Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

人魚姫からのトランス

2022-06-11 | マスメディア批評
承前)先週末のシュトッツガルトでの「ルサルカ」初日の批評が南ドイツ新聞から出ていた。なによりも指揮者のオクサーナ・リニヴが絶賛されている。歌手とその影のようなドラッグクイーンに加えて、指揮者は水彩画の様に音楽を描き、座付き楽団の行うハイライトとしたとしている。

信じられないほど優しく、透明性を以て、ドヴォルジャークの民族的な書法を描き同時に印象派風に描く能力を持っているとした。必要とあれば完璧に強奏させるが、決して完璧主義的ではないとしている。そして管弦楽をいい意味で息づかせる素晴らしい指揮だったと。

大変な讃美であるが、強奏も完璧主義ではないというそこに真実があるだろう。例えば二月の再演の「ボリス」と比較した場合、作品が違うとしても十分には鳴り切ってはいなかった。同時にテュッティの一打のタイミングもとても出が悪かった、そのこととの関係もあるだろう。

歌手陣に関しては、何よりも主役のルサルカのエスター・ディルケスの声と発声法が復活祭でのリザのスティヒナととても似ていた。勿論声量とかでは後者が優れているのだが、四日も続けて聴いたその歌と声の表現の限界に耳にタコが出来ていて、流石にその手の歌は当分は聴きたくないと思わせた。要するに如何なる表現も表出すればするほど技術的な引き出しも少なく月並みになり嫌悪されるような歌というのは存在するのである。そしてその程度の歌でもコンクールでは表現として通ってしまうどころか、聴衆の支持も受けやすいのである。すると安物の二流となる。

残念ながらフランクフルトでの強みとは異なり、その域を出る歌手は殆ど歌わないのがこの劇場で、今回もフランスからのジェジババを歌ったカティア・ラド―が注目されているというのだが、声はあってもその上の出来ではなかった。二月のボリスゴドノフを歌ったアダム・ポルカが注目された由縁だ。

この批評の最も瞠目される点は、演出に関する記述だった。流石にミュンヘンで常連のトール氏である。その影の様に歌手に付き纏う口パクのドッペルゲンガーであるが、その意味と効果を記述している。特にこの人魚姫が足を授かる代わりに声を失うというところでの意味合いもあって、そのドラッグクイーンが徐々に多くを語りだし、最後には天へと昇っていく。

クラウス・グートの演出の様にその見かけと主観とかの明晰な描き方ではないのだが、この場合は人間ではない人魚から人、そして女性でもない男性からドラッグクイーンへのトランスがこの演出のコンセプトになっているという記述でもある。

しかし、流石に伊達にミュンヘンの劇場に通っているのではないと思わせたのは、終演での喝采に言及したことだ。そこには沢山のトランスジェンダー支援の人たちが入っていて大きな共感を得ていたということを間接的に表現している。即ちそれをして音楽劇場のメッカとなっているシュトッツガルトの劇場だと確認していることだ。

作品上演の企画からそしてその上演実践、演技、演奏を越えて、劇場がその舞台を越えて壁を越えてその社会に訴える事、それが音楽劇場の本筋でなる。ミュンヘンは大都会であるが、そして現支配人は本格的な音楽劇場としての試みから、殆ど無料で多くのより幅広い聴衆を集めようとして様々なことを試みている。しかし保守的な古都で一朝一夜にしてそんなに容易には変わらない。その点シュトッツガルトは大分革新的である。その批評がこの公演を大成功としているとしても間違いではない。



参照:
Aus der Traum, Egbert Tholl, SZ vom 8.6.2022
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般
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