つい最近お正月を迎えたと思ったらもう2月。時の経つのは本当に早いものです。明日は節分、近くのお不動さんも豆まきの準備万端です。
そんなある日、天王寺公園「てんしば」にあるイタリアンレストランで、カレッジ2年生の新年会が開かれました。授業のあと三々五々集まった元気なシニアたちとワイワイガヤガヤ、楽しいひと時を過ごしました。.....それにしても、ことしに入って何回新年会をやったんだっけ?(笑)。
そのカレッジは1月の3週目から「古典文学」がテーマです。初回は源氏物語の「桐壺」、次いで「夕顔」。今月に入って「若紫」「葵」と続きます。午前と午後の各2時間、合計4時間にわたって読んでいきますが、古文の読解力に乏しい私は四苦八苦です。それでも、千二百年も前の物語なのに今と変わらない人の心の在り様に苦笑いでした。
源氏物語の合間を縫って「平家物語に見られる歌謡と芸能」、能楽師さんによる「隅田川」の連吟と仕舞3曲の実技披露もあり、このところ頭の中は平安の世界。ほぼ同時代を生きた空海(774年~835年)と紫式部(970年~1019年)の二人を身近に感じる今日この頃です。
と言いながら、週の初めには伊丹市のAI・HALLであった演劇「さよならだけが人生か」を観に行きました。平田オリザさん主宰の「青年団」第76回公演で、1992年に初演された作品の再演でもありました。
私が初めて演劇という世界を覗いたのは10数年も前のことです。お仕事で知り合った照明デザイナー・石井幹子さんが関与された三島由紀夫の『サド侯爵夫人』でした。ご招待されて、わざわざ大阪から上野の東京国立博物館まで観劇に行ったことがありました。演劇に関わる知人がいて、その演出によるブレヒト没後50年『コーカサスの白墨の輪』を観に行ったこともありました。いずれにしても「演劇」は、私の日常とは異なる世界であることに変わりはありません。
今回は、最近何冊かの本を読んでいる平田オリザさん(大学で演劇理論を教えていらっしゃるので先生と呼ぶべきかもしれませんが)の演劇の世界を体験したくて出かけました。午後1時40分開場、300席ほどの薄暗い演劇ホールに入ると、鉄パイプを組み立てた舞台の上では、既に2人の役者さんが演じ始めています。2時の開演までずっとそんな状況が続きますが、定刻になると簡単な挨拶のあとそのまま劇の世界に。舞台は工事現場の飯場。登場人物は遺跡が発見された工事現場で働く従業員、ゼネコンの社員、遺跡の発掘作業のためにやってきた学生たち、そして文化庁の職員。およそ2時間の間、人の出会いと別れをテーマに場面が進んでいきます。
演劇というと、役者の大仰な所作とセリフに違和感を感じてしまいがちですが、この作品は違います。普通の自然なトーンで淡々と進んでいきます。なのに登場人物の存在感、個性が妙に気になります。工事関係者の人間模様、学生たちの心の彩、遺跡にまつわる縄文人の怪.....。あとは皆さんで感じ取ってください、ということなんでしょう。帰りの電車のなかで、その余韻を楽しんでいる私がいました。
帰りがけ、平田オリザ関連書籍の特設売場で「下山の時代を生きる」(平凡社新書)を手にしました。言語学者の鈴木孝夫氏との対談です。その中に平田さんの「現代口語演劇理論」という言葉が出てきます。鈴木さんが源氏物語に触れ、「相手が誰なのか、よほど人間関係とか当時の上下関係を知らないとわからない。人称代名詞を使っていないから」と、日本語がもつ妙に触れます。「会話」と「対話」の違い......。日本語を相対的に見つめる平田さん独特の演劇の世界が垣間見えるようです。
この日訪れた伊丹市立AI・HALLは「現代演劇の専門劇場」がキャッチフレーズです。4日間にわたって6公演行われ、うち2公演には平田さんによるポストパフォーマンストークがあったようです。残念ながらそれは聞き逃しました。それでも平日の午後だというのに老若男女さまざまな年齢層の方々が演劇を楽しみにお越しになっていました。根強いファンがいることを知りました。
城崎温泉のある豊岡市の城崎国際アートセンターで芸術監督も務めていらっしゃる平田さん、2年後をめどに劇団「青年団」の拠点を東京から豊岡市に移し、自らも引っ越したい意向のよう。これこそ地方創生のお手本です。国内外でご活躍の平田オリザさんの今後に期待したいものです。
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