Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アラテデスコの響き

2020-06-25 | 
承前)ベルチャ四重奏団の大フーガ付きが聴衆に意外に受けなかった。その理由を探るためにアルテミス四重奏曲の録音を聴いてみる。その演奏はキリル・ペトレンコなどのそれに共通する正確さがあるのだが、既に言及していたように深いリズム取りが出来ないのでせかせかした感じになったり、技術的な限界が多々見える。違った意味でラサール四重奏団自体にも技術的な問題があった。

ベルチャのヴァイオリンはその点創造的な飛翔もあり、殆ど幻想的と言えるような弾きっぷりなのだが、そこには違和感を覚えない所ギリギリのアーティキュレーションがあり、それは音響として解決される。比較的近い例はやはりガダニーニを弾いていたギドン・クレメルでこれまたシニトケでもバッハでも同じように音響の中で解決されていた ― シューベルトなどは最早発音していなかった。ベルチャの三楽章のアルペッジオなども殆ど即興的な風合いがあってすこぶる見事だった。そしてそれを受ける面々が合奏として音楽をどんどんと広げて行く。なにもジャズのコンボではなくても、同じ楽想を綴って語り合って行くという事はそういう事なのである。

比較対象に改めてアルバンベルクの録音を鳴らしてそのアーティキュレーションを確かめる。前者の大フーガ付きはザルツブルクでも聴いた記憶があるのだが、こうして最初の録音を聴き比べると、先ずピヒラーの第一ヴァイオリンを思い出して、流石にキュッヒルのように下品ではないが安定さに欠いていたのを思い出した。そしてベルチャが如何に明白に動機を弾き切るか、そして可成り限界まで挑戦すると必ずヴィオラなどがサポートにすっと入る。やはりとても室内楽として見事だった。

聴者数が入っていないホールの響きはもう一つのエベーヌ四重奏団が弾くと残響過多になって同時に奏者がサウンドチェックで経験からしっかりと合わせて来ないと駄目なものだった。方向としては大阪のザシムフォニーホールのそれにしっかりと中域が出るもので、チェロも過不足なく発声される。まさしくこの二つの四重奏団の経験の差が顕著なところで、ベルチャがその環境に合わせてしっかり鳴らしきったのは見事としか言えない。

なるほどそのヴァイオリンの楽想の描き方は明白で意味づけがとことんなされていて、これだけの歌い口は他に知らないが、違和感へと進む前に合わせが来るという、まさしく楽聖が狙ったその四重奏曲の構図が語られる。四楽章のアラテデスコのヴァルツァーもとてもいい乗りで、続くカヴァティーナも優れていた。敢えて言えばそこが音響として解決されてしまう事が正しいのかどうかという音楽的な美学的な疑問は生じる。言うなればハムマークラヴィーアゾナータにしろ決して意味づけが容易では無いのでそれを其の侭というような演奏実践が通らない一方、楽想の受け渡しとしてその展開のヴェクトルが問われることになる。それが和声的な流れとしても必ずしも音響的に解決され得ないという事になる。

そうした感慨が大フーガになれば解決されるという構造も存在していて、そのことが認知されるという事ではベルチャ四重奏団の大フーガ付きは一つの回答かも知れない。あのごつごつの密なフーガが有りの儘に音楽されるというのは矢張り圧倒的だ。実は先月まではその演奏はArteにあがっていてダウンロードも出来たのだがあまり関心が無かったので観逃してしまった。ヴィーナーコンツェルトハウスの映像で出来たら再確認してみたい。(続く)



参照:
落ちてくる音楽素材 2020-06-20 | アウトドーア・環境
スイスイと滑るように 2020-06-19 | 雑感
コメント
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