Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

膝を打つ予定調和

2022-06-17 | 生活
前夜は気温が落ちなかった。それで小走りを断念した。翌朝を狙った。予報では一時お湿りがあって八時ごろまでは摂氏20度以下だったが、直ぐに晴れ上がり帰りの車では28度になっていた。しかし陽の射す角度は背中からなので、林の間の坂道でも結構陰があった。お陰でそれ程熱く感じることもなく、発汗も適当な量であった。これならば土曜日の早朝も大丈夫かもしれない。

久しぶりの朝走りだった。最後は丁度一年前ほどだった。どのような感じかを忘れていたが、準備体操をしていると走れる感じになってきた。勿論ベットの中で十分に目を覚ましておいた。ペースも落としているので心肺系に大きな負担がかかることもない運動量であった。この程度の小走りなら問題がないだろう。それでも朝走りは腸に活力を与える。便意を催して、朝からすっきり快便である。これは明らかに利点で、早朝に時間さえあれば午前中から気力十分だ。

反対に夕方走ると、食事も遅くなり、就寝も遅めになって、どうしても午前中には調子が出ない。両方いいところ取り出来ればいいのだが。

走りながら考えていた。チャイコフスキーの交響曲五番が予定調和的に最後の運命の動機で伏線回収されると読んだからだ。昨今多く使われている交響曲で伏線回収というのに違和感がある。どこがおかしなのだろうと考えた。勿論創作者は動機が浮かんで、フィナーレが決まって構成に頭を働かせば、伏線を巡らすことにもなる。当然である。

交響曲の構成があって、構想があって、でもこの劇用語はおかしく感じる。気が付いたのは、チャイコフスキーが初演からとても評判だったのにこの交響曲を失敗と考えた事実である。恐らくこの交響曲ではその形式主義とも思われるようなその落とし方があまりにも「回収」と感じられることで失敗と考えたのだろう。

それをTVドラマと比較すると分かり易い。一時間とか二時間のドラマなどを観終った後、膝を打って、ああそうだと思うようなエンターテイメント性がある。舞台での芝居を考えれば更に分かり易いかもしれない。膝を打つような芝居は商業芝居ぐらいだろう。

劇場映画になるとやはりそれだけでは済まないだろう。エンタメ音楽の場合でも、「ああ、期待したものが楽しめた」で上出来なのだ。所謂名曲コンサートなんて言うのはそういうものである。チャイコフスキーがそれだけの交響曲を書こうとしたとは思われない。

このことは古典や名作などの繰り返しの上演にも付き纏うもので、最初から期待通りに上演されるようなものならば、何ら劇場効果などはそこに存在しない、再演の必要などないということに相当する。



参照:
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
最期に開かれたのか? 2022-05-16 | 文化一般
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 盛夏の様にはならない | トップ | 二年間の歴史の経過 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿