心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

タマネギと人間

2013-01-13 09:20:58 | Weblog
 今朝の朝日新聞読書欄に館野泉さんの写真を見つけました。なんだろう、と眺めてみると、読書の蟲だった館野さんが19歳の頃に古本屋で見つけたフィンランドのノーベル賞作家シランパアの小説「若く逝きしもの」を中心に北欧の心をご紹介になったものでした。この本、筑摩書房・絶版とあります。古本屋巡りの目的がひとつ増えました。今日は、館野さんの北欧抒情シリーズCD「パルムグレン:ピアノ曲集」を聴きながらのブログ更新です。

 さて、先週末、広島から最終の新幹線に飛び乗って、新大阪駅に着き、地下鉄御堂筋線に乗って、私鉄に乗り換えて、やっと我が家が近づいたと思ったら、人身事故の発生でダイヤが大混乱。ようやく最寄り駅に到着すると、こんどは深夜のタクシー乗り場に人の波。ずいぶん待たされて、やっと帰還したら、どっと疲れが.......。そんな帰りの新幹線の中で、鞄の隅に入れていた平田オリザさんの「わかりあえないことから~コミュニケーション能力とは何か」を再読していたら、こんなくだりで目が留まりました。

「科学哲学が専門の村上陽一郎先生は、人間をタマネギにたとえている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギ本体ということはない。皮の総体がタマネギだ。人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。」

 演劇の世界では、この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶのだそうです。「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれていて、仮面の総体が人格を形成するのだとか。難しいお話ですが、なんとなくわかるような気もします。
 そういえば昔、私とは何か、私は誰か、なんてことを考えた時期がありました。山陰の小さな町に育った私にとって、都会で暮らす私は異邦人でした。海外にでも出ようものなら異邦人どころではありませんでした。社会に出て、様々な方々と出会う中で、その出会った多くの方々のお蔭で今の私があることも重々承知はしていますが、でも、ふっと我に返ると、こんなんじゃない、なんて思う私がいました。結婚し、家族ができ、お父さんになり、お祖父さんになっても、何人もの私と、私は向き合いながら生きてきたような気がします。そんな私が、この文章を読んで思ったこと。それは、様々な場面で様々な振舞をするすべての私が「私」なんだろうと。今日の私と、明日の私が違ったっていい。ブログを綴る私と、職場の私が違ったっていい。いや、むしろ、その両方、すべてが私なんだと。そんなことを大阪に向かう夜の新幹線の中で思ったものでした。

 そういえば、新年早々のブログで、今年の御神籤に「あわてさわぎ心乱れると災いこれより起こる事あり心静かにしなさい」とあったと書きました。でも、だめですねえ。先週の会議では、相応のポジションにある方の、あまりにも無責任な発言に怒り心頭。声を荒げてしまいました。おお怖。今年は静かににこやかに過ごそうと思っていましたが、いやはやこの先が思いやられます。大きく息を吸い込んで、深呼吸、深呼吸。
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