豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

楽園の物価地獄

2001-12-04 22:15:32 | 海外旅行
12月4日(火) 快晴

  タヒチ

昔はハワイが地上の楽園ともてはやされましたが、今の日本人のイメージではタヒチかバリでしょうか。
タヒチは確かに美しい。でも物価が日本より高いのです。フランス領で数年前に近くのムルロア環礁で原爆実験が強行され、島民の暴動が起こりました。5年前にタヒチに来た時、空港ビルや商店街は焼け跡だらけでしたが今はすっかり改装されていました。

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   楽園の物価地獄

11:00オリビア号はパペーテに入港した。昼食後、小幡と市内見物。マルシェ、インフォメーションを訪ねた後、港と街を散歩し、レストランで夕食。1995年フランスはすぐ近くのムルロア環礁で核実験を強行し、タヒチで暴動があった。5年前にここに来た時には飛行場のターミナルビルは焼け落ちて、商店街も荒れ果てていた。街は当時の面影がないほど復興していた。しかし物価の高さは相変わらずだ。50米ドル両替したのだが、腰布が3000円、ビールが小ビンで500円、すぐに現地通貨がなくなった。マルシェではキャベツが1個500円もしていた。夕方港にはルロットと呼ばれる屋台が20軒ほど並んだが、他の島なら100円程度のメニューがここでは1000円以上という異常な物価高だ。街のショウウインドウには黒真珠や高価な電気製品やドレスが並ぶが、その経営者も現地の顧客もほとんどがフランス人か中国人だ。原住民のマオヒには手が出ない。

タヒチには紀元前から東南アジアから移り住んだマオヒによるポリネシア文化が栄えていた。タヒチ島の存在が西洋人に確認されたのは1600年ごろスペインのメンダーニャ一行によってだ。1767年イギリス人サミュエル・ウオリス、フランス人ブーゲンビルがタヒチに上陸した。1789年、タヒチに滞在していたイギリス船バウンティー号の乗組員が反乱を起こし、彼らはタヒチ北部の酋長の雇い兵になり、島に銃を持ち込み、ポマレ王朝が誕生した。その後ビクトリア女王が他の植民地経営に力を注ぎ、1842年、タヒチはフランスの保護領となった。1966年フランスはムルロア環礁で核実験を開始し、実験施設への投資やそこで働く労働者の高い賃金が、自給自足のタヒチの経済を破壊した。

タヒチの人々がフランスからの独立を望んでも経済的な事情が障害として立ちはだかっている。フランスの援助金に頼りきった経済は、タヒチの農業や序行を荒廃させた。失業率の高いこの島では職のない人々が公務員や実験施設労働者の高給取りの親戚にすがって生きているという図式も珍しくない。

ゴーガンの絵やモームの小説などから想像される「楽園」のイメージと裏腹な現実がタヒチを取り巻いている。「非核・独立」の運動も前途多難だ。



読書:「ハンガリー事件と日本」 小島亮

コメント
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