Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ロックダウン前最後の演奏

2020-11-01 | 
土曜日はベルリンからの中継を二回、ラディオとTV中継の二回を観聴きした。味わい深い演奏会中継だった。一曲目の「サビーナ」もネオイムプレッショニズムとされるが、中々力のある作品で、日系人を要所に配した弦楽陣がとても柔軟性の高い演奏を繰り広げた。

「メタモルフォーゼン」での樫本のヴァイオリンもとても良くなっていて、初日の評にあるように明らかに距離感をおいた演奏解釈で、同じキリル・ペトレンコ指揮でヴィーンで演奏したものとの差があまりにも大きかった。ヴィーナーフィルハーモニカ―はなにを弾いても同じようにしか弾けないはプロの管弦楽団ではないことを改めて証明しているようなものである。勿論、評にあったようなシュトラウスの終戦におけるこの曲における葬送のあり方自体が自己欺瞞であり、一体どのような人間なのだと冷徹な視線が注がれても仕方ないかどうかはまた別な話題でもある。

その曲と同じ時点で作られたショスタコーヴィッチの創作意志はあまりにも明白だった。スターリンが待ちわびたような勝利のモニュメンタルな90分の大交響曲でもない作品がこの30分にも満たない曲であった。その真意は全く見誤ることの無いような正確な譜読みと解釈で演奏されて、今まで知られていたショスタコーヴィッチは一体何だったのかと思う精妙さであった。特に二楽章の抒情は同じペトレンコが振った「レディーマクベス」のそれからしてもとても馴染みのある音楽内容であった。

そしてこの曲の演奏は、亡くなったヤンソンス氏に捧げられたものであったとある。故人が六月に振る予定になっていたからだ。手元にある全集CDボックスから改めて聴いてみたいと思う。ペトレンコが振るショスタコーヴィッチはその作曲家の創造の源泉に光を当てるもので、作曲家の創作の価値を高めるとともに作曲家への視線が変わる。

ロックアウト前の最後の演奏会での特別アンコールは、今回各楽団が活動中断命令への抗議を示す沈黙の時として企画されたもので、急遽ジョン・ケージ作4分33秒が採用された。その秒数だけ楽員は音を出さない。指揮者は何かを指揮していた。残念ながら公共放送では一部しか流されなかった。ベルリナーフィルハーモニカーのデジタル配信では全てが流されたようだ。いずれ確認してみたい。



参照:
すっきり目覚めの冬時間 2018-10-29 | 暦
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般




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