豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

 ワイン・パーティー

1992-10-25 22:22:15 | 住まい
10月25日(日)

RACのメンバーがやって来て僕の家で飲み会。昨日八戸でキャビア、チーズ、生ハムなどを購入。ユミと2人でカナッペやサンドイッチを作った。ガレージにはワイン専用の冷蔵庫と、業務用のステンレスの大型冷蔵庫があり、常時ビールは冷えている。
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近況報告:1992、10、24、

1992-10-24 16:19:36 | Weblog
         近況報告
                               


     拝啓  皆さんお元気でお過ごしでしょうか。今日の僕はあまり元気がありませ

     ん。今日ダンスのメダルテストがあり、僕はラテン3級に合格しました。ボール

     ルームの床に10メートルの直線をひいて、その端に10円玉を2個置いて、ダ

     ンスシューズのトウで1個ずつ引きずりながら向こう端まで歩いて行きます。そ

     して同じ動作で後退して戻って来る訓練を6カ月続けました。これはキューバン

     ウオークを体得する訓練です。


      昨日、小石川高校水泳部の1年先輩の笠井尚紀君のお母さんが「家庭なき子」

     の僕に香港のペニンスラホテルのクッキーと紅茶とジャムを送ってくれました。

     メダルテストから戻って、僕は1年ぶりに村上龍の「ラッフルズホテル」を読み

     ました。この小説を読むと僕はいつも深い絶望感に打ちのめされます。



     MAKIE

      萬喜江は早稲田大学の劇団こだまの舞台女優でした。社青同解放派の活動家で

     もありました。僕と一緒になってからも女優の自分を捨てきれず、大勢の中で自

     分が1番輝いていないと、気が済まない女でした。身体は小さくても圧倒的な存

     在感があり、東北の田舎町のパーティーでは、周囲がすべて輝きを失うようなオ

     ーラを持つていました。彼女が手を触れるとランの花さえたちまち枯れる不思議

     な力がありました。


      萬喜江は卒論に宮沢賢治を取り上げてから、北東北にイーハトーブという理想
      
      郷があると考え、十和田市がそのイーハトーブであると信じて、10年間この街

      の女王として君臨し続けました。


      萬喜江は僕が他の女性達から熱烈に愛される男でいないと気が済まない一方、

     とても嫉妬心の強い女でした。そして僕に危険を冒させて試すことによってしか

     自分への愛を確信できない女でした。だから僕は萬喜江の命令で何度も冬の海に

     飛び込んだり、崖をスキーで転がり落ちたり、岩山を素手で登らされたりしまし

     た。自分のために命を賭けてもらえることで、彼女の愛は嫉妬を越えることがで

     きるのでした。2人の子供は、僕たちの狂気の生活に愛想をつかして家を出た賢

     い子供です。



    REY

      僕は父が42才の時の子供です。父は北支に従軍中にー時共産主義にかぶれて、

     レ-ニンよりも偉い人問になれと願って、僕に礼三と名ずけました。

      60年安保闘争の敗北により崩壊した共産主義者同盟の再建の活動に従事した

     僕は、着実に党内の地位を確立していきました。しかし12年後に僕は、革命の

     裏切り者として、組織から追われる身になります。その原因は色々ありますが、

     1つは連合赤軍の同志殺しをめぐる総括の論争であり、もう1つはベトナムかい

     らい政権最後の首相であるグエンバンチューの発病です。


      赤軍派は共産主義者同盟のー分派です。浅間山荘銃撃が10日間ΤVで放映され
                             
     た時点では街頭カンバに連日数十万円の入金がありましたが、リンチ殺人事件が

     報道されてからはほとんどゼロになりました。そして救援組織が、総括した側と総

     括された側の家族の反目から分裂して、近親憎悪の修羅場と化しました。共産主

     義者同盟では正規の決定をしないまま早々と「銃撃戦肯定、同志殺し否定」の方

     針を発表しました。僕はこの方針に反対して「全面肯定」か「全面否定」を要求

     して僕の分派は「銃撃戦肯定、処刑肯定」を主張して、救援組織の分裂回避に力

     を注ぎました。


      この頃ベトナム革命戦争が最終局面を迎えていました。ある日僕は自分が主治

     医をしている華僑からサイゴン行きの依頼を受けました。政権が末期症状になっ

     ているグエンバンチューが脳卒中で倒れたのです。これが国民に知られれば一挙

     に政権が崩壊しかねないので、日本から内科医を派遣して欲しいとの要請が秘密

     裡にあったのだそうです。組織トップ内では反共のシンボルのグエンバンチユー

     を助けることに対して強い抵抗がありましたが、闘争資金と救援対策資金が底を

     ついていたので、報酬の魅力に負けて僕はこの仕事を引き受けました。


     香港のペニンスラホテルで契約書にサインをして約束の金の半分を受取り、戒厳

     令のサイゴンに入った時点で僕の素性が多分知られたのでしょう。サイゴンで3

     日間軟禁の後、シンガポールのラッフルズホテルで更に7日間軟禁されました。

     10日間僕の身の回りの世話をしてくれたフランスとベトナムの混血の女優ルイ

     ーズも香港に脱出させたかったのですが、それは果たせませんでした。僕は再び

     ヘリでサイゴンに連れ戻されて、グエンバンチュー夫人と会見して、契約破棄に

     同意して、そのまま香港に飛ばされました。

                      
      日本に戻って間もなく僕は組織から除名され、全国に指名手配されました。僕

     は妊婦の萬喜江を連れて全国を逃げ回った挙げ句、最後にはー人香港に飛んで、

     市内が危険になるとしばらく九龍城砦に身を潜めていました。


      その後組織は四分五裂し、青森までやって来るヒットマンもいなくなったので、

     むつ市で6年間ひっそりと暮らしました。


      しかし革命が骨の随まで染み込んだ人間は、禁断症状と後遺症に悩まされ続け

     ます。多くの同志が命を落としたり、不具者や逃亡者として暗黒の世界をさまよ

     っています。革命に代わる何物も存在しないのに、それでも代わるものを求めて

     生き続けることはつらいことです。


      それでも萬喜江と一緒の時には革命と体を張った危険なゲームの刺激とを共有

     できたので耐えることができました。萬喜江を失ってから僕は虚NEWと美形の

     死ばかり考えるようになりました。今でも1日でも退屈な日があればきっと死を

     選びます。人間は50才までは社会のために働く義務があると考えて、あと500

     日間退屈ゼロの日が続くことを望んで、僕は自分にかなりハードな義務を課し

     て毎日を過ごしています。明け方に目を覚ますと決って「今日は誰のために生き

     ようか。何をして遊ぼうかな」と考えます。


      しかし何とかこの不安定な状況を克服するために、香港とシンガポールに行っ

     て、過去を総括し、現実から逃避したがる心を捨て切らないといけないと思い始

     めました。過去に引きずられずに生まれ変わった気持で生きたいとは望みますが、

     不可能な夢のようにも感じます。


      昨年の正月には萬喜江の散骨のためにオーストラリアに行きました。萬喜江の

     ために、70メートルの鉄塔からバンジージャンブを繰り返し、スカイダイビン

     グをやったり、海面すれすれの曲乗り飛行をしたり、サメのうじやうじやいる海

     に潜ったりしました。萬喜江は多分いつものように「私を本当に歓ばせてくれる

     のはレイ、あなただけよ」と芝居がかった台詞をつぶやいただろうと思います。

     パラシユートの紐を最後まで引かなければ楽に死ねたと思います。遠くの海に泳

     ぎ出しても、溺れるためには僕はあまりに泳ぎが得意過ぎました。    


     昨年のゴールデンウイークには香港に行き、ペニンスラホテルにも九龍城砦に

     も行ってみました。もう日本に戻りたくないような気分も少し味わいました。空

     しさも懐かしさもありましたが、少しは現実を直視できました。ある程度生きる
     
     望みが生まれたような気分にもなれました。しかし、それは夢なのかも知れませ

     ん。せめて夢に溺れられれば良いのですが。



      今年の年末にはシンガポールに行く予定です。ラッフルズホテルでルイーズポ

     メリを飲んだ後、マラッカ海峡に飛び込むかもしれません。しかし僕は溺れない

     でしよう。マンゴスチンをたらふく食べて、シンガポールスリングで悪酔いして、

     過去を清算できたような錯覚に溺れて、良い気分で日本に戻って来るかもしれま

     せん。


      生き続ける目標が欲しいけれど、そんなものは容易に見つかりそうにありませ

     ん。それでも体の奥に固く塗り込められているタブーを少しずつ掻き落として、

     生きる望みを追い求めて行こうと思います。



      これまで自分自身に禁足令を強いていた香港や、東大の安田講堂や、広島大や

     医科歯科大や慈恵医大の学生会館に行きました。リーメモリアルの4月28日、

     マキエメモリアルの7月7日に女性に接しました。シンガポールスリングも飲み

     ました。萬喜江以外の女性の前で歌ったり、ギターを弾いたり、踊ったりできる

     ようになりました。今でも多少の抵抗はありますが、行動の繰り返しが慣れを招

     いてくれるでしょう。


      萬喜江の死後僕の家を訪ねてくれた多くの人は、僕の生活の危険な香りにあき

     れたり、あるいは怒って引き上げて行きました。僕の生がビリオドを打つまで、

     古傷は癒さず、自分の目にも触れないように隠しておくつもりでした。皆さんの

     励ましが今からでも治療は可能ではないかと思わせるに至りました。皆さんには、

     感謝の意を込めて、副賞を添えて感謝状を贈呈したいと思います。   敬具

       
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八幡平ドライブ

1992-10-18 22:17:35 | 日本国内旅行
10月18日(日)快晴

ユミと紅葉見物に出かけた。奥入瀬渓流を登り、十和田湖から秋田側に抜け、湯瀬温泉へ。八幡平を通って松尾鉱山跡地で山を降り、高速道路を利用して帰宅という強行軍。紅葉の名所をはしごし、途中の熊牧場も見物した。
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マツタケ狩り

1992-10-10 22:15:28 | 青森
10月10日(土)快晴

東通村猿が森砂丘にマツタケ狩りに出かけた。鳥取砂丘は近年草木が生い茂り、砂丘が消滅しつつあるが、猿が森砂丘は雄大な姿を保っている。しかしその存在は地元民にさえよく知られていない。理由はここが防衛庁の実弾試験場で、立ち入り禁止だからだ。砂丘の周辺の防砂林ではマツタケが取れる。今日も上々の収穫だが、残念なことにここのマツタケは風味がごく少ない。
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