心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

年々去来の花

2014-04-20 09:05:40 | Weblog

  ちょっとした環境の変化が心のリズムを狂わせます。4月に入って仕事に少し変化があったためか、目を通す本の種類がビジネスに偏り過ぎていて、何とも無味乾燥な時間が流れています。ならば夜こそは思いますが、ベッドに横になった途端眠ってしまいます。健康的なのか不健康なのか良く判りませんが、そのまま朝までぐっすりとお眠りです。
 そんな週末、冬の頃に読みかけたまま枕元に閉じていた新潮文庫「西行」(白洲正子著)を手にとりました。栞紐を挟んだページを開いてみると、「法金剛院にて」の項で止まっています。

なにとなく芹と聞くこそあはれなり
摘みけん人の心知られて

 何となく芹というのは哀れなものである。それを摘んだ人の心が思いやられて、というだけのことであるが、却ってこのような軽い調べの奥に、西行の本心がうかがえる、とあります。その昔、芹を召し上がっている后の姿を垣間見た身分の低い男が、后に思いを寄せて毎日のように芹を摘んでは御簾の傍らに置いていたが、適わぬ恋に患い死んでしまった。そんな逸話から、「芹を摘む」という言葉は物事が適わない意味を現すようになったそうです。
 子供の頃、早春の季節に、三つ年上の姉に連れられて芹摘みに行ったことがありました。雪解けの水が緩む頃、小川の縁を歩いていると、簡単に見つけることができました。その何本かを摘み取ると、芹の香りが漂います。物事が適わない認識はありませんが、その場面が淡い香りの記憶とともに古き良き時代の風景から切り取られたように、頭の片隅に残っています。
 肌寒いけれども晴れ渡った土曜休日は、2カ月ぶりに大槻能楽堂にでかけました。能の魅力を探るシリーズ「世阿弥生誕650年記念」公演です。写真は開演30分前の風景ですが、ほぼ満席の賑わいでした。最前列に座った私は、能楽研究者・松岡心平先生の講話を聞いた後、「年々去来の花」を見せた観阿弥の代表作「自然居士(じねんこじ)」をご鑑賞です。
 場面は京の都、東山。居士が神社再建の寄進を募るための説法をしていると、14,5歳の少女が小袖を供え亡き両親の追善を願い出ます。そこへ東国の人買い商人が現れ、少女を連れて行ってしまいます。少女が御供えした小袖が自分の身を売って得たものだと知った居士は、説法を止め商人を追います。今まさに琵琶湖西岸の大津の河畔から船出をしようとしています。居士(シテ)と商人(ワキ)のやり取りが始まります。汗握る場面が続きます。そして居士は少女を取り戻します.....。絶妙のリズム感が漂う場面展開にのめり込んでしまいました。
 日頃、多様な動きの中で複雑に絡み合う人間関係に右往左往している現代人にとって、あまりにもシンプルな勧善懲悪劇は、子供の頃に見た紙芝居に近いものがあります。絡み合った釣糸を丁寧に解していくような、そんな贅沢な時間が、そこにはありました。
 世阿弥の風姿花伝の中に「年々去来の花を忘れぬことだと」という言葉があります。ついつい、レビンソンの「ライフサイクルの心理学」と重ねあわせて考えてしまいますが、「幼い頃の容姿、初心の時の技、油の乗った時分の演技、老年のたたずまいなど、その時代時代に自然と身についた芸をすべて今、一度にもつべきである」と世阿弥は言います。
 ところで、京阪電車天満橋駅から歩いて大槻能楽堂に向かう途中、道の両側に大阪府警とNHK大阪放送局が立ち並ぶ一画に大きな楠木が立っています。その根元にはオランダ人科学者であるハラタマ博士(1831~1888)の胸像と「史跡舎密局跡」の石碑があります。大阪舎密局は、日本最初の理化学専門学校として明治2年に開校した学校で、ハラタマ博士はそこの教頭先生でした。石碑には、「明治2年5月1日政府はこの地に物理化学を専攻する舎密局という学校を開設した。この場所はその遺跡の一部である。 この学校はその後度々名称を変えて明治19年第三高等中学校となり明治22年8月京都市吉田に移り明治27年9月から第三高等学校となった。現在の京都大学の教養部である。この樟樹は舎密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったという」と記されています。
 都会の真ん中にひっそりと佇むハラタマ博士の胸像を眺めながら、ここに近代日本の物理化学の出発点があったことを思うと、心が熱くなります。道すがらピンクのライラックにも出会いました。距離を置いて現実の我が生き様を見つめる心の余裕をもつこと。春の一日、束の間の休息をいただきました。

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