Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ムジカヴィーヴァの経験

2020-06-04 | マスメディア批評
日曜日の生中継は繰り返して聴いていない。しかし生中継だけでも幾つか気が付いたことはあった。なによりもヤンソンスが指揮して得意にしていたショスタコーヴィッチの小曲集が大分異なって響いた。ヤンソンス家とショスタコーヴィチ家との付き合いは聞いたことがあるが、ユロスキー家にもショスタコーヴィッチだけでなく様々な人が出入りしていたと確か聞いた。ヤンスンス指揮の交響曲全集は購入したが、それらの小曲も入っている。今回聞いたものは明らかに焦点が異なる。明らかにユロスキー指揮のそれの方が面白く多層的だ。やはりヤンソンス指揮の音楽にはソヴィエトの音楽のそのものを感じる。

週末は荒れ天候になるようなので暑くなる前に早めに買い物を済ませた。仕様のマスクKN95は最高で、息をすると成形するぐらいに密の装着感があってこれ以上のものは無いと思わせる。その分30分もマスクをつけてスーパーにいると暑く息苦しくなってくる。

一時はドイツ連邦共和国で二十傑の感染数を誇っていた我が行政区も感染零が続いている。近辺の行政区も早くから感染が進んでいたところは殆どウイルスが息絶えている。僅かにマインツとかモーゼル流域とかに根強く感染が広がっているに過ぎない。だから合唱の練習も三メートル間隔で一時間まで許される。十五日からは250人の聴衆で公演が可能となる。この状況から感染が広がるにしても虱潰しに対応できる筈だ。

ユロスキへの昨年のインタヴューから新制作「ばらの騎士」については既に紹介したが、その他の事も興味深い。関心のあるバイエルン放送協会の交響楽団との事が書いてあって、十五年前にムジカノーヴァで振っていることを語っている。ピンチャーの新曲を振ったようで、デビューであると同時にピンチに陥ったようだ。彼自身にとっても上手くいかなかったようで、作曲家も居て、とても困ったと感じた。楽員代表が来て、「見れば分かるように我々と同じようにお客もどこ吹く風になって仕舞うだろう」と語ったが、「見ていてください、聴衆は気に入るようになるでしょう」と答えたらしい。

そして曲の前に十分間話すと、評論家もひっくるめて大変な成功になった。そして「どうして自分の所で同じようにしないのと」と誰かが尋ねて来た。それは全くモスクワの音楽大学の舞台で話しても嘗て一度も価値があると思ったことはないからで、彼自身が子供の時の聴衆はおらず、習慣によるものだと考えていたという。そして、一方的な決まりや堅いお話しとしないで即興的に話すと壁が取れて皆がついて来たという。その手の動画は沢山見ることが可能だ。その話術に関しては、ドイツ語で話しているものでも彼のネゼサガンの話しぶりに続いてのタレントぶりで、今後もその話術の威力は、特に支配人がフランス人となるので特別な威光を放つものと予想される。

それ以外のミュンヘンでの予定に関して、最初は珍しい曲でそのあとにヒット曲を取り上げるとは、先ずは新制作に関しての話しで再演についてではない事、伝統と新たな面への光を一緒に見て行くことの重要性を説く。コーミッシュェオパーでの経験からも、楽員も聴衆も毎晩毎晩代わってもそこに新たなものを見つけて行く経験があって、勿論ミュンヘンではシュトラウスやヴァークナー、モーツァルトなどでは闘争や意見の相違が生ずるのは当然だろうとしている。「ばらの騎士」で言及したようにミュンヘンの楽団のDNAというものがそこに詰まっているということだ。

ギュンターヴァントが還暦になってからシューベルトのグレートと言ったことに寄せて、ユロスキーが時系軸に沿ってマーラーを嘆きの歌から大地の歌に至ったところでブルックナーにおいても順々に交響曲の番号どころか版を一つづつ洗って行っているという。可能な限り作曲家の視座で見て行きたいと思うのだが、ヴァークナーに関しては「パルジファル」から始め、「トリスタン」、「マイスタージンガー」と来て、「指輪」に到達したという。このインタヴューはコロナ奏度の前だったので、ロンドンでその「指輪の練習」が出来なかった。2022年以降にミュンヘンでこれらの再演を指揮する筈だ。



参照:
Vladimir Jurowski: Der Mann des zweiten Mals, Markus Thiel, Merkur.de
劇場に継承されるもの 2020-05-29 | 文化一般
ミュンヘンはこうありたい 2020-05-07 | 文化一般
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