豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

1990年6月15日 北 幻

1990-06-15 15:30:57 | Weblog
     1990年6月15日 北 幻

                               

 本州北限の地である尻屋岬にある桑畑山は標高400メ-トルしかないのに、津軽海峡と太平洋が丸く見える。1990年6月10日(日曜日)、ボクは海辺の断崖を一人登っていた。一匹のリスがからかうようにボクの少し前を行く。山頂はツツジとシャクナゲが満開だった。冷たい潮風に吹かれながらボクは眼下を見渡した。コバルト色の海すそには放牧場の若草色の芝生が広がり、南の彼方にはどこまでも続く砂丘が白く輝いていた。桑畑山は石灰岩の岩山である。わずかな窪地に灌木が根を下ろしている。ボクはポケットからツバキ「北幻」の種子を10個取り出すとイヌツゲの茂みに埋めた。

 ツバキの北限はここから約50キロ南の夏泊半島であるといわれている。しかし16年前に、下北で開業医生活を送っていたボクは、この桑畑山で1株のツバキを採取したのだ。庭に植えたツバキはその後花を咲かせることはなかった。11年前にボクは十和田市に移住して、柳沼弁護士と出会った。当時ボクは10件以上の裁判を抱えていた。「意地を張るのはおよしなさい。国家権力を喜ばすだけですよ。安保闘争なんて昔話。時代は変わったのですよ」彼は係争中の裁判を次々片付けてくれた。彼は1000坪ほどもある庭にたくさんのツバキを栽培していた。ボクがお礼にプレゼントしたツバキに、彼は「キタマボロシ」と名付けた。数年後赤い花が咲いた。多分それは幻の北限の自生ツバキではなく、誰かが植えたものであろうとボクは考えていた。ボクは彼を毎年のように桑畑山に案内したが、他にツバキを発見することはできなかった。その彼も今年77才で、肺癌のために体重が44キロになっている。

 山を降りた時に源さんに会った。「今日は弁護士様いなくて、一人でゆるくなかったべ。何もねえ山だし」彼はボクよりも10才ほど年上だ。潮焼けした顔に深いしわが刻まれている。「木の実もない山にリスがいました」「海岸さクルミだのクリ拾いさ来るのよ」山だらけの下北の人々は秋に海岸でクルミ拾いをする。沢のクルミは雨風に押し流されて最後は海岸に流れつく。北幻も伊豆大島あたりから流れついたツバキの実をリスが桑畑山に埋めたのかもしれない。

 ボクが源さんに初めて会ったのは33年前のことになる。小学校を下北で過ごしたボクは東京の中学校に入った。4か月間の都会生活にすっかり疲れ果てたボクは、惨めな気分で帰省した。初めての航海で嵐に痛め付けられて、ボクは積み荷も乗組員も見捨てて港に逃げ帰って来た。誰かと会うのも口をきくのも、姿を見られたり、噂にされるのさえもイヤな気分だった。初めてのクラス会も気が進まなかった。小学校の同級だった申賀君に尻屋の親戚の家に泊りがけで遊びに行こうと誘われた時、ボクはすぐに同意した。

当時尻屋行きのバスは1日1便しかなかった。クラス会の前日の朝、ボク達は片道2時間の行程の旅に出発した。桑畑山の絶壁に2-30戸の家が身を寄せてへばりついていた。海は荒れて冷たい霧が漂っていた。村中が親戚らしく申賀君は次々と色々の家を訪ね、ボクは何もすることがないので、仕方なく後に従った。どの家も大体同じような作りで、土間に続く板の間のイロリには夏だというのに薪がくべられて、大鍋が沸騰していた。海鳴りと山鳴りのはざまで、窓ガラスが揺れ、家全体がきしんで、まるで船に乗っているようだ。大鍋の中身は何日も煮込まれたダイコン、ジャガ芋と様々の魚と貝だった。どの家に行ってもドンブリ山盛りの磯汁が出されたが、ハシをつける気さえ起こらなかった。村人は誰もが大声で良く笑うのが不思議だった。ボクは一人場違いな感じがして、申賀君を恨めしく感じた。その日の昼食も夕食も磯汁と御飯だけだった。日没とともに全員が布団に入らなければならなかった。ボクは重い掛け布団と潮騒のためにほとんど眠れなかった。

翌日も海は荒れ、霧は一層濃くなっていた。何もすることはなく、ボクは時計ばかり眺めていた。4度目の同じメニュ-の食事を済ませると、ボクは申賀君と村人たちに礼を述べてバス停に向かった。ボクは夕方のクラス会に出席するつもりになっていた。しかしバスは急ぎの乗客がいるとのことで、予定よりも30分も早く出発した後だった。磯汁の夕食の後、村はずれの公民館の前庭で映画会が開かれた。村人たちは大喜びだったが、ボクは孤独で惨めな気持ちだった。バスに乗り遅れなければ、ボクは旧友たちと愉快に過ごしているはずだった。深夜ボクは霧笛の音に外に飛び出した。岬の灯台の灯が沖合の霧をえぐるように照らした後、一瞬光の輪の中にボクの姿を捕らえては、次の獲物を求めて走り去って行った。逃げ場を失った脱獄囚のようにボクはその場にしゃがみこんでしまった。「海がおっかねえのか」突然闇の中から源さんが現れた。「それとも好きな女ゴがいるのか。沖さ出れば浜が恋しい。浜さいれば沖が恋しい」どうやら彼は恋をして詩人になっているらしかった。

翌朝は快晴だった。ボクはアワビ漁の源さんの船に乗せてもらった。漁師たちはカギのついた竹竿を操っていたが、ボクは素潜りで1度に数匹のアワビを捕った。最後にボクは何度も息をためこんで、5メ-トル以上の海底から1枚の金貨を拾い上げた。「ロシアの金貨だべ」尻屋沖は海難多発地帯で海岸に古銭が打ち上げられることもある。漁から戻ると源さんは以前拾った銅銭をみやげにくれた。ボクは何とか元気を取り戻して、その日の午後尻屋を後にした。ロシアの金貨と思われた物は、小判が波で磨り減ったものと後に判明した。

 「桑畑山でツバキを捜すより、前沖の沈没船から千両箱ば捜すのがいいって」「7月に一緒にやりましょう」ボクはバイクで尻屋を後にした。15分ほど走ってボクは小川のほとりでバイクを止めた。キャンプ用のガスバ-ナとコッヘルをリュックから取り出して、チキンラ-メンを作って腹ごしらえした後1時間半昼寝をした。草の香りと初夏の太陽が心地良い。午後3時にボクは目を覚ますと川砂を磨き粉代わりにコッヘルを洗った。何度目かに砂と水をすくい上げた時、コトリと音がしてコッヘルの底にまばゆく輝くクルミ大の金塊が沈んでいた。上流に金脈があるに違いない。小川は200メ-トルほど上流の桑畑山の中腹の洞穴から流れ出ていた。ボクは子供の頃からこの辺りは何度も探検しているので、洞穴の奥に鍾乳洞があることは知っていた。懐中電灯を持って狭い入り口をくぐり抜けると、すぐに広い部屋になっていて数匹のコウモリが飛び回った。洞窟の床を流れる幅1メ-トルの小川の水底が懐中電灯の光の輪に山吹色に輝いた。石灰岩の柔らかな川底は流水に浸食されて幅50センチの金脈が30センチも盛り上がっていた。
 十和田市に戻ると、ボクは5日間、市内の数軒の金物屋や日曜大工の店で目立たぬように金鉱発掘の資材を買い揃えた。

 6月15日(金曜日)午前2時、ボクは農家の友人から借りたトラックにハンマ-、ジャッキ、ウインチ、ワイア-ロ-プ、手押し車、ゴム手袋、長靴などを積み込んで尻屋崎に向かった。目的地につくと、この5日間に大雨が降ったのか、小川の様子はだいぶ変わっていた。そして洞窟の金脈は影も形もなくなっていた。間もなくボクは事態を理解した。ボクは夢を見ていたのだ。5日間前にボクが桑畑山に登ったのは事実だ。山を降りて源さんと、7月に沈船捜しの約束をしたのも間違いない。しかしボクは途中でインスタントラ-メンを食べたりしないで、真っ直ぐに帰宅したのだ。その日ボクは沈船捜しに必要な資材リストを夜遅くまで書き続けて眠り込み、金脈発見の夢を見たのだ。

 その日の夕方ボクは柳沼弁護士宅を訪ねた。彼は2度目の放射線治療のための入院から戻ったばかりで、かなり衰弱して、縁側の籐椅子に座っていた。「おととい源さんがなく亡くなったんだってね」ボクは驚いたが、顔には出さなかった。源さんは沖で溺れたのだろうか、それとも浜で息を引き取ったのだろうか?「海には法も権利も義務もありません。素朴に生きて、誰にも恨まれずに死にたいものです。人と人の争いはもう沢山」庭には盛りを過ぎたツバキが風が吹くたびに散り落ちた。「北幻を何とか桑畑山に返してあげたいものだね」やはり沖で死んだに違いない。数分後ボクが振り向くと、彼は小さな体に傾いた陽射しを浴びながら、安らかな寝息を立てていた。
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