられて、それはとてもやりがいのある仕事でした。開業資金は1億5千万円、その借金も5年で返済できたのです。僕より少し遅れて東京近郊で開業した友人の嘆きようは大変。「俺の借金は5億円だ。下北の土地価格はここの20分の1以下だろう。人件費は3分の1だろう。なのに同じ医療費だなんて納得できねえ」そうなんです。世界に誇る日本の健康保険制度は、全国統一料金で、低額でもかなり高度の医療を受けられるものでした。
しかし僕が30歳の頃、老人医療の自己負担が無料になりました。それは老人が困っていたからじゃないんです。健康保険の資金がだぶついていたからです。健康保険諸団体では死亡お見舞とか出産お祝いなどの名目で金をばらまきました。風光明媚な観光地に豪華な保養施設も建てました。それでも黒字は減りません。これに目をつけた与党と政府の人気取りの政策と、医師会の利益導入の思惑が絡んで老人医療の無料化がめでたく実現したのです。
只より高いものはありません。医療費が無料になると、相互扶助の倫理観が失われ、保険財源は節度なく食い荒らされます。老人も無節操になりますが、医者は更に輪を掛けて無節操になります。日本の健康保険制度は出来高払い制です。窓口でいくら取られるかは最後までわかりません。「今日は1,000円しか持っていねえんだけど」「大丈夫ですよ」「だけんどよ、隣町の病院さ行ったら風邪で、血採られて、レントゲン撮られて、5,000円も取られたって聞いてら」「うちでは風邪は300円くらいですよ」「只みていなもんでないけ。ほんだら高くても、いい薬使ってけれ」ナニ?!これは、ただ事じゃないですよ
僕は老人医療の無料化は国を滅ぼしかねない制度改悪であると大反対の声をあげました。しかし、役所、医師会、労働組合、マスコミ、そして老人クラブからまで「危険人物」のレッテルを貼られる始末です。
はたして僕の内科医院も待合室は老人サロンと化し、入院ベッドは老人に占領され、本当の病人の治療が困難になりました。老人医療は楽で儲かる仕事です。すぐ良くなったり、すぐ悪くなる患者は採算に合わないのです。しかしドーピングみたいな真似で弱った年寄りを元気にしたり、死期の迫った老人に点滴や酸素が必要なのでしょうか?
そして30年、医療環境はすっかり荒廃し、日本経済の後退とともに無駄使いを極めた健康保険制度は破綻しました。
その4 浪費と飽食
実験室でワインを作って見ましょう。密閉したフラスコに砂糖と酵母菌を入れると、酵母菌は砂糖を食べてアルコールを排泄しながら、どんどん増えていきます。そして砂糖を食べ尽くすと死滅します。これが辛口ワインです。次に少し条件を変えて同じ実験をすると、一定のアルコール濃度に達すると、砂糖が残っているにもかかわらず、酵母菌は死滅します。これが甘口ワインです。このように人類は地球上の資源を使い果たすか、産業廃棄物などの有害物質の増大によって滅亡するのです。
僕の下北での開業と同時期に、原子力船むつが故郷の街にやってきました。受け入れか反対かで街を二分する激しい対立、夜の街からは「おばんです」の挨拶も消えました。「原子力は儲かるもんだ」「日本が原爆持って、またアメリカが攻めて来るど」電力会社の札束攻勢と与野党の介入で素朴な住人たちは頭がおかしくなりました。
2つの原発と1つの核燃料処理施設の計画も同時進行形です。寒村に突然立派な道路が作られ、不似合いで近代的な公共建造物が次々誕生しました。「こりゃ、たまげた」しかし冷暖房完備の文化センターや天文台や博物館や郷土館や何とか開発センターなんて、本当に必要なんでしょうか?
土地を手放した農民も漁業権を放棄した漁民も立派な家を建て、つかの間の文化生活に感動を隠せません。「本当に便利が良くなったもんだ」しかし生活の基盤を失った住人たちは次々都会へ引っ越していきました。本来豊かさは心の問題です。かつては贅沢じゃないけれど豊かな生活があったのに、今では残った人も心貧しく、家の維持費と税金の支払いに四苦八苦です。
人間は贅沢に慣れると後戻りは困難です。「シャワーのついていないトイレって不潔でしょう?」そんな考え方こそ不潔です。便利さ快適さの追求に過度に慣れ親しむと、次には買い物や消費自体が快楽となり、さらには飽食や浪費に溺れるようになります。「食べ過ぎてもやせる薬があれば、いくら高くても買うわよ」消費文明は麻薬です。人間と社会を支配し、巨大な自己回転を繰り返し、確実に地球を破壊し続けます。際限を知らない人間の欲望に歯止めを掛けなければ、宇宙船地球号は沈没します。果たして今からでも間に合うのでしょうか?日本人は20年前の消費水準に戻ることができるでしょうか?