心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

恐れる、畏れる、怖れる、懼れる

2007-06-10 10:07:08 | Weblog
 無表情な、どんよりとした雲に覆われた休日の朝、いつもどおり愛犬ゴンタと1時間余り散歩をしてきました。庭の片隅では、紫陽花の花が咲いています。紫陽花にとっては、むしろこんな天候がお好みのようで、それは美しい姿を見せています。 
 ここ数日、晴れていたかと思うと急に雨が降り出し、それも大粒の雨が落ちてきて、それに追い討ちをかけるようにゴロゴロドカーンと雷鳴が轟き、愛犬ゴンタも小屋の奥に身を潜める始末。「大丈夫だよ」と声をかける私までも、何やら不安になってしまいそうな、そんな経験をしました。素手ではどうしようもない、自然の威力の前に、ただ触れ伏すしかありませんでした。
 「おそれる」という言葉を広辞苑で調べると「恐れる、畏れる、怖れる、懼れる」とあり、①相手の力におされて、心がよわくなる。かなわないと思いこわがる②悪いことがおこるのではないかと気づかう。憂慮する③うやまって近づかない。おそれ多く思う④閉口する。まいってしまう----とあります。一般には「恐」、畏敬・畏怖の意では「畏」も使う、恐怖・危懼などの意では「怖」「懼」も使うともあります。
 そういえば最近、「おそれる」ということを経験する機会がなくなったような気がします。「おそれる」ことの対象自体を非科学的なことと割り切ってしまっているところがあります。科学的に解決できると踏んでいる。だから、頻繁に起こる惨たらしい事件などは逆に、あくまでも人間行動の異常さで片付けてしまう。
 果たして、相手の顔の見えない「怖さ」は、科学技術の前に完全に姿を消してしまったのでしょうか。そうは思えません。逆に、「怖さ」を目の前にして互いに助け合おうという関係性の欠如の方が気になります。身に迫る危機を孤軍奮闘、頑なに一人で向き合おうとするから無理が生じてしまう。思考が硬直化し、前後の関係が見えなくなってしまう。共通の「こころ」の基盤が脆弱だから、ますます孤立化の道を歩む。結果、自分をどうしようもない状況に追い込んでしまう。心の「絆」が希薄になってはいないでしょうか。職場におけるメンタルヘルスも、こうした孤立化が進む人間社会のひとつの現れかもしれません。先日の朝日新聞”経済気象台”で指摘されていた「現実とそれを生み出す人間の心の関係」を無視する経営観にも課題があります。
 出口の見えないことを、あれやこれやと考えながらブログの更新をしていたら、いつの間にか雲の合い間から青空が顔を出し始めました。雲も軽やかな真っ白い雲に変わり、周囲が明るくなってきました。さぁ、休日の始まりです。(^^♪
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