Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

差異を見極めて行く

2020-06-15 | マスメディア批評
週末にドイツェオパーベルリンの駐車場でニーベルンゲンの指輪前夜祭「ラインの黄金」が上演された。新聞評が載っている。先ず、そこで演奏されたのはここ暫くスタンダードとなる三分の一がカットされた二時間ほどに圧縮された室内管弦楽版である。ジョナサン・ド-ヴという英国人の編曲のようで、管弦楽団も80人に対して22人の演奏となる。
Das Rheingold auf dem Parkdeck - Deutsche Oper Berlin


批評を読むとそれなりの演出上の工夫が必要であったようだが、例えば席の列の間を歌手が通って行ったりと通常の公演では出来ない体験もあったようだ。反面室内楽編曲自体が室内の小屋を考えてあるので決して必要なところで充分な音量が得られなかったり、または指揮者が調整しなければいけなかった箇所があったようだ。

オープンエアーではスクエアーでも中々音響的には難しいところがある。通常の管弦楽団ならば音量は足りなくはならないが、室内楽は矢張り厳しい。更に二百人なりの聴衆が近くに寄れないという二重苦三重苦がある。コロナ対策が容易ではない所以だ。

実際の演出としてフライヤが連れ去られる場面はディスタンシングでどうしても具体性が欠けるらしいが、そこは最初の数分で券を買い漁ったヴェテランの亡者たちなので全く問題はないだろうと書いてある。

概ね演出上の手直しや歌手の歌う位置など現場的な創意工夫が必要で、それはそれでこうした新聞評の対象となる。そしてこうした行為が出来るというのも公的な劇場の予算の中で行われているからこそで、所謂エンタメとの間には取り分け太いソーシャルディスタンシング並みの線が引かれるところだ。今ここ暫くの活動においてはそこに注目して行くことで、一体何が必要とされるのか、必要ではないのかの差異をしっかりと見極めて行くことになるのではないかと思う。

雷雨が予想されていたようだが、その前線がずれて、最後には夕暮れ風景の中でフィナーレに向かったとされる。虹こそは出ていなかったようだが、こうした体験は深く記憶に残る。



参照:
Ouvertüre auf dem Parkhausdeck, Gerald Felber, FAZ vom 15.6.2020
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
サマータイムの清涼感 2019-07-22 | 暦

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お見通しの僕の思惑

2020-06-14 | 
ベルリンのガイスターコンツェルトが終った。キリル・ペトレンコ指揮だけで三回行われて、既に収録されたものなど室内楽は毎週のように流される。主な目的はデジタルコンサートホールの会員の為の提供である。返金の裁判などを起こされると破産する。何かを数分提供する限り敗訴は無い。それだけである。

三回目は、一週間券を買わなかった。木管合奏も弦楽室内楽団も並び方は音を聴けば分かる。その興味はもう失せた。それでも最終曲ドヴォルザークだけは増員した様だ。映像はベルリンの放送局から近々提供される。来週は中止となったヴァルトビューネの特番が流れる。

ペトレンコへのインタヴューは後で確認しないといけない。なぜならば今後への方向性が示されているだろうからだ。その代りラディオ放送では支配人ツェッチマンが総括的な話しをしてくれた。

三月からのキャンセルを振り返って、同じシリーズの5月1日メーデーにおけるヨーロッパコンサートへの反響を語った。ロシアからもアメリカからも日本からも反応があったという。再開への大きな切っ掛けになった放送であった。そのように二カ月間アクティヴでいられたのも自前のデジタルコンサートだけでなく地元放送局RBBの舞台設定があったからだという。そのことが何よりもだったとしている。

予定されていた東京オリムピックの為の演奏旅行もヴァルトビューネも無くなってこれで楽団は夏休みに入るというが、来シーズンへの準備に大忙しという事だ。今後の見通しとして、現行の二割や四分の一の聴衆以上に会場に入れれるように当局に要請していくことと、舞台の上でのソーシャルディスタンシングからのプログラムの制約でのプランBへと話しが向う。

つまりシーズン前半の年内はプランBを初めて8月1日に発表する。基本的には従来の日程通りで28日にオープニングコンサートをブラームスで開くが、もう一曲は秘密にしておくという事だ。ザルツブルクでは浄夜を演奏するが、最初から予定されていて更にそこの2日目で演奏されるメンデルスゾーンでもないという事になる。

ソーシャルディスタンシングと同様に休憩が無い短いプログラムになるが、作品は充実するだろうという事で、更に9月のフェスティヴァルも行われるらしい。しかし海外からの楽団の招聘などは無くなるという。具体的にはどれを指すのか分からない。客演指揮者もシャニなどベルリン在住で全く問題が無いという。

但し、コーラスの入った作品は現時点からは上演不可能で、幸いに共同公演などが無いが、大掛かりな管弦楽「ペレアスとメリザンド」、「ペトルーシュカ」やマーラーの交響曲などはプログラムから取り下げられる。その代りに加えられるプログラムなどがあるが、現時点では不透明な点があるために発表しないとの旨。

熱心なコンサートゴアーズは、色々と調べている通りであるだろうとは、またまたこちらの思惑を見透かされた感じである。もうここまで行くと、こちらの思惑をペトレンコと支配人の二人がインタヴュー度に答えてくれていることになる。

兎に角、プランBを8月1日に出すまで、状況の好転などを期待するという事では皆同じである。語られたようにそして無理をして第二波で中断されることのないように先に進んでいくことも共通認識である。

沢山のヒントがあった。大きいのはアメリカツアーがどうなるか?現時点では中止とはなっていないようだが、これは時間の問題だと思う。招聘しないという事は招聘もされないという事である。最終決定は招聘側にあるという事でしかない。

アメリカ旅行のプログラムに関しては言及はなかった。「英雄の生涯」なども演奏困難なので、そのまま10月末のプログラムが11月のフランクフルトなどで演奏される可能性が強い。バーデンバーデンのプログラムが気になるが、マーラーの六番は難しい。ミサソレムニスも難しい。



参照:
大胆不敵なヴィーナー 2020-06-08 | 雑感
実績を踏まえての期待 2020-05-24 | 音
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バルコンで過ごす準備

2020-06-13 | 生活
ベットの足元ラムプを購入した。コロナ騒動以来初めてのアマゾン発注だった。昨年までは冬のお籠りでしか使っていなかった。しかし、スマートプラグを装着してタブレットでタイマー操作なども出来るようになると俄然使いやすくなった。勿論ベットで本を読むと為には足元ラムプは役に立たないが、タブレットを見るだけであると、足元で点けておくと温度も上がらず丁度目のコントラストを弱くするために都合がよいのだ。なによりも夏場の枕電球の暑さは鬱陶しい。

それでよかったのだが夏場はバルコンで過ごすことも出来てくるので、そこへと足元ラムプを持って行く必要があった。つまりもう一つ同様のラムプとスマートプラグが必要になった。所謂間接照明をプラグから直接取って、その間にスマートプラグを挿むと従来のラムプ以上に使い勝手が良いのである。タイマーも点滅も思いのままだ。更に消費電力まで管理可能である。

同じ電球をもう一つ購入して使った。今までのものは傘がメッシュだったので光量は多かったが、夏場に関してはこれで充分である。但し価格はこの手のものとしては12ユーロと可成り高価だ。現行のものはIKEAかどこかで6ユーロ否6マルクほどしか出していないとなると4倍の価格になる。この三十年ほどの物価上昇は激しい。

スマートプラグ自体はスタンドバイしているので電力を消費すると思うが、小まめに付け消しすることで有利である。一昨年前までは寝室の明かりはタイマー装置になっていたので要らぬ時にも点いていた。今はベットに向かう前に点灯が可能になって、所定の時刻には消灯する。更に点灯して消灯するのもベットの中からだから気持ちがよい。

先日のクリーヴランドからのアーカイヴ放送を録音した。ジュージ・セル指揮の「ミサソレムニス」である。まだ一通り流していないが、興味深かったのは歌手にエルンスト・ヘフリガーが入っていることだ。生活に困っていて日本で募金活動が行われたのはハンス・ホッターと思うが、ヘフリガーもカール・リヒターなどと何度も日本へと旅行している筈だ。個人的には息子のルツェルン音楽祭の支配人ミヒャエルの方が馴染みが強いが、彼も昨年ハラスメントで調査が入っていたようだ。道理でアカデミーの責任者が辞めてしまったのだった。個人的には秋の対処の仕方でその評価をしたいと思っている。僅かばかりでも寄付を出すとどうしても口出しをしたくなるのである。

本日は社会学者の創始者マックス・ヴェーバーの没後100年で賑わっていた。14日である。ミュンヘンで久しぶりに教職に復職して直ぐに亡くなったようだ。墓があるように、ハイデルベルクへと死体は戻って来たのだろう。二三日番組などが続きそうなので、知らないことが沢山耳に入るだろう。

土曜日は、キリル・ペトレンコのベルリンでのシーズン最後の登場で、ガイスターコンツェルトが再び放送される。聴衆が入らないので詰まらないのだが、生放送を9ユーロ出すのは今回は止めようと思う。ラディオで充分で、先日のラトル指揮の生中継とは全く違う「グランパルティータ」を聴かせてくれるだろう。この曲はヴィーンでフルトヴァングラーもスタディオ録音しているので比較がとても楽しい。カラヤン指揮は無いのかもしれない。ということでとても貴重である。



参照:
バルコンでPCで寛いだ午後 2010-08-02 | アウトドーア・環境
印象に残る追悼文の数々 2014-01-24 | 雑感

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怖くないコロナ第二波

2020-06-12 | 雑感
さて愈々夏以降の事を考える。摂氏30度近くが予想されていたが陽が出ずに朝から寒いぐらいだった。金曜日に暑くなって、次は一週間あとだ。北ドイツの方が天気は安定しそうだ。夏服で寒いという事はないだろう。もう一つのコンサートの席も決まった。残念ながらいい席では無かったが、続いて二つ目のコンサートでいい席に移るので満足度はその方が高い。安い料金しか払っていないのだからあまり文句は言えない。

スェーデンからの放送を観てそのソーシャルディスタンシングには呆れたが、確かに状況が悪く、合衆国よりも増え方が多い。もうあそこまで放ったらしてしまうと制御できないのだろう。幾ら何をやっても収束に向かわない。初めから集団免疫は効かないと分かっていたのに、国民はフェークニュースに騙されたのだろうか。取り返しがつかない。

合衆国もまだまだ収束には遠そうだ。ニューヨークのフィルハーモニックが年内の公演をメトロポリタン歌劇場に続いて断念した。客席数の制限とか手間を考えると収益性が全く見込まれないのだろう。ベルリナーフィルハーモニカーが11月にお披露目ツアーをする予定だが、これでカーネギーホール公演は難しくなったと思う。その前にシカゴ、ここがキャンセルになればツアーも中止であろう。海外からの管弦楽団を迎えて少数の入場では採算が合わない。

一刻も早くツアーが中止になれば、11月のバーデンバーデンでの公演が拡大される可能性もある。重要なのはその時点でどのような編成でどのような公演が可能かだ。復活祭にやれなかったことは沢山あり、「フィデリオ」の公演も練習は完了していた。歌手さえ揃えば公演の可能性はある。マーラーの六番も期待したい。

ザルツブルクに続いてルツェルン音楽祭が秋に何を補うかである。現状から九月には大分解放される可能性があって、少なくともオープニングツアーのザルツブルクの二夜は同じように計画通りの日程で再開催が可能だ。入場券が三分の一と成ると数百枚しか出ないので、ロッシュなどの大手のスポンサーに渡るととても入手は難しくなる。

個人的な興味からは、ブラームスの交響曲四番を二種類のプログラムで聴きたい。室内管弦楽の浄夜と演奏されるものと当初通りヴェーベルンの「パッサカリア」と演奏されるプログラムの二種類を聴き比べてみたい。元来のプログラムはベルリンでもザルツブルクでも演奏されないが二月後にアルテオパーで演奏されるかどうか。収容人数よりも舞台に乗れるかどうか?必要条件としてその間に感染状況がよくなっているかどうかである。するとバーデンバーデンでの公演も可能性が広がる。

月末29日にはミュンヘンでシェーンベルクの室内交響曲一番とマーラーの歌曲編曲、シュトラウスの町人貴族に、ストラヴィンスキー「プルチネッラ」がペトレンコ監督の指揮で演奏される。僅か五十席の椅子取りゲームとなる。シーズン終了演奏会となっているが、ガラコンサートが七月にあるのではないかと此方もルツェルンのような特別企画になるのではないかと思っている。

歌劇場が張り出し舞台などを上手く使って、オペラ歌手を集めてオペラガラをするのは最も容易だと思うが、なぜまだ実現化していないのだろうか?観客席の問題があるが、パブリックヴューイングを入れてスポンサーさえつけばそれほど問題はないと思う。兎に角いい歌手を集められる。

コロナの第二波が心配されているようだが、変異してその感染力が強まらない限り、社会的な秩序でどうにでもなると考える。市民が皆身体に覚えたことなので、繰り返すことは何時でも可能だ。微調整が出来るようになっている。

2015年産テュルムベルクを開けた。酸は表に出ない年度だが香味が良かった。完熟だが、南ティロルのワインのように核があって重みではないレモンのようなトロピカルの苦さがシュナップスの様に効く。陽射しが強くて暑い夏だったが傷みが無かったという事だろう。リースリングらしくはないのだがアルコールとしては素晴らしい。風味は培養酵母の影響もあるだろうが素晴らしかった。



参照:
年末年始のリストアップ 2019-12-18 | 暦
手袋つけての館内移動 2020-06-10 | 文化一般
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薄氷の上での千羽鶴

2020-06-11 | 文化一般
ザルツブルク音楽祭の開催が話題になっている。当然である。発表されていたコムパクト以上の開催と発表されたからだ。それは前日にもヴィーンからの中継でどの程度のことをするかは推測されていた。

なにが驚かせたかはプログラムに大編成のオペラがある事やそのために大会場を三分の一から半分まで入れようとしていることである。具体的には舞台の上下と裏ではもはやソーシャルディスタンシングは存在しない。近づく時にはマスクをしていれば事足りるとなっている。なるほど本番は八月であるから状況は好転しているかもしれない。しかし場合によっては今月にでもヴィーナーフィルハーモニカークラスターが発生するかもしれないのである。

オペラ上演となると舞台組などを含めて準備の為に近々に多くの人が従事するようになる。舞台芸術関係の人と言っても職人さんばかりで労働であることには変わりない。安全な職場は依頼主の責任で、働く者の自己責任などは有り得ない。こうした興行関係に陽の目が当たる時なのにそこに目を瞑ってはいけないのである。

ヴィーンでは先月中盤までは客席も二十平米に一人のスペースが取れることが前提としてそれが批判されて緑の党の責任者が辞職した。オーストリアのその方での闇は深い。観光ツーリズムの一つに成って仕舞った芸術にはもはや社会的な影響力はない。そして昨年の国立劇場記念公演でも嘗てはこの程度では無かったと嘆かれたのであった。

兎に角、席を一つ開けたぐらいの入場では少なくとも現在の見識では怖くて近寄れない。たとえ上演時間を短くしても一時間以上同じ面子の人と近くで過ごすのである。千人も入場者が居ればその中に感染者が含まれる可能性も高くなり、そこで新たな感染が発生することは予想されて、オペラ上演となれば裏方さんから奈落の下までに感染が広がる。

それをしてヒンタホイザー社長は薄氷の上を行くようなものだと語る。各方面からの批判と注目が集まっているからだが、どうして急にあれ程までに厳しかったヴィーンの政府が変わったか?前任の担当者の先月の辞任会見を観た。催し物は一人20平米が確保されないと認めないとした彼女の権力を以っての当事者との交渉は実らず、一斉砲火を浴びたという事だった。勿論その基準では今後とも催し物は不可能であったが、なし崩しになってしまうところが外からは分からない事情である。

ソーシャルディスタンシングは1から2mの間で世界中認識されているのにも拘らず、演奏者同士は75㎝、聴衆は1mと定めそれ以下はマスクで可能とした大変化はどこの国にも無かったことで、誰もその根拠などを信じることはできない。社長曰く、この「規制緩和」が無ければ始まらなかったと、そしてオーストリアはドイツよりも柔軟なのだと。

まさしく最も多くの人が出かける筈のミュンヘンの南ドイツ新聞は、社長は日本人ではないが千羽鶴を折り続けて更に八月も更に多くの鳥を飛ばす為に折り続けなければいけないだろうと、神にも祈るような状況を揶揄している。今迄の再開催し物の発券の状況を見ていると予想に反して可成り動きは遅い。ザルツブルクの支配人が語るように、優先で三分の一以下の券を出しても一体どれぐらいの人が来てくれるか分からない。

辞めた文化芸術が専門の女性政治家の言うようにコロナによって浮き上がって来たオーストリアの文化芸術関係者への社会の保護の不足がこうして再び市場を流れる金の流れの下に沈もうとしている。なるほど彼女が言うように、開かれた議論が必要で、公的資金を流すだけでも創造的なそれは築かれない。これでは文化立国を狙うオーストリアが世界に開かれ、私たちを覚醒させてくれる文化芸術はメッカとしてのそこに実らないことになる。



参照:
Im Schatten Mordors, Reinhard J. Brembeck, SZ vom 10.6.2020
„Ein Erlebnis schenken, das durch nichts zu ersetzen ist“, Jan Brachmann, Simon Strauß, FAZ vom 9.6.2020
Markus Hinterhäuser: "Wir bewegen uns auf dünnem Eis", DW
Lunacek tritt zurück: "Keine Chance mehr", WienerZeitung vom 15.5.2020
ザルツブルクの突破口婆 2020-05-26 | 女
大胆不敵なヴィーナー 2020-06-08 | 雑感
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手袋つけての館内移動

2020-06-10 | 文化一般
ドルトムントの券が一枚届いた。もう一枚を待っている。席は最初の齧り付きからもう一つ上のクラスの席になった。但し今までの席などから四席ほど横にずれた。もう一枚も同じような感じならばそれはそれで仕方ないだろう。そして日曜日の公演の写真を観察すると階段式なので視界は可成りいい。奏者と同じぐらいの高さになるか。通常に詰まっていれば音響的には一番いいところなのだろうが、人がいないと残響が増えて若干混濁しないだろうかと思う。

入場は書いてある通り二組に分けて、下と上を別けた組にしてあったようだ。珍しいのは入り口で手袋を渡されて、移動するらしい。手すりとかでの感染を避けたということだろう。ヴィースバーデンは各入口へのアプローチが別れていて入り口での消毒を基本にしていた。手すりに摑まるような人も少なかったのだろう。

支配人に言わせると、直前まで開催は危ぶまれていたという。理由は政治的な圧力で、態々開く必要があるのだろうかという疑問が呈せられたという。

月曜日はヴィーンからの中継を堪能した。バスのギュンター・グロイスボェックのリーダーアーベントだった。プログラムが同じでやはりヴィースバーデンと同じようにやりたいということで、土曜日にメールして、夜中にヴィースバーデンから快諾を貰った。そして支配人のラウフェンベルクが朗読の為にやって来て全く同じ様に公演を行った。それどころかアンコールのヴォ―タンの惜別の歌も同じで、繋ぎの話し内容も殆ど変わらなかった。

だから出来も比較出来た。ざっと流した感じでは前半はヴィーンの方が落ち着いてよかった。後半はヴィースバーデンの方が集中力が高く声の張りも決まっていた。アンコールもヴィーンでは安定感が無かった。会場も大きいが少し力んでいたのはなぜだろうか。来年四月の公演を予想しての予行だったからだろうか。

ヴィーンの国立歌劇場からの生中継は有料なので初めてだったが、なるほど流れが悪い。しかし音質だけを見ていると可成り良さそうで、巻き戻しの再放送でも上手く流すのにはそれなりの流通量が要る。

相変わらずピアノは下手で、バイロイトでの惜別の歌の為に依頼したのだろうが、もう少し音楽的に上手な人はいなかったのかと思う。その彼女の手を取るだけでなく抱いていたので、余程これはヴィーンの状況が変わってきているのだと思った。

しかし知らない内にこちらも無理やり売り子に指を握られるようなことがあって、余程女性陣はボディーコンタンクトを求めてきているのかと思った。ヴィーナーフィルハーモニカーの接近を観ていて社会が狂ってきているのを感じた。



参照:
Weitgehend unsichtbar, Michael Stallknecht, SZ
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
奈落を平土間へと拡張 2020-06-03 | マスメディア批評
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大胆不敵なヴィーナー

2020-06-08 | 雑感
昨年末に亡くなった指揮者ヤンソンス氏を偲ぶ番組を聞いていた。どうも当日ベルリンで指揮する予定だったようで、逝去後に偲ぶ演奏会になって、それもコロナでキャンセルされたという三重災いの為に古い録音やインタヴューを一挙に紹介した番組作りで四時間に及んだ。

最後の方は聞かなかったのだが、興味を引いたのはカラヤン指揮者コンクールファイナルで初めてフィルハーモニカーを振った録音である。その1971年にチュムーラという人に続いて二位になったようで、まさにその録音の「ダフニスとクロエ組曲」で緊張して思うように振れなかったと生前回顧して語っていたようだ。

もう一つ当時東独の独最古の放送交響楽団つまり現在ユロスキーが振っている楽団を振ったエグモント序曲も流れた。基本的には晩年まで変わらない。三曲目にショスタコーヴィッチの九番が手元にある全集からオスロでの録音として流れた。

先日言及したようにこの指揮者の音楽はとてもプロレタリア独裁の理想のように響くが、ショスタコーヴィッチとの繋がりのインタヴューも興味深かった。親父さんの指揮者の家にも来ていたようで見かけても子供だったので話したことはないと話していた。そもそも作曲家が社交的な人物でないからとも評していた。ユロスキーの父親をも訪ねていたというが、こちらの方がやはり作曲家に近い感じがする。

カラヤン財団が始めたコンクールで日本では1973年には小泉がシナイスキーと別けて優勝したので有名だが、既に三回目にはフィルハーモニカーは下りていて、WDRがお付き合いしたと書いてある。小泉も一度ぐらいはフィルハーモニカーを振ったのが放送されたと思うが、二位のスダーンは今でもちょこちょこと名前を聞く。

このようにあまり成功しなかったのは死後のカラヤン賞と同じ感じである。丁度その数年後インタヴューで、カラヤン自身の後任に名前を挙げていた筆頭はズビン・メータだった。やはり玄人筋の評価は最初から高かったのだろう。小澤と既にテンシュテットが挙がっていた。既に後進の養成に関しては指揮者コンクールからアカデミーの方へと話題が移っていた。ザビーネマイヤー事件も暫くして起こる。

ヴィーナーフィルハーモニカーの中継録画を観た。やはりとんでもない試みだった。何よりも距離感が取れていない。弦楽陣は通常と殆ど変わらず、管楽器陣は少し開けているだけで、両陣から感染が出ると思われる。勿論本番中に感染するとは言わないが、あんなことをしてリハーサルや演奏旅行などを繰り返していれば、直前に全員のPCR検査をしてその後隔離してもから感染リスクを抑えることはできない。

そもそもヴィーンの新感染状況は決して良くない。ミュンヘンよりは少し良くてベルリンよりは死亡者率も何もかも悪い。そこまで無理した割には演奏も都合が悪く、放送でも特に管楽器がハモラない。ORFの録音陣はマイクを立てて残響を活かそうとしていたが、嘗てDGがベーム指揮でやっていたような具合には行かない。楽団配置や演奏、収録などとても中途半端なことになっていた。

そして大きなリスクを背負った。ザルツブルクへの準備や来年のノイヤースコンツェルト準備の収録等をしているうちにヴィーナーフィルハーモニカークラスター騒動が起こる確率は決して低くはない。そこを乗り越えてもザルツブルクで発生する可能性も強い。そうなると秋からのシーズンは吹っ飛んでしまう。会場では現国立歌劇場支配人が拍手をしていたが、メトロポリタンと同じように年内休業にする諦めがあるのだろうか?



参照:
ザルツブルクの突破口婆 2020-05-26 | 女
ムジカヴィーヴァの経験 2020-06-04 | マスメディア批評
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植民地主義意識の開放

2020-06-07 | 歴史・時事
そろそろコンサートへのお勉強を始めなければいけない。ベートーヴェンの四重奏曲マラソンである。第2番ト長調、第11番へ短調、第12番変ホ長調、そして16番ヘ長調、13番変ロ長調大フーガ付きとなっている。

これらの曲はプリントとしてもネットダウンロードでも大した楽譜は無いがパート譜が必要でもないので仕方が無い。それでもそこの棚を見ていると先日探していたシューベルトの有名歌曲のポケットスコア―が見つかった。道理で何曲かは馴染みがあった筈だ。大きな楽譜ばかりを探していた。

それにしても新たなソーシャルディスタンシングによる座席はまだ知らされていない。元々は第2列の真ん中だったので、精々4列目ぐらいの真ん中付近は欲しい。真ん中ならば6列目でも受け容れよう。弦楽四重奏の場合は位置に拘る。優先されるだろうペアーで来る人は弦楽四重奏では半分もいないと思うが、さてどうなるか?なにも無理して400人も入れないでいいだろう。お蔭で各々19ユーロしか支払っていないが。

森から帰路の車中でミネアポリス同様の差別問題がドイツの警察などでもあるという話題からアフリカ専門の教授が話していた。その説によると、西ドイツではナチの犯罪に関しては充分な分析と批判がなされてきたが、それを導く植民地主義に関しては今でも充分な教育がなされていないという。それを象徴するように、重要な政治家がドイツにおける植民地主義の歴史を否定するように、批判的な視座が教育されていないとしていた。これがそのものアフリカやアジアなどへの差別意識となっているという事だった。

恐らく民族人種的なそれどころか文化文明的な差別意識として植民地意識への見解が明晰でないことに立脚するとするのは正しいに違いない。2000年過ぎのムルティカルテュアー議論の時に先ずその植民地主義意識について議論されていたならば成功していたかもしれない。エキゾティズムというのは文化的な植民地主義に違いないからだ。今からすると不思議な気がする。

ポリタンを持って歩いた二十分間ほどの歩行で足が疲れた。普段から舗装道路を歩き慣れている人は感じないのだろう。トレイルライニングシューズの薄手となると腰にまで来た。脹脛から全てが張っている。如何に山道と舗装道路の相違が大きいかを改めて身に覚えた。体に良いのは山道に違いないが、確かに岩壁などのアプローチでは似たような疲れ方がある。それでも身の使い方が違うのがずっしりと体重を乗せた疲れ方とは異なるような気がする。タンクを持って歩いていた時は靴も服装もランニング態勢なので楽だと思ったのだがとても身体に堪えた。精々往復三キロぐらいだった。



参照:
ニューヨークタイムズの報道 2020-05-20 | 音
言質を取るということ 2020-06-06 | 女
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言質を取るということ

2020-06-06 | 
ニケ・ヴァークナ博士がDPAの質問に答えた。コロナ規制期間中に七十五歳の誕生日があったが、公式に言葉を発することはなかった。しかし通信社は質問を新ためて出した。その要点は今後のバイロイトに関する事の質問であった。

質問:カタリーナ・ヴァークナーは契約を2025年まで延長しました。五年後にもう一度バイロイトにということはあるでしょうか?

回答:神の思し召しを、ありません。

質問:バイロイトでは今、嘗て無い状況となっています。カタリーナ・ヴァークナーの病気で、丘はヴァークナー家の誰も手綱を握っていません。どう見ますか?

回答:それは有限会社バイロイト祝祭の責務であり、出資者とされる者の今後の目されるところです。

この質問状の要旨はこれだった。これでカタリーナの復帰が無いと決まれば直ぐにバイエルン州は後任者の選定を進められる。この言質を取るためのお訊ねだった。

早朝6時前に目覚ましをセットして就寝した。寝つきは遅くなったが何とかスッキリ目が覚めた。降雨が心配だったが量は少なく、また7時過ぎに30分ほど上がるのをレーダーで確認した。先ずは早めに出かけて車の中で雨行きを見ようと思った。気になるのは燃料で何とかなるかどうか?早速銀行に行って現金を下ろす、其の侭パン屋に向かい坂を上り始めるとエンジンの警告が灯った。その時は廃車間近の車は仕方がないと思った。しかしパン屋の手前の坂で動かなくなった。

仕方が無いので何とか邪魔にならないように駐車して先ずはパン屋に向かって戻ってくる。そもそも朝早く混雑を避けて、雨の中を外で並びたくないからの早起きだった。そして再びエンジンをかけようとするが駄目だ。セルモータが動き出しても引き続き回らない。仕方が無いので、交通量が少ないうちにと坂道をバックさせて車を横の道に入れて、また前進させて駐車可能にした。

漸く燃料切れが分かった。残量が1lで停止しているので誤魔化されていた。仕方が無い、フロントグラスに書置きをして街までポリタンクを持って取りに行くことにする。近道を選んだが往復30分ほど掛かったか、高めのガソリンを3l入れて戻って来た。動いた、いつものようにエアーが入ってぎこちが無いが、これで森へ行ける。しかし止んでいた雨が降り出した。峠を攻めて戻ってくる予定通りの時刻だった。既に歩いたので短いコースで誤魔化しておくことにした。それでも合わせると運動時間は峠攻めと変わらない。

燃料を入れた時に5lまで表示されたので、最後のリザーヴの2lほどは表示されるときと表示されない時があって、要するに上下2lは信用できないということになる。今後は余裕を以て入れて置くしかないだろうか。肉屋に寄って帰宅して8時半前だったので、応急の事だったがまあまあのリカヴァリーだった。



参照:
敵はバイロイトにあり 2018-11-14 | 文化一般
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
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コロナ対策でモーツァルト

2020-06-05 | マスメディア批評
ドルトムントからメールが入った。日曜日に開催する再開後世界で最大級の演奏会の残券があるという知らせである。人気女性指揮者ミルガ・グラツィニーテティーラがベルリンの交響楽団と客演するというものだ。元々のプログラムは知らないが、ベートーヴェンなどの小編成にして二回公演となっている。一回に四分の一しか聴衆を入れないので、二回やっても半分の入場料収入となる。交響楽団で半分も入らない演奏会は興業的には厳しい。ペアー席と一人席を別けてネット販売している。少しでも数を入れようとしている。

水曜日の夜は、歴史的指揮者エーリッヒ・クライバーの最後の演奏会と銘打ったWDRでのアーカイヴ録音が流れた。先月息子の人気指揮者カルロス・クライバーの演奏会も流れたが、比較の上でも興味深かった。更にリハーサルの時にテープを回していたのが残されていてこれもとても興味深かった。1890年生まれなので世代としてはフルトヴェングラーなどと同じだがそうした先進性は全く無く保守的であっても1876年生まれのブルーノ・ヴァルターなどよりは新しい。それでも同年齢のフリッツ・ブッシュとか四つ下のカール・ベーム世代のノイエザッハリッヒの演奏様式に近いがまだまだ保守的だ。

練習風景の様子も現場の人らしくベーム博士のような高飛車な言い方ではない。権威主義のようなものに反感があったようで、ドイツを後にしているので、こういう父親がかえって家庭では大きな権威を持っていたのは想像に容易い。演説等でも述べているように楽曲や創作に対する敬意は間違いなさそうだ。ダルムシュタットから始めたようだが、マンハイムにもいたのは知らなかった。

あの当時の人がモーツァルトへと傾倒していくのは音楽芸術史的にも分かるのだが、「モーツァルトで健康に」というのは二十年前程に流行っていた音楽療法の奔りなのだろう。そうした論文が沢山出ていたのだろう。モーツァルトの変ホ長調の交響曲のフィナーレ導入やコーダへの副楽想への言及など、この愛情を感じさせるものでこの指揮者がそのように仕事をしていたというのがよく分かる。息子のカルロスにおける作品への拘りと非常に似ていると思う。

番組紹介には載っていなかったが、それによって父親が間違いなく息子とは異なり歴史的としている初演作品「ヴォツェック」の断章が流れた。調べてみるとその後にBRでの実況があって、そちらの方が遥かにいい演奏だった。此の侭真面目にやればモノになるとされたWDRとBRではやはり力量が違ったのだろう。

豚の鼻の量が多過ぎたので前夜に生姜醤油のシイタケと煮込みにして冷やしておいた。上手く煮凝りになっていたので、偶々見つけた青梗菜の上に乗せた。本格的な中華料理になって満足だった。青梗菜が三切れあったので、一食は本格的中華そば、一食は柳麺でどうだろうか。



参照:
ここが辛抱どころ 2020-04-04 | 生活
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
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ムジカヴィーヴァの経験

2020-06-04 | マスメディア批評
日曜日の生中継は繰り返して聴いていない。しかし生中継だけでも幾つか気が付いたことはあった。なによりもヤンソンスが指揮して得意にしていたショスタコーヴィッチの小曲集が大分異なって響いた。ヤンソンス家とショスタコーヴィチ家との付き合いは聞いたことがあるが、ユロスキー家にもショスタコーヴィッチだけでなく様々な人が出入りしていたと確か聞いた。ヤンスンス指揮の交響曲全集は購入したが、それらの小曲も入っている。今回聞いたものは明らかに焦点が異なる。明らかにユロスキー指揮のそれの方が面白く多層的だ。やはりヤンソンス指揮の音楽にはソヴィエトの音楽のそのものを感じる。

週末は荒れ天候になるようなので暑くなる前に早めに買い物を済ませた。仕様のマスクKN95は最高で、息をすると成形するぐらいに密の装着感があってこれ以上のものは無いと思わせる。その分30分もマスクをつけてスーパーにいると暑く息苦しくなってくる。

一時はドイツ連邦共和国で二十傑の感染数を誇っていた我が行政区も感染零が続いている。近辺の行政区も早くから感染が進んでいたところは殆どウイルスが息絶えている。僅かにマインツとかモーゼル流域とかに根強く感染が広がっているに過ぎない。だから合唱の練習も三メートル間隔で一時間まで許される。十五日からは250人の聴衆で公演が可能となる。この状況から感染が広がるにしても虱潰しに対応できる筈だ。

ユロスキへの昨年のインタヴューから新制作「ばらの騎士」については既に紹介したが、その他の事も興味深い。関心のあるバイエルン放送協会の交響楽団との事が書いてあって、十五年前にムジカノーヴァで振っていることを語っている。ピンチャーの新曲を振ったようで、デビューであると同時にピンチに陥ったようだ。彼自身にとっても上手くいかなかったようで、作曲家も居て、とても困ったと感じた。楽員代表が来て、「見れば分かるように我々と同じようにお客もどこ吹く風になって仕舞うだろう」と語ったが、「見ていてください、聴衆は気に入るようになるでしょう」と答えたらしい。

そして曲の前に十分間話すと、評論家もひっくるめて大変な成功になった。そして「どうして自分の所で同じようにしないのと」と誰かが尋ねて来た。それは全くモスクワの音楽大学の舞台で話しても嘗て一度も価値があると思ったことはないからで、彼自身が子供の時の聴衆はおらず、習慣によるものだと考えていたという。そして、一方的な決まりや堅いお話しとしないで即興的に話すと壁が取れて皆がついて来たという。その手の動画は沢山見ることが可能だ。その話術に関しては、ドイツ語で話しているものでも彼のネゼサガンの話しぶりに続いてのタレントぶりで、今後もその話術の威力は、特に支配人がフランス人となるので特別な威光を放つものと予想される。

それ以外のミュンヘンでの予定に関して、最初は珍しい曲でそのあとにヒット曲を取り上げるとは、先ずは新制作に関しての話しで再演についてではない事、伝統と新たな面への光を一緒に見て行くことの重要性を説く。コーミッシュェオパーでの経験からも、楽員も聴衆も毎晩毎晩代わってもそこに新たなものを見つけて行く経験があって、勿論ミュンヘンではシュトラウスやヴァークナー、モーツァルトなどでは闘争や意見の相違が生ずるのは当然だろうとしている。「ばらの騎士」で言及したようにミュンヘンの楽団のDNAというものがそこに詰まっているということだ。

ギュンターヴァントが還暦になってからシューベルトのグレートと言ったことに寄せて、ユロスキーが時系軸に沿ってマーラーを嘆きの歌から大地の歌に至ったところでブルックナーにおいても順々に交響曲の番号どころか版を一つづつ洗って行っているという。可能な限り作曲家の視座で見て行きたいと思うのだが、ヴァークナーに関しては「パルジファル」から始め、「トリスタン」、「マイスタージンガー」と来て、「指輪」に到達したという。このインタヴューはコロナ奏度の前だったので、ロンドンでその「指輪の練習」が出来なかった。2022年以降にミュンヘンでこれらの再演を指揮する筈だ。



参照:
Vladimir Jurowski: Der Mann des zweiten Mals, Markus Thiel, Merkur.de
劇場に継承されるもの 2020-05-29 | 文化一般
ミュンヘンはこうありたい 2020-05-07 | 文化一般
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奈落を平土間へと拡張

2020-06-03 | マスメディア批評
月曜日無人コンサート中継がよかった。目玉は、先日ヴィースバーデンでリサイタルを聴いて、更にメディが追っていて話題の中心にあるギュンター・グロイスボェックがロシアの歌曲を歌った。なによりも感心したのはフーバーのピアノ伴奏だが、ロシア語の判定は出来ないながらもあまり違和感が無かった。ピアノとその合わせが全てを変えてしまうようで改めてその意味を思った。

そして最後にはヴェルディ作曲「ドンカルロス」のフィリッポ王の「一人寂しく眠ろう」を歌った。ヴィースバーデンでもヴォ―タンの惜別の歌を歌ったが、歌曲の夕べでも最後には彼自身のオペラの世界を披露するのだろう。ミュンヘンでは宗教裁判官を歌う予定だった。声からしても久しぶりに本格的に深いバスだと思った。短期間にこの枠のトップに浮かび上がったのも良く分かる。

前座を務めた劇場の五重奏団の演奏も良かった。こちらは馴染みの顔ぶれというだけでなくその前に慰問出前演奏でのブレークしたSNSでの「アイネクライネナハトムジーク」の演奏がよかったので、一曲目のチェルハのこれまた「夜の数々」が期待された。チェロの代わりにコントラバスが入るので、四重奏曲の敷居の高さが無い分平素の劇場での合奏態度が問われるところだ。ツェルハと言えば数年前に音楽監督ペトレンコ指揮での新制作「ルル」完成版補完の作曲家で、ここでもその現場感覚というようなものが編成だけで無く感じられて、予想通りいい演奏をしていた。

なにが特にいいかというとペトレンコ指揮で散々に求められている拘りを野外であろうとも感じさせるからで、八シーズンも付き合うとその薫陶たるものがそこまで染み入るかと思わせるに充分だった。そこで今回の中継は珍しく全体を流した。ゲルハーハーの時もそうだが若干オペラ歌手の大音声へのマイクロフォンが問題で歪んでしまう。近づいてきてしまうのかもしれない。

そこで気が付いたのが、奈落の向こう側の平土間の座席が何列も取り除かれていて、奈落の蓋も平土間の高さに合わせてある。何を示すかというと、そこに楽団を配置して必要ならば客席との間に壁を作って、要するに奈落を表に出して拡張するという事だろうか?歌手には不利になるが舞台の前で歌わすようにすれば何とかなるかもしれない。七月にガラコンサートがあるような気がしているが、五百人ぐらいは入れても大丈夫ではないのか。歌があると限られるが最低複数回は公演して貰わないと僅かな人しか入れない。一時間半づつで前半後半で二回公演を二日続けるとか、方法はあるかもしれない。

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場が暮れまでの公演を早々にキャンセルした。収益性の事もあるので当然かとも思うが、コロナ禍ではアメリカは不穏になると三月ごろから予測していた。今回は黒人絞殺事件は発端となったが、基本的には不満の爆発ということで予想通りだった。だから九月からの新シーズンもアメリカは出遅れると予想していた。上手に制圧できるのかどうかは分からないが、不透明さが今後も付き纏う。

同国人に対して軍を出動させるなどと、既にそんな権限が大統領にあるかなどの疑問が寄せられているが、トラムプは第二の天安門事件を起こしかねないので恐ろしい。ブッシュジュニアと異なり国内だけでやっているのならあまり関係ないのだが、そんなに簡単に治まるとは思わない。



参照:
中々エレガントな趣 2020-06-01 | 料理
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音


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デルジェスの音を堪能

2020-06-02 | 文化一般
連休中に幾つかの放送などを耳にした。平土間でのコンサートを始めるコンセルトヘボーで2017年にヴァイオリンのバティアシュヴィリがデルジェスを鳴らし切っている。チャイコフスキーのレコーディングやツアーでの演奏を始めた初期の演奏だと思うが、会場の音響と相まって素晴らしい音色を堪能する。

ガルネリデルジェス1739だが、状態が凄くいい感じだ。今まで誰が弾いていたのかは分からないが、男性が弾いていたら賞味期間切れになっていた楽器かも知れない。柔軟な運弓があってこそだろう。ハイフェッツが有名なのかもしれないが、この手の音は矢張りちょっと異なる。

ムターらと同じように恥さらしにもギャラの補償に名前を出していたが、七月に「鱒」で聴けると思っていたのがなによりも残念だった。少しも開催を試みた様子が無くて、ラインガウワー音楽祭には愛想が尽いた。来年の復活祭では同曲を聴くことにはなっている。

2014年のフォルスターを開けた。前回は16年物を一月に開けている。やはり14年はバランスが取れていて、ミネラルも酸も果実風味も程よく調和している。ナグナム瓶があるので数年後が愉しみである。

月曜日の晩はミュンヘンからの生中継である。室内楽だけでなくて、リーダーアーベントは流石に超一流の歌劇場なだけにオペラ歌手が少し歌う。カウフマン、ゲルハーハーらが続きガロイスボェックが登場する。フーバーがピアノを受け持つので、ヴィースバーデンでの歌唱との差異を観察したい。

クリーヴランド管弦楽団の10月に欧州ツアーをする事になっているのだが、キャンセルしたとかも見かけた。春はキャンセルしたが10月も早々とキャンセルしたのだろうか?同じ時期にベルリナーフィルハーモニカーもアメリカツアーがあるので気になる。エマニュエル・アックスが帯同してモーツァルト、スクリァビンスキーの交響曲二番等がプログラムに入っている。

バーデンバーデンの払い戻しのフォーマットがアップロードされている。また2023年のリヒャルトシュトラウス作品はプレスによると楽劇「影の無い女」となっている。2013年にキリル・ペトレンコが新音楽監督として初めての制作だった。独第一放送でも生中継されて話題の制作だった。しかし、その後の再演の指揮などを聴いていても音楽的にはやり残し感はあったと思う。2024年はより有名作品となると「ばらの騎士」しかないだろう。先日、バリコスキーの演出の新制作を断った背景には、違うことをやりたかったというのはあるかもしれない。

偶然だろうか?ドレスデンではザルツブルクを追い出されたクリスティアン・ティーレマンがシュトラウス復活祭を催す。歌手で重なりそうな争奪戦があったかどうかは分からない。そして2024年7月にドレスデンとの契約は切れる。



参照:
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
多様的に活発になること 2019-09-24 | マスメディア批評
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中々エレガントな趣

2020-06-01 | 料理
先日ドイツの公立劇場の再開を果たしたギュンター・グロイスボェックがミュンヘンの劇場でSWRのインタヴューを受けている。売れっ子なことは分かるがそこまで聞き行ったかと思った。話題はもっと個人的なところへと及んでいて、リクエストの音楽を交えての一時間の放送を聞いてしまった。何かこの人は面白い。

ヴィースバーデンで声は掛けなかったがお互いに顔を見ていたのだが、インタヴューが終って楽屋へ戻ろうとするときにこちらの方に来たので、何かなと思ったら、「どこだったっけ」と一人呆けをしていた。オーストリア人で大男なので、大抵は野卑な感じが強くなるが、一寸身のこなし方などが体格の割にはエレガントな事にも気が付いていた。役者としての修行だけでは無いものを感じていたが、なるほど父親を早く亡くしたというが、医者で母親は教師だったと聞くとなるほどと思った。先ず何よりもこの間の自宅からのピアノを弾きながらの歌はただのお遊びでは無かった。だからリーダー歌手としては未知だったが40ユーロ近い額を払っても価値があると思ったのだった。

なるほど特別な音楽的な教育のある家庭では無いながら子供の時からピアノを弾いていて、10歳の時にはピアニストか指揮者になろうとしていたというから、そうだろうなと思った。それでも弾き歌いしている曲のピアノの難度は限られていて、同じマルティタスクにしても車を運転してとかなんかよりも容易だと語る。

ここに来てフェーズシールドが急に話題になって来た。理由はマスク義務への懐疑と夏に向けてのマスク不健康感が高まっているからだ。オーストリア等での義務化を止めたところは賢いが、お店などで長い時間マスクをしなければいけない人は、シールドの方が楽だということで普及しつつある。新規にメーカーが生産に参加してきている。

我が肉屋でも一人はシールドに替えた。彼女は眼鏡が曇ると語っていたのでより楽なものを探したのだろう。マスクと比較すると唾は飛ばないでもアエロゾール感染には疑問だとコッホ研究所の見解で、そもそも本格的なマスクでなければアエロゾール感染を防ぐことは難しい。やはり義務化を取り止めるしかないだろう。

サーモンを食した。通常は骨付きを塩焼きするのだが、綺麗な切り身があったので、薄塩でジャガイモと一緒に吹かした。ノルウェーのフィヨルドに旅行した時にそのようにして食したのを覚えている。その時は何切れもあったが、一切れでは流石に物足りなかった、リースリングのゼクトの最後の一本を開けた。これはこれで楽しめた。時間が立って酸が落ち気味で苦みが出て来出したので丁度良かった。



参照:
ドイツ最初の公立劇場再開 2020-05-15 | 文化一般
毒が体中に回った元旦 2012-01-02 | 暦
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