Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

根源のフェークニュース

2022-05-10 | 文化一般
新制作「スペードの女王」の纏めをしていない。特に演出に関してはほとんど触れなかった。映像化された放送を待っているのもあるが、もう一つ容易に語れない理由がある。通常ならば演出と演奏が十分に合っていなかたっとか、演出以上に演奏が優れていたとか評価できるのだが、今回は一体になっていたことから、先ずその前提を示さないといけない。

演出家が初日前にフェスティヴァルサロンで語った事を思い起こしている。二人のモーシュ・ライザーとパトリース・コリエのおじさん二人組で、元々芝居演出からのチームを組んでいる人たちの様である。モットーとして職人を目指していて、舞台に何かを持ち込むのを諫めていて、最初に歴史的背景から始められてドラマテユルギー上の禁止事項から決まっていくとされる。

今回の英語での鼎談においても、この舞台がなにか社会学的な意味を持つことはなく、プログラムで語る様に物語の話しの切っ掛けは「伯爵夫人がカードの秘密を握っている」とのフェークニュースに源を発しているとしている。

その話に乗ったのが主人公のヘルマンであって、決してインテリでも哲学的でもない男となる。しかしプーシキンの原作ではその衝動に愛がある訳ではないのだが、チャイコフスキー兄弟がマリンスキー劇場の依頼を入れて、つまり児童合唱団を入れ、女帝カタリーナと舞踏会を入れた大規模なショーにしたと説明される。そしてそのヘルマンに作曲家自身が投影された。

そこで、ドラマテュルギーとしての解決方法が、婚約者とリザとの関係を高級娼婦館で売られるとしたことで、なぜ見ず知らずのヘルマンに奔ったのかの背景説明としたという。要するにプーシキンのヘルマンには愛情がなかったのだが、チャイコフスキーの情感による再創造の筋がそれで通るようになる。これに関しては指揮のペトレンコが「上手くいくと思う」としていた今回のプロジェクトの基本構想であったと思われる。指揮者からすれば、音楽的に破綻が起こらない設定が望まれた筈だ。そもそも作曲家は個別にキャラクターを強化していくような創作はしていない。ロマンツェに代表されるような心情吐露がこの作曲家のオペラ創作の本望であるからだ。

ここで分かる様に、原作自体のその舞台が18世紀にあるように、作曲家からすれば五十年ほど前の原作を弟が脚本化したことになる。その中で一世紀前のカタリーナ二世が出てくる。今回の舞台化では、その内容的な検閲も考慮した作曲家の立ち位置である19世紀後半を舞台としてそのサローンを娼婦の館としたのはとてもスタンダードな読み替え舞台化でもあった。

前述したように、フェーク構造はその当時の復古的な絶対主義社会にも当てはまり、チャイコフスキーの作曲におけるネオロココ趣味などを通して専制君主への視座が開かれ更に中世からのロシア聖公会の聖歌への連なる音楽素材として表現されている。(続く



参照:
ラウンジ周辺の雰囲気 2022-04-11 | 文化一般
今後の指針盤となる為 2022-04-22 | マスメディア批評

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