夏がしぼんでしまう前に もう一度
庭の手入れをしよう
花に水をやろう 花はもう疲れている
花はまもなく枯れる もしかしたらあすにも。
これは、ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」の一節です。ヘッセの水彩画が添えてありました。何かほっとする時間をいただいたような気がします。
昨日は、事務所にちょっと立ち寄ったあと、四天王寺さんの「大古本祭」に行ってきました。初日とあって境内には早くも古本ファンがお集りで、私もす~とその中に溶け込んでいきました。
図書館や本屋さんだと、概ね系統分野別に本が並べられています。でも、古本はそうではありません。お店によって様々ですが、分類といっても極めて大雑把。本を探すのに苦労しますが、時間はたっぷりあります。むしろ、既定の枠(分類)にとらわれない本との「出会い」がそこにはあります。それが古本祭の醍醐味です。
歳とともに選書の傾向が違ってきます。現役の頃はピーター・ドラッカーや野中郁次郎やらの経営書、それも古本ではなく新刊本を読み漁っていましたが、さすがに今はその種の本はスルーです(笑)。
リュックに入れて持ち帰ったのは次の7冊でした。なんとなく最近の私の心の中が透けて見えそうです。定価の4分の1のお値段で贅沢な時間を過ごします。これも年金生活の楽しみかもしれません。
ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の楽しみ」(草思社)
ドナルド・マッケンジー「北欧のロマン:ゲルマン神話」(大修館書店)
中村保雄「カラー能の魅力」(淡交社)
石田瑞麿「日本仏教史」(岩波全書)
吉田秀和「レコード音楽のたのしみ」(音楽之友社)
五味康祐「ベートーヴェンと蓄音機」(角川春樹事務所)
「ザ・日本のメダカ~心をいやす日本のメダカの飼育」(誠文堂新光社)
ところで昨日、Amazon kindleで新書「音楽の危機」(デジタル本)を読み終えましたが、なんとなく落ち着きません。音楽を語る本なのに、音楽が聴こえてこないのはなぜ?頭脳明晰な方ならどんな媒体であっても何ら問題はないのでしょうが、庶民にはやはり紙の手触りがほしい。
先日の読売新聞に「紙で読む良さがある」と題する記事がありました。ベースになっているのは「ペーパーレス時代の紙の価値を知る」の著書・柴田博仁教授ですが、「目だけを使うなら電子、手も使うなら紙」「情報をただ受け取るなら電子、つかみ取りにいくなら紙」「並行して複数の作業をするなら電子、集中したいなら紙」とありました。そうかもなあと納得した次第。
デジタル本だと、いつでもどこでも思いついたときに読むことができますし、難しい言葉は辞書機能を使って簡単に調べることもできます。でも、何かしら読後感が薄く感じられるのはなぜでしょう。人間の知恵は道具を使うところから進化したとも言われます。手先の感覚が頭脳になんらかの好影響を与えているのかもしれません。
会場の一画に「和本」コーナーがありました。やや薄汚れた和綴じの古文書のような類いです。雨でも降ればぼろぼろになりそうな和紙に墨で刷られた和本の数々。その山を熱心に探していらっしゃる方がいました。なにやら江戸時代にタイムスリップしたようです。
ぽん!とクリックすれば一瞬に消えてしまうデジタルの世界。紙に刷られた「モノ」としての書物。火事や災害に遭わない限り、いやいや虫食いにならない限り永遠に受け継がれる紙の「本」。さあて、これからの文明はどういう道を歩んでいくんでしょうか。