Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

最期に開かれたのか?

2022-05-16 | 文化一般
承前)聖歌で幕を閉じる。今回の演出では、長い机を舞台いっぱいに開いて置いて、その向こう側にばくち場の男たちが座している。それに対して幕開きではその机にヘルマンが一人座る。最後の晩餐を思い浮かべる所だろうか。

既に序奏から運命の動機が影を落としているのだが、そこで歌われるトムスキーのバラーデで全てが予期されることになる。終景において机の上でトムスキーが歌う。このように上手に物語を作っていた。通常は「カルメン」のパロディーの子供の合唱などが挟まれるのでこうした対照は作られないのであろう。

より重要なのは、音楽的に矛盾させない事であって、第一景での影の作り方とか位置配置とかは、今後映像化されて永遠に残されるとなると、改めて細部に関しても批評されるところであろう。やはりオペラ舞台も映像化となると映画化と同じでとても細かなことが指摘される。

全四回の公演での飽くなき修正において ― なんとカメラも入っていない千秋楽にまで舞台演出の手が入っていた ―、 上記点で誰でも気が付くのは、実は最終景での幕の開け方とかでもあった。確か前二回は最終景は聖歌と共に暗転で一息入れてからの拍手であったが、三回目には二重構造になっている上半の幕が引き上げられて、既に亡くなっているリーザの部屋若しくはその戸口で跪いて祈るポーリの姿が見せられた。その是非に関しては改めるとしても、この差異はなによりも映像的に大きな効果の違いを与えたと思われる。直感的にこの修正は、映像プロデューサーの指摘があったからだと感じた。今回は、名プロデューサーのバイヤー氏ではなく、ネール・ミュンヒマイヤー監督となっている。さて出来はどうだろうか、既に165分と編集を終えるているようで、Arte,SWRの制作放送局以外へもオファーが出ている。

さて演出家ペアーは、音楽に添わせることをなによりもの信条としていて、特にキリル・ペトレンコの指揮するチャイコフスキーということで全幅の信頼をそこに寄せていることも口外していた。これは、ペトレンコ自身が「自ら演出することがあればな」と語っていたように、今回の企画の前提になっていただろう。取り分けこの作品は最も大切な作品とまで発言しているのだから、それ以上に尊重されるものはなかったに違いない。

勿論舞台作品とは言いながらもこうした高度な芸術作品であるからには、歌詞其の儘に音楽の表情が一面的に創造されている訳でもなく、上のバラードの様に、様々な状況が音楽的に活かされているとなると、当然の事乍ら芝居的な技術で以て劇を導くとなるのだろう。

強いて言えば、最初の景から終景迄可也の人数が合唱や踊りで舞台上に溢れる作品であったので、その人の波の整理は初日には少なくともスポットライトという意味では十分には決まってはいなかった。こちら側も一回ぐらいでは認知するだけの整理がつかなかったというのもあるのかもしれない。本当にそうだったのか?。(続く



参照:
まるで座付き管弦楽団 2022-04-16 | 文化一般
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般

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