Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

訪れた夜尿症の朝

2020-06-26 | 生活
先日スーパーに行くと、手提げ篭が置いてあった。二ヶ月ほど撤去されていた。理由は距離を開けるためにワゴンが強制化されていたからだ。次回にはどうなっているか分からないが、空いている時刻は可能なのだろう。そもそも距離感は皆が身体に沁みている。特に暑い時には手早く済ましたい時には篭が早い。

完全に夏モードになって来た。先ずは夜中に窓を開けて就寝するようになった。そして半袖パジャマに着替えた。更にハーブテーを二リットル冷蔵庫に入れた。更にバルコンに机を出して、日除けを張った。普段着は猿股になった。完全な夏である。

それでも涼しいうちに走って、少し汗を掻く。今年初の棒々鳥は美味かった。しかし上手く噛めなくて腹が張った。火の通し方が悪かったのだろう。固くなりすぎた。腹が張ってビール一杯しか飲んでいないのに倒れるようにベットに向かった。

二リットル近くも水分を取ると夜尿症になる。何度トイレに向かったことだろう。窓を開けてあることもあって眠りが終始短かった。汗を掻くと眠れない、こうなるとまた眠れない。

月曜日から流れているハムブルクのマーラー「大地の歌」プロジェクトをスイスのベックメッサーことニフラー氏が新聞で評価している。ハムブルクの交響楽団のマルティメディアプロジェクトで、最終日にはカムブルラン指揮でシェーンベルク編曲版をフォレらが歌う。ヴィースバーデンでの経験からライヴでなければいけないがストリーミングを否定する訳ではないと語る。Momento Moriが主題ともなっているようだが自分で観てみないと評価は出来ない。数々のマーラー映画がその基本にあるという。

要するに通常のストリーミングとかライヴとかのその意味がここからも浮かび上がってくるという事だろう。シュトッツガルトでリハーサルをしていた指揮者のヴィオッティが空の客席を死としていた。聴衆よりもなによりもライヴを欲しているのは演奏家に違いない。音楽が創作者によって書かれて、そしてそうしたライヴの時がそこに空想されている。音楽が時の芸術である限りは、そこにしか生は無い。

ハムブルクはまだまだ厳しい状態のようだ。バイエルン州は知事の妄想から客席でマスクを着けたままである。それでは芸術活動が成り立たないことを教えてやらなければいけないだろう。車中のラディオは、先日世界的に話題になったドイツェオパーベルリンの駐車場での「ラインの黄金」に関しての支配人へのインタヴュが流れていた。あれはニューヨークタイムズも取材したぐらいだったがあくまでも緊急的対処方法だと語る。つまり、入場者制限が掛かるところで楽劇をピアノで伴奏したりというのは非常手段でしかなく、経済的にも芸術的にも価値のあることでなければならないと語る。つまり、秋の新制作「ヴァルキューレ」はニナ・シュテムメやリセ・ダイヴィドセンを迎えての公演に代わるものでは無いとする。そしてそれが必ず実現可能とは言えないと語った。

パン屋に行く前に車を出そうとするとご近所さんが暑くなったと語った。夏日和だよというと、よくないと、心肺系に良くないという。まだ60歳代の人だと思うが、そうなのかと思った。ここの所の気温の変化は比較的大きい。個人的にはまだまだ過ごしやすい。少なくともここ数年、朝一番で汗を掻くようになってから、夏の午後の数時間以外はそれほど暑さを感じなくなっている。



参照:
BやCの為のAプラン 2020-04-26 | マスメディア批評
「憎悪され、愛されて」 2018-10-02 | 文化一般




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