ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

南京事件の総括 - 13 ( 南京安全区国際委員会とは )

2019-01-20 16:25:32 | 徒然の記

 書評が13回目になります。今回は予定通り、田中氏の言う作家や詩人などの動きを紹介します。しかしこの人々は、細川隆元氏以外個人の意見を述べていません。

 「南京に入城したのは、約120名の新聞記者や、」「カメラマンだけではない。」「大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀一、」「西条八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった、」「高名な評論家や詩人、作家も、陥落とほとんど同時に、入城している。」「これらの人々は帰国するや、いろいろな雑誌や新聞に、」「レポートを書き、講演もしている。」

 「終戦になり、東京裁判が始まり、」「軍の作戦や、旧軍人に対する批判が高まった時でも、」「これらの作家や、評論家や詩人の誰一人として、南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。」「批判力旺盛な、口八丁、手八丁といわれた、大宅壮一氏でさえ、南京虐殺には、終始否定的であった。」

 だが私は、氏が、これらの人々を庇い過ぎているという気がしてなりません。当時は軍に協力する形で、従軍記者だけでなく、従軍画家、従軍作家という人々が沢山いました。戦意高揚のための小説を書き、絵を描き、詩を発表していました。しかし彼らの多くは敗戦になると、軍に力ずくで協力させられたと変節しました。軍や政府に騙され戦争に協力していただけで、本当の自分は平和主義者だったと、涙ながらに反省した人物もいます。

 氏の説明通り、この人々は特にGHQに迎合したり、南京事件を告発したりしていません。しかしもっと自分たちが見た南京を語り、「アメリカの嘘」を国民に伝えるべきではなかったのでしょうか。GHQの統治下では無理だとしても、昭和27年の独立以降に、なぜ南京の事実を語らなかったのでしょう。

 息子たちに思い出してもらいたいのは、ブログの二回目の叙述です。

 「昭和27年4月28日、日本が主権を回復したその日、」「 『真理の裁き ( パールの日本無罪論 ) 』 を、氏は太平洋出版から発刊した。」「この目的は、GHQの政治宣伝に立ち向かうことであった。」

 これが国を思う者の行動だとすれば、作家や詩人たちの不作為にはやはり疑問符がつきます。

 日本人の証言の締めくくりとして、昭和61年の8月、TBSの「時事放談」で語る、細川隆元氏の話を紹介しています。

 「わしが、朝日新聞の編集局長だった時だ。」「南京に特派した記者たちを集めて、南京に虐殺があったという噂を聞くが、本当はどうだと一人一人に聞いてみた。」

 「そのようなことは、見たことも、聞いたこともありませんというのが、ハッキリした返事だった。」「何万、何十万なんて言う、虐殺は、絶対ない。絶対になかったと、わしは思う。」

 細川隆元氏もここまで語るのなら、もっと早く公表すべきでした。そうしていれば、今日のような朝日新聞社の、見境のない反日左翼勢力への傾斜も防げたでしょうに。

 というより細川氏は、社内に本多勝一や今井正剛のような捏造専門記者を抱えていても、何の処罰もできないため、テレビの放談でお茶を濁すしかなかったのかも知れません。今も昔も朝日新聞は、日本に害をなす新聞社でした。

 日本人の証言はこのくらいにし、戦後の日本を苦しめる元凶となった、「南京安全区国際委員会」に関する、氏の説明を紹介します。今後私たちが、南京事件を考える上で、忘れてはならない重要な材料となります。

 「南京安全区国際委員会とは何か。」「南京事件を解く、重要な鍵を握っている、この組織について、説明したい。」

 「戦前から南京に在住していた外国人は、相当数いたが、」「最後まで踏みとどまったのは、40名前後で、そのうちの15名が委員会を編成した。」「馬・南京市長の申し入れを受けて、南京市民の安全を守り、生活を保障するシステムを作ったのが、この委員会である。」

 「委員長は、ドイツのシーメンス社支店長、ジョン・ラーベで、」「書記長は、米人の金陵大学教授ルイス・スミス博士、」「メンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名の、計15名である。」( 金陵大学は、のちに南京大学と改称した。)

 重要なのは、この説明です。

 「ここで注意したいのは、この15名の第三国人は、いずれも当時の言葉で言う、敵性国人である。」「つまり日本軍を侵略軍として憎み、蒋介石の国民党政権に味方し、これを支援している国の人々である、ということである。」

 「ドイツが、親日政策をとるようになったのは、リッペンドロップが外相に就任した以後のことで、」「それまでは米英と同様に、日本を敵視し、蒋介石軍に武器援助をし、軍事顧問団を送っていた。」

 「さらに委員会は、YMCA会員や、紅卍字会員を多数動員し、占領下の南京における、日本軍の非行調査にあたっている。」

 南京事件の死亡者の数、虐殺された市民の数、強姦された婦人の数など、怪しい数字をどこからか集め、数々の報告書を提出したのがこの委員会でした。

 「南京事件」「慰安婦問題」「憲法改正」の三つは、敗戦後の日本を呪縛する課題ですが、共通する構図があります。

   1. きっかけを作ったアメリカ

   2. これを利用する中国政府、韓国・北朝鮮政府

   3. これに協力する反日左翼の日本人たち

   4. 傍観する諸外国

 この中で、一番情けなく思うのは3番目の日本人たちです。どこの国にも、いつの時代でも、自分の国を嫌悪する人間がいます。自国の悪口を言い、他の国に憧れ、他国を褒める物好きな人間がいます。 しかしたいてい少数者で、「変わり者」と見られるだけで済んでいます。

 敗戦後の日本では、自分の国を憎むしかできない人間が溢れるように発生しました。東京裁判と、無批判に報道するマスコと、マッカーサーがくれた憲法が一つになり、日本特有の現象を生み出しました。

 戦後73年が経過し、田中氏のような人々の積み重ねが、やっと効を奏し、失われた日本を取り戻そうとする動きが出始めました。堤防に掘る「蟻の一穴」が、少し広がった穴になりつつあります。

 穴を広げる作業を、次回も続けます。

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南京事件の総括 - 12 ( 世間での、南京事件論争紹介 )

2019-01-19 17:46:30 | 徒然の記

 氏の著書から、記者の証言の続きを紹介予定でしたが、書評を離れ、別途調べたことを報告しようと思います。参考になるのか自信がありませんが、氏の著書の証言だけでなく、世間では多くの人々が論争していたと、息子たちに伝えたくなりました。

 日本では昭和45年から「南京事件論争」というものが、幾つもありました。虐殺の有無や規模などを論点とした、長期にわたる論争ですが、日中関係が背景にあり、常に政治的な影響を受け続けました。

 発端は、昭和45年の本多勝一と山本七平氏の論争で、それ以後平成22年まで続き、今も結論が出ないままです。日本と中国の問題になっていますが、東京裁判での捏造が始まりですから、アメリカも深く関わっています。

 日本の政治家はもちろんですが、論争に関わったマスコミ、学者、評論家、文化人など、誰も結論が出せませんでした。この状況を見ますと、憲法改正問題に取り組む日本がそっくり重なります。

 つまり、依然として日本の国論が二分されたままであると言う状況です。事件解決の困難さを理解してもらうため、コメントなしで年代ごとの関連事件を列挙します。

 1. 昭和45年代

   本多勝一・山本七平( 鈴木明 )の論争

 2. 昭和55年代

   家永教科書裁判  

   楷行社出版『南京戦史』  

   朝日新聞による歩兵第23連隊報道

 3. 平成  2年代

    米中における対日賠償請求運動   

   天安門事件以降の中国における愛国主義教育

   永野発言 ( 海軍軍令部長 )      

   南京大虐殺57周年世界記念会議 ( 注: 論争が国際化し、再び日本における論争が、活発化した。)

  「つくる会」と歴史教科書     

   吉田・東中野論争(戦時国際法)

   写真誤用問題    

   東中野修道裁判  ( 夏淑琴 名誉毀損事件 )

 4. 平成12年代

   百人斬り競争裁判  

   中国ホローコスト博物館   

   英語圏での研究や論説

   日中歴史共同研究

 5. 平成22年代

   中国「全民族抗戦爆発77周年」   

   3.1 安部談話   

   抗日戦争勝利70周年式典

   南京事件ユネスコ記憶遺産登録    

   一八事変(満州事変) 85周年

  最後に、南京事件論争に関係した人物名を、大虐殺派・虐殺肯定派と、まぼろし派・虐殺否定派と中間派の三つに分け紹介します。

  1. 大虐殺派・虐殺肯定派

    家永三郎   井上久士   小野賢二   江口圭一   笠原十九司

   高崎隆治   姫田光義    藤原彰   洞富雄    本多勝一

   吉田裕    渡辺春巳

   2. まぼろし派・虐殺否定派

   松尾一郎   阿羅健一   藤岡寛次   黄文雄    鈴木明

   石平     田中正明   富澤繁信   東中野修道  藤岡信勝

   水間政憲   山本七平   渡部昇一   百田尚樹

   3. 中間派

    板倉由明   北村稔    櫻井よしこ  中村    秦郁彦
 
    原剛     山本昌弘
 
 大虐殺派については、次のような注釈がついています。

  1.   日本の研究者の場合、例えば笠原十九司の様に、11万9千人以上の犠牲者を主張するが、南京城内の民間人犠牲は1万2千人程度と主張し、主たる違法殺人は中国兵への殺人であるとする。」

    2.   30万人-20万人以上という数字を示すのは、次のような、中国人関係者のみである。

   中華人民共和国政府

   南京大虐殺記念館館長 

   孫宅巍  (学者。南京事件研究者) 

      アイリス・チャン  (  作家 )

 論点は数字にあるのでなく、東京裁判の目的や仕組みですから、数字にこだわる議論に疑問を持ちます。虐殺肯定派の日本人学者は、見ればわかる通り、反日左翼思想の持ち主です。

 この分類で行きますと、私は「まぼろし派・虐殺否定派」となりますが、次回からまた書評を続けます。

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南京事件の総括 - 11 ( 南京にいた、日本人記者たちの証言 )

2019-01-19 14:05:36 | 徒然の記

 今回は、最初から記者たちの証言を紹介します。

   7. 佐藤振寿 同盟通信映画部カメラマン

   「同盟通信の中では、虐殺というようなことは話題になりませんでした。」「その頃、敗残兵や、便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが、戦争だと思っていましたから。」
 
   8. 田口利介 報知新聞記者
 
   「虐殺については、当時聞いたこともなかったし、話題になったことも、ありません。」
 
   9. 細波孝 同盟通信無電技師
 
   「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも、死体はありました。」「中には、針金で、繋いだものもありました。」「さあ、どのくらいか、100人くらいでしょうか。湯山にいた、捕虜をやったのでしょう。」
 
   10. 小池秋羊 都新聞記者  ( 13日 入城)
 
   「城内はどの家も空き家で、物音一つしない、死の都市でした。」「犬猫の姿一つ見られず、不思議な妖気が漂い、街路は、激戦の後とも見受けられない、」「整然とした町並みで、びっくりしてしまいました。」
 
   「難民区は、敗残兵探しの時は、難民も動揺していましたが、一般に平静でした。」「食糧がなく、飢餓状態で、食べものをくれと、我々に縋りつく人も、いました。」「私たちの宿舎には、発見された米が何俵もありましたので、難民区クのリーダーを、宿舎に連れて行き、」「米や副食品などを、大八車二台分やりました。」「難民区には、六、七万人いたので、これでは九牛の一毛だったと、思います。」
 
 「虐殺されたものか、戦死者か分かりませんが、中央ロータリーのそばに、作りかけのビルがあり、この地下に、数体の死体がありました。」「それと、挹江門だったと思いますが、軍のトラックでここに行った時、車に何遍も轢かれ、煎餅のようになっていた肢体が、一体ありました。」
 
 「下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような、円形の造船所ですが、そこに、累々たる死体が、投げ込まれているのも、目撃しました。」「五体や十体でなく、何十体かあったと思います。」「これは、戦死体だと思います。」
 
 「当時南京で、虐殺の話を聞いたことはありません。」( 注 : なお、小池記者は、13日に中正路で火事を見た時、二台の車に分乗した外人記者が、しきりにカメラのシャッターターを切っていたと、重要な証言をしている。)
 
    11. 樋口哲雄 読売新聞技師
 
  「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました。」「日本軍による虐殺があったと言われていますが、だいいち、そういう形跡を見たことがありません。」「あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか、中山陵など荒らされていないし、綺麗でした。」「やらなきゃ、こっちがやられるから、やったのを、虐殺と言っているのだと、思います。」
 
   12. 金沢喜雄 東京日日新聞カメラマン
 
  「戦後、この時何万人かの虐殺があったと、言われていますが、不思議でしようがないのです。」「私は南京を、やたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ、聞いたこともありません。」「南京には、一ヶ月ほどいましたが、戦後言われているようなことは、見てもいなければ、聞いてもいません。」「虐殺があったと言われていますが、ありえないことです。」「松井大将が絞首刑になったのも、不思議でしようがないのです。」
 
   13. 森博 読売新聞上海特派員
 
  「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を、怖がってもいなかったと、思います。」「便衣隊がいましたので、逆に、日本兵の方が、中国人を警戒していました。」「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない。」「それで困ってやった、とも言っていました。」「下士官が、単独でやったと思います。」「分隊長クラスの、下士官です。」
 
   14. 二村次郎 報知新聞カメラマン
 
  「南京にいる間、大虐殺は、見たことがありません。」「戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出してみますが、どういう虐殺なのか、私の方が聞きたいくらいです。」「アウシュビッツのように、殺す場所がある訳でもないですからね。」「私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判のときです。」
 
   15. 田中正明 著者自身
 
  「実は私も、雑誌大東亜主義の従軍記者として、南京事件の翌年の、13年8月、」「南京を、一ヶ月に渡って視察し、9月から始まった漢江攻略戦に、林芙美子氏らと、武漢一番乗りの部隊と共に、入城した。」
 
 「大亜細亜協会会長の、松井大将から、その後の南京一帯の、治安状況や民心の動向などを、よく観察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。」「一従軍記者であったが、南京の特務機関長や、報道部長の、特別の便宜を受け、」「南京城内の戦場跡はもとより、湯水鎮、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。」
 
 「私が宿泊したのは、難民区の入り口付近の兵站宿舎だったが、まだ歩哨も立っており、良民証の点検も行われていた。」「難民区内は、露天商、マーケットなどが軒を並べ、活況を呈し、喧騒を極めていた。」「当時人口は、50万人近くに膨らみ、昔からの色街あたりは、日本人経営の料亭や、食堂の女性が、夜の南京の街を、浴衣姿で歩いている姿さえ見られた。」
 
 「東京裁判や、国際委員会の報告書等では、市街の三分の一以上が、日本軍の放火で、灰燼に帰したと告発しているが、これは全くの嘘で、」「下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街が意外と整然としていたのに、むしろ驚いたほどである。」
 
 「多くの従軍記者や、カメラマン、現地にいた日本人作家や詩人などが、口を揃えて言うごとく、」「南京大虐殺などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも、聞いたこともない、事件だったのである。」
 
 今回は、著者自身の証言で終わりますが、次回は、南京にいた作家や詩人などの証言を、紹介します。
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南京事件の総括 - 10 ( 南京にいた、日本人記者たちの証言 )

2019-01-18 08:13:32 | 徒然の記

 今回は、東京裁判が南京事件をどのように判定したのか、氏が判決文を要約していますので紹介します。

  ・ 南京が占領された後、最初の二、三日の間に、少なくとも、一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が、無差別に殺害された。

  ・ 占領の一ヶ月の間に、約二万の強姦事件が発生した。

  ・ 一般人になりすましている中国兵を掃討すると称して、兵役年齢にあった中国人男子二万人が集団的に殺害された。

  ・  さらに捕虜三万人以上が、武器を捨て、降伏してから72時間のうちに虐殺された。

  ・ 南京から避難していた市民のうち5万7千人が、日本軍に追いつかれて収容された。彼らは飢餓と拷問に会い、多数の者が死亡し、生き残った者の内の多くは機関銃と銃剣で殺された。

 氏の説明によりますと、判決文は南京事件の犠牲者を、12万7千人と見ているとのことですが、同じ判決の別の箇所で、次のように述べていると指摘しています。

 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、」「南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。」

 総括判決の中で、二万人と言った強姦された婦人の数が、何千人へと変わり、殺害された人数は、20万人以上から、10万人以上と半減しています。氏は、一つの判決文の中に、異なる数字が三通り書かれている不合理を指摘しています。

 異なる死亡者数を取り上げながら、総括判決とされていますが、判決なら基礎となる数字を確定させるはずですから、ウエッブ裁判長の杜撰さが見えます。

 異なる犠牲者の数につき、述べた人物と捏造の根拠を、一つ一つ、氏が反証していますが省略します。他人から聞いた話でも、噂でも、証拠として採用すると裁判所が言い、集めた資料や証言ですから、紹介するだけ時間の無駄です。

 最初に述べたように裁判そのものが、米国とマッカーサー元帥による復讐裁判ですから、数字の矛盾を検証すること自体が無意味な気がします。

  法廷で証言台に立った証人の話と、宣誓口述書によりますと、当時の南京市街は、至る所足の踏み場もないほど虐殺された屍体が転がり、流れた血が道に流れ、歩くのにも難渋し、まさに阿鼻叫喚の状況だったとなります。

  ここで私は、第1章に戻ります。書かれている氏の説明を読めば、裁判の嘘が判明します。

  「鎌倉市より狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、約120人も占領と同時に入場し、取材に当たっているのである。」

 「朝日、毎日、読売、日経など全国紙の支局や、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。」「朝日新聞の取材班は、約80名、毎日新聞は、約70名だった。」

  氏がインタビューした新聞記者たちへ、話が紹介されています。

  1. 原四郎  読売新聞上海特派員

  「私が、南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して、三ヶ月後のこと。」「当時、軍による箝口令が、敷かれていたわけではないので、なぜ今頃、こんなニュースがと、」「各支局に確認をとったが、ハッキリしたことは、つかめなかった。」「また中国軍の宣伝工作だろう、というのが、大方の意見だった。」

  2. 五島広作 東京日日新聞特派員

  「自分が南京戦取材を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京で大虐殺があったらしいという、噂を耳にした。」「驚いて上海に支局を持つ、朝日や読売や同盟など、各社に電話を入れてみた。」「どの社も全然知らぬ、聞いたことも見たこともないという。」「おそらく敵さんの、例の宣伝工作だろうというのがオチだった。」

  3. 橋本登美三郎 朝日新聞上海支局次長 (元自民党幹事長)

  「南京事件ねえ。全然聞いていない。」「もしあれば、記者の間で、話に出るはずだ。」「記者は、少しでも記事になりそうなことは、互いに話するし・・。」「それが、仕事だからね。」「朝日新聞では、現地記者ばかり集めて座談会もやったが、あったのなら、そんな話がでるはずだ。」

  4. 足立和夫  朝日新聞南京特派員

  「私は、南京大虐殺なんて見ていません。」氏は、虐殺の目撃者として名乗り出ていた、同社の今井正剛記者についてはこう語った。

   「あれは、自分で見て記事を書く人でなかった。」「人から聞いたことを、脚色するのがうまかった。」

  5. 森山喬 朝日新聞南京特派員 今井正剛記者と南京で共に取材していた。

   「そんな話は、ついぞ聞いたことがない。」

  6. 佐藤振寿 東京日日新聞カメラマン

   「虐殺は、見ていません。」「虐殺があったと言われますが、16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出ました。」「多くの中国人が、日の丸の腕章をつけて、日本兵の所に集まっていましたから、とても残虐な殺しがあったとは、信じられません。」

    「南京事件について聞いたのは、戦後です。」「アメリカ軍が来てからですが、昭和21年か、22年頃だったと思います。」「NHKに、〈 真相箱 〉という番組があって、それで南京事件があったと知りました。」「その放送を聞いた時が、初めてだったと思います。」

 記者たちの証言は、まだ続きます。120名も南京にいたのですから、彼らの話が、一番の証言となるはずです。東京裁判では、ウエッブ裁判長もキーナン首席検事も、彼らの証言を受けつけませんでした。マッカーサー元帥がマスコミの統制をしていたので、新聞もラジオも、彼らの証言を報道することは許されませんでした。

 東京裁判から73年が経過し、 マッカーサー元帥も亡くなった今、記者たちの貴重な証言を、遠慮なく伝えることができます。

 次回も、記者たちの証言の紹介から始めます。

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南京事件の総括 - 9 ( 北方領土不法占拠の原点、 その他 )

2019-01-17 07:56:18 | 徒然の記

  書評の9回目になります。東京裁判の内情が説明されています。

 「この裁判は、偽証罪は問わない、検証もしないという、中世の魔女狩りに似た裁判だった。」「日本軍の不法や暴虐、非人間的犯罪行為については、たとえ伝聞であれ、噂話であれ、創作であれすべて提訴せよと促し、」「裁判所はこれらを検証なしで採択するという、およそ文明国の規範をはずれた裁判であった。」

 氏の叙述が極端なので、読む人は誰も信じないと思います。そんなバカな話があるはずがないと、思うからです。

 「これに反し、連合国の行為は戦時国際法に違反していても、条約違反でも、」「ウェッブ裁判長の、次の一言で退けられた。」「この裁判は日本を裁く裁判で、連合国軍の行為とは無関係である。」

 裁判に関係のないことなら取り上げられなくて当然だろうと、おそらく読者は思います。ウエッブ裁判長が退けた事実を、氏が具体的述べ出すと、次第に氏の気持が伝わってきます。ウエッブ裁判長が拒絶したものは、次の通りです。

   1. 米国による、広島、長崎への原爆投下 ( 広島の死者20万人、長崎の死者14万人)

   2. ソ連による、日ソ中立条約の一方的な破棄

   3. ソ連による、満州、南樺太における開拓民を含む約25万人の日本人虐殺

   4. ソ連による、57万5千人の日本人将兵の不法なシベリア連行と、10年余にわたる強制労働

   5. 日本が武装解除した8月15日以降になされた、ソ連による北方四島の不法占拠

  戦争犯罪を裁く法廷なら、日本側から出された事実について、なぜ取り上げないのかという疑問が生まれます。日本を裁いている当事者への疑問であれば、却下する理由を説明するのが裁判長の仕事です。それをしないのなら、犯罪者が犯罪者を裁く裁判となり、そう言う場所を法廷とは言いません。

 日本側の弁護団が異議申し立ての最後に、おずおずと出した「北方四島の不法占拠は、安倍総理がプーチン大統領とやろうとしている「北方領土返還交渉」の原因となる事実です。

 ここで私は昨年読んだ、笹本俊二氏著の『第二次大戦下のヨーロッパ』を思い出しました。昭和20年にヤルタで行われた、ルーズベルトとスターリンの会談記録です。話が横道へそれますが、笹本氏の意見を紹介します。

 「ポーランド戦で大攻勢に転じたソビエト軍は勢いに乗じて、ドイツ領深く攻め込み、首都ベルリンまで60キロの地点に迫っていた。」「しかし米英軍はやっと進軍を開始したばかりで、ベルリンまでの距離は、400キロもあった。」 

 「ソビエト軍のあげた大戦果は、米英軍に強いショックを与えたが、それは政治的にも、強い圧力を意味した。」「スターリンが、ちょうどこの時期に、ルーズベルトとの会談に応じたのは、十分に計算した上での、ことだった。」

 突然の紹介なので、戸惑っている人もいると思いますが、もう少し読むと事情が分かります。

 「アメリカはまだ、対日戦争に明るい見通しを立てることができなかった。」「米国の首脳部は、日本との戦争はドイツを倒した後、18ヶ月は続くと、判断していた。」「日本本土に上陸作戦をやるとすれば、50万の死傷者を出すと計算していた。」

 「その上日本は満州に強大な兵力を持っているので、」「これを掃討するのも大仕事だと考えていた。」「アメリカとしては対独戦線終結次第、ソビエト軍の対日参戦がどうしても必要だと、考えざるを得なかった。」

 原爆実験の成功は5ヶ月先の見通しでしたから、慎重な当時のアメリカは関東軍の戦力を過大評価していました。ヤルタ会談に臨んだルーズベルトにとって最大の課題は、スターリンから、なんとかして対日参戦の確約を取り付けることでした。

 私がこれまで聞いていたのは、次のような話です。

 「スターリンは日本との同盟を破り、戦争末期のどさくさで、卑怯な攻撃を仕掛けてきた。」「火事場泥棒のように、日本の領土を奪った。」

 独裁者スターリンが、突然攻撃をしてきたと思っていましたが、実際はルーズベルトからの強い要請でした。笹本氏はこの時のルーズベルトを、次のように説明しています。

 「それで日本を降伏させることができれば、米兵50万の犠牲を出さずに済み、」「その代償ならある程度の譲歩はやむを得ないと言うのが、ルーズベルトの考え方だったのであろう。」

  この経緯を知れば、北方領土の返還交渉の困難さが分かります。安倍総理がプーチン大統領と個人的に親しくても、他の政治家がうんと言いません。
 
 スターリンは余力を持って対日参戦したのでなく、ドイツとの最終戦を終わるまで内実は薄氷の戦いをしていました。ヤルタで余裕を見せルーズベルトと会談したのは、政治家特有の「騙し合い」でした。北方領土は、ロシアがドイツとの戦いで流した血の代償に、奪ったものとも言えます。ましてアメリカの同意のもとでの領有なら、日露の話し合いだけで終わると思えません。

 総理が、北方四島の返還をロシアに同意させたとすれば、日本史に特筆される快挙です。

 息子たちに言います。国際政治の現実や大国のエゴイズムについて、戦後の日本は語らなくなりました。政府だけでなくマスコミも、現実を伝える役目を放棄しています。

 「日本は、平和を愛する諸国の公正と信義を信頼し、すべての問題を、話し合いで解決します。」とマスコミが合唱し、学校でもそのように教えます。北方領土が話し合いで解決されるような、楽天的な期待を抱かせます。

 息子たちに言います。父の世代の人間は、政府とマスコミ騙されて生きてきましたが、その過ちをお前たちにさせたくありません。よく読んでください。マスコミの使う言葉は現行憲法の前文そのままです。彼らの思考の根底にあるのは、「日本否定の断罪思想」です。綺麗な言葉で語られていても、底あるのは、日本人の心から「愛国心」を消し去ってしまうという、連合国軍の意図です。

  現行の憲法は、日本人の手で改正されなければなりません。反日左翼が跋扈する現在が困難なら、お前たちの世代を超え、バカな右翼と左翼が死に絶え、普通の日本人が増えた時、その時の日本人が作り替えればいいのかもしれません。

 田中氏は松井大将の名誉を回復するため、後世の国民に希望を託しこの著書を出版しています。父も息子や孫や、後世の子孫に願いを託しブログを遺しています。願いは、大げさなものではありません。

  ・ 自分の生まれた国を愛し、大切にする人間になる

  ・ ご先祖様を大切にし、おろそかにしない人間になる

 そんな国民が多数を占めるようになった時、つまり日本が普通の国になった時、日本の名誉が回復されます。これを阻む巨大な堤防が「現行憲法」です。反日左翼とお花畑のバカ者たちが、「平和憲法」と崇めているこの憲法が、日本否定の大元です。

 本日は、堤防の穴をどこまで掘ったのやら。田中氏から少し離れ、別の穴を掘ったような、気もしますが・・

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南京事件の総括 - 8 ( 突然持ち出された、南京事件 )

2019-01-16 13:12:01 | 徒然の記

 書評の8回目になります。今回も堤防に向かい、穴掘りをしていてる氏の言葉から始めます。

 「昭和22年7月25日から始まった、検察側証人の証言、」「そして前述のおびただしい宣誓供述書や、証拠書類の朗読が、断続的に、8月の31日まで、一ヶ月以上にわたって行われた。」

 ここからが、戦後の私たちがほとんど知らない事実です。反日のマスコミの出発点も、ここにあります

 「証人の証言が始まった時より、ラジオは毎晩〈 真相箱 〉という、GHQ政策の番組を、音楽入りで劇的に放送し、」「日本軍の残虐性など、あることないことを、誇大宣伝した。」

 「GHQの言論統制下にあった新聞は、筆を揃え、日本軍の暴虐ぶりを、これでもかというように連続報道した。」「これに対する反論や批判は封ぜられ、抗弁のしようもなかった。」「国民はただ身を縮め、いたたまれない思いで、耐えるしかなかった。」

 皇居間前の広場で、涙をぬぐっていた人々の姿が、二重写しになります。戦争が終わったと安堵する国民に向い、こんな放送が流されるのですから、「政府に騙された。」「軍人に騙された」と、失望や怒りが生じても不思議はありません。

 マッカーサー元帥はこの時、政府を超える絶対の権力を手にし、マスコミを組み敷いていました。「言論の自由」、「反権力」、「社会の木鐸」などと、偉そうな訓示を垂れていますが、当時の朝日やNHKは何をしていたのでしょう。元帥の理不尽な権力行使に、抵抗したとでも言うのでしょうか。

 日本人が蔑む韓国ですが、この国の新聞は権力の横暴に逆らい、白紙の新聞を発行した歴史を持っています。驕りたかぶる日本の新聞が、あの時一社でも、マッカーサーに抗議し、白紙のページで新聞を発行したでしょうか。

  昨年の2月に読んだ、富田健治氏の著書『敗戦日本の内側』を、思い出します。氏は敗戦直後の状況を、苦々しそうに語っていました。

  「急に平和論者ぶって、総司令部に入り浸っている人たちの名前も、」「よく聞いたものである。」「そうかと思えば、日本人の悪口を告げるため、」「司令部に日参している者もあるという始末で、」「無条件降伏したと同時に、恥さらしの日本となった時代でもあった。」
 
 「私は、日本の政治家、軍人、言論人と言われる人たちにして、」「敗戦にあたり周章狼狽するばかりでなく、わが日本を売り、わが同胞を裏切ることによって、」「生活の糧を得んとする、卑劣な根性の者が、いかに多かったかを知り、慨嘆に耐えないものがあった。」
 
 「民主主義は、よろしかろう。」「しかしながら、人を陥れ、人を裏切り、」「これにより、自らの利益を得るというのでは、民主主義以前の、不道徳ではなかろうか。」「かかる輩が、各界で口をぬぐい、しかものさばっているとすれば、」「そんな日本の社会が、立派な成長をなし得ようはずがないのである。」
 
 「今後の日本の正しく行く道は、終戦直後の破廉恥の是正から再出発すべきではなかろうか。」
  
 もし自分が、敗戦当時の日本で責任ある地位にいたとしたら、どのような態度で臨んだかと想像しますと、口ばかり先行する私には、自信をもって言える言葉がありません。
 
 それだけに、富田氏の言葉が胸に刺さる思いがします。だから私は、情けない自分を含め、朝日新聞やNHKを責めます。権力に膝を屈した、彼らを、自分を含め卑怯者と責めます。
 
 話が飛びますが、敵の裁判を受けるのを潔しとせず、自決した軍人の名前に、漏れがありましたので、追加します。あれだけ戦争を煽り立てた変節のマスコミの中に、責任を感じ、一人でも自決した人間がいたでしょうか。
 
 敗戦直後、自決した将軍の名前は次の通りです。将官だけを調べましたが、佐官クラス以下の軍人を入れますと、もっと多くの数になります。これらの方々に対し、私は頭を垂れます。
 
  阿南惟幾陸軍大将   割腹自決     寺本熊市陸軍中将    割腹自決
 
  大西滝治郎海軍中将  割腹自決     田中静壱陸軍大将    ピストル自決
 
  島田朋三郎陸軍中将 ピストル自決    宇垣纒海軍中将     特攻自決
 
 東京裁判所で開始された、検事側の証人たちの証言と、証拠書類の朗読の中で、「南京虐殺事件」が、突然持ち出されました。その時の氏の、驚きの言葉です。
 
 「このようにして、初めて知らされた南京大虐殺なるものは、海外にも大きな反響を呼んだ。」
 
  やっと氏が、南京事件について語り始めます。息子たちは、次回のブログを今まで同様背筋を伸ばして読んでください。
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南京事件の総括 - 7 ( 東京裁判の、3つの目的 )

2019-01-16 07:36:33 | 徒然の記

 今回も頑強な堤防に向かい、穴掘り作業をしている氏の言葉から始めます。

 「東京裁判は、三つの目的を持った裁判であると、言われている。」

 その3つの目的は、以下の通りです。3番目の目的については今更説明する必要がありませんので、1.と2.に関する氏の説明を一緒に紹介します

    1. 歴史の断絶 あるいは、日本人の歴史観の革命的変革

    ・  日本の戦前の歴史、文化、伝統は、すべて悪であったとして断罪すること

    ・  日本人を最初から侵略者として決めつけ、日本及び日本軍の行った行為は、すべて悪であり犯罪行為であるとすること

    ・  連合国の行ったことはすべて善である、という前提で行うこと

    2. 罪の意識の扶植 あるいは、自虐意識の植えつけ

    ・ 日本軍が中国大陸及び東亜の諸国において、いかに非人道的な、犯罪行為を行ってきたかを、徹底的にプロパガンダすること

    ・ これによって日本の伝統と文化に、ダメージを与えること

     ・日本人の愛国心を抹消し、日本民族の再起の芽を摘み取ること

    3. 復讐 つまり、米国とマッカーサーによる復讐

 まさに今、氏の指摘する通り、アメリカが思った通りの日本が出来上がりました。彼らに作られた日本人たちは、自分が何のために反日を叫び、どうして日本を憎んでいるのか、その原因さえ知りません。

 あろうことか、いつの間にか反日左翼に引きずられ、「米軍は出て行け」と、反米に変化しています。本来は水と油のアメリカとソ連が、同じ連合国の中にいましたから、時間が経てば綻びが出ます。「米軍の戦争に巻き込まれるな」と敵対の叫び声をあげます。どうしようもない愚か者たちですが、間違いなく彼らも日本人です。

 年配者が多く頑迷固陋の頭ですから、理解するスペースが残っていないのでしょうか。こんな私でも、反日左翼の本を我慢して読む忍耐力を持っていますが、彼らにはありません。息子たちより、彼らに氏の著作を勧めたいのですが、無理な話です。

 みっともないので、これ以上の独り言をやめ、堤防の穴掘りに専念します。穴掘りの方が、よほど有意義です。私の人生ももしかすると、残り少ないのかも知れませんので、時間は大切に使わねばなりません。

 「南京事件は最初から、東京裁判の目玉として、扱われた。」このように述べて、氏は、検察側が証言台に立たせた証人と、南京事件の口述書類等を並べ、読者に紹介します。ご覧の通り、米国人がメインです。

    〈  証言台に立った、南京事件の証人 〉

     1. 米人牧師 ジョン・マギー

     2. 米人医師 ロバート・ウイルソン

     3. 金陵大学米人教授 マイナー・ベイツ

     4. 中国人  許伝音、尚徳義、梁廷芳、五長徳、陳福實

 中国人は米国人証人と異なり、一括りで記載されています。不公平感がありますが、米国人の証人に比べれば悪辣さが小さかったため、氏がそうしたのでしょうか。

    〈  南京事件の宣誓口述書 〉

     1. 米人ジョージ・フィチの宣誓口述書

     2. 米人ルイス・スミス博士の宣誓口述書

     3. トーマス・モロー大佐が、裁判直前に南京へ飛び集めてきた、8通の宣誓口述書

     4.  他、数十名の中国人の宣誓口述書

    〈  南京事件の証拠書類 〉

      1. 南京地方院検察署 敵人罪行調査委員会による、調査報告書

      2. 東京裁判への証拠提出のため設立した機関による、調査報告書

       合わせて、66通に上る調査報告書

  これを見ますと、かなり付け焼き刃な証拠書類の作成だったことが見えてきます。「南京事件は、捏造だった。」という何よりの証明になりますから、著作に入れた理由が分かります。

 スペースの関係で、本日はここまでとします。

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南京事件の総括 - 6 ( 堤防を崩壊させる、蟻の一穴 )

2019-01-15 18:49:44 | 徒然の記

  本日は6回目、第4章の書評です。この著書は、いわば田中氏の遺書です。

 松井大将の名誉を回復したいと願う氏に共感し、願いを少しでも広められたらと、そんな気持ちになっています。

 「ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルクの裁判所条例 を、そのまま東京で真似たものの、」「日本にはヒトラーはおらず、ナチスのような独裁政権もなく、日本は立憲君主国で議会も機能していた。」

 「起訴状にある、昭和3年から敗戦の20年までの17年間、」「内閣は、16回交代している。」「その理由は、主として閣内の意見不一致によるものである。」

 「しかるにキーナン以下の検察側は、」「28人の被告の全面的共同謀議により、侵略戦争が計画され、準備され実施されたという法理論を打ち立てた。」

 被告人の一人であった荒木陸軍大将が、法廷で次のように述べました。

 「この被告席にいる28名の中には、会ったことも、言葉を交わしたこともない人間が半分ほどいる。」「顔も知らず、会ったこともない人間と、どうして共同謀議などできようか。」

 結論の決まっている裁判ですから、清瀬弁護人の動議と同様、正論は皆却下されます。東条内閣で大蔵大臣を務め、戦時経済を指導した賀屋興宣氏が、釈放後に語っています。 

 「ナチスとともに17年間、超党派で侵略計画を立てたと、言いたかったのだろうが、そんなことはない。」「軍部は、突っ走るといい、政治家は、困ると言い、北だ、南だと、国内はガタガタで、」「おかげで、ろくに計画もできないまま、戦争になってしまった。」「それを共同謀議など、お恥ずかしい話だ。」

 談話を知る田中氏が、次のように述べています。

 「満州事変から、大東亜戦争までの国情は、賀屋元蔵相の言う通りであった。」「陸軍の中でさえ、皇道派だ統制派だと言って争っており、」「陸軍と海軍の間にも、確執があり、」「加えて血盟団事件、5・15事件、2・26事件など、血なまぐさい、テロの嵐が吹き荒れ、政党政治は腐敗混乱し、ついに崩壊している。」

 「検事側の言う共同謀議による中国侵略や、」「対米戦争の開始といったシナリオが、いかにナンセンスなものであるかは、昭和史を一瞥すれば歴然たるものがある。」

 忿懣やる方のない叙述ですが、息子たちに言います。戦争に負けると、負けた国は何をされても一言も返せない状況に置かれます。

 「しかるに、東京裁判の多数判決は、松井元大将と重光元外相の二人を除く、」「後の東条元首相以下13人を、存在しない〈全面的共同謀議〉という罪名によって、処断したのである。」

 こんな裁判で裁かれ、どうして「日本だけが間違った戦争をした」と言えるのでしょう。「日本が反省すれば、世界は平和になる」と、そんな意見が何処から出てくるのでしょう。

 息子たちに言います。反日左翼の政治家とお花畑の活動家たちの言葉を、ここで確認してください。

 「しからば、人道に対する罪はどうか。」「日本には、アウシュビッツはない。」「組織的計画的に、捕虜や一般人を、大量に殺害したという記録は何処にもない。」「そこで、彼らが持ち出したのが、南京虐殺事件である。」

  南京事件に関する氏の意見ですが、「東京裁判がなければ、南京事件は作られなかった。」と、私も同じ考えをしています。

 しかし現実には、この作り話を信じる人間がいます。そうでなく、アメリカに買収され協力している人間たちです。大学教授、学者、文化人が、反日マスコミに顔を出し、著名な肩書きで国民を騙しています。朝日新聞が捏造した「慰安婦問題」と同じ構造で、それが反日左翼たちの生計の糧となっています。

 アメリカの中にいる反日勢力と、中国政府と反日日本人の共同作業ですから、「南京問題」は一筋縄でいきません。頑強な堤防を蟻の一穴が崩壊させたように、小さな、穴掘りの努力を続けていくしかありません。

 田中氏のその小さな努力がこの著作ですから、襟を正して読みます。

 「ヒトラーが企てた、世界制覇のための侵略戦争。」「これを日本に当てはめたのが、全面的共同謀議という虚構であり、」「アウシュビッツに匹敵する非人道的な大量虐殺、これが南京虐殺という構図である。」

 立ちはだかる堤防に向かい、穴を掘っている氏の姿を見ながら今回はここで終わります。次回からは、蟻の穴掘り作業に参加します。

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南京事件の総括 - 5 ( 事後法で裁いた、復讐裁判 )

2019-01-15 07:57:42 | 徒然の記

 田中氏の著書でドイツの被告が22名と書かれ、別の情報では24名となっていました。確かめますと、審理中に死亡した2名が 全体数から除外されていることが分かりました。

 戦犯として裁かれた人数のみを、以下紹介します。

            日本         ドイツ

   死  刑      7  名                     12 名

   終身刑       16                           3

     有期刑         2                           4

     病  死      2                           2

     無罪・訴追免除   1  [計 28名]        3      [計 24名]

  [ 注 ]  総統アドルフ・ヒトラー、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス、SS全国長官ハインリヒ・ヒムラーは自殺しており、起訴することが不可能でした。

 ドイツとの比較を考えながら、氏の著書へ戻ります。

 「昭和20年12月、モスクワに集まった、米、英、ソの3カ国会議で、」「ナチス・ドイツの残党同様、日本のA級戦犯を、国際軍事裁判にかけ、処断することを決定した。」

 「これにより、マッカーサー元帥が、判事・検事の任免権、および減刑権を含む、最高指揮権を掌握し、裁判を統括することとなった。」

 「昭和58年に来日した、オランダ代表判事だったレーリング博士によると、」「マッカーサーは東京裁判よりも、真珠湾をだまし討ちした東条一味に復讐することと、」「自分をフィリピンで敗北させ不名誉な敗走を余儀なくさせた、」「本間雅晴中将に対する復讐について熱心であったという。」

 裁判の形は大掛かりで、厳粛に見えますが、実際には「復讐裁判」でしかなかったと、氏も私と同じ見方をしています。

 「本間中将は、裁判開始後、わずか2ヶ月で処刑されている。」「この裁判の判事も検事も、マッカーサーの部下を指名するという、リンチ ( 私刑 ) にも等しい処刑であった。 」

 これに関しては、中将夫人の富士子氏について逸話が残っています。フイリピン派遣軍総司令官だった本間中将は、フイリピンの軍事法廷で裁かれ、夫人が最終証人として出廷しました。和服姿の夫人は、次のように述べたと言われています。

 「私は、東京からここへ参りました。」「私は今も、本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。」

 「私は夫本間に感謝しています。」「娘も、本間のような男に嫁がせたいと思っています。」「息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。」

 「私が本間に関して証言することは、それだけです。」

 通訳を介して夫人の言葉が伝えられると、法廷からはすすり泣きが聞こえ、米国検察官のなかにも涙を拭く者がいたと言われています。

  「戦友眠る  バタンの山を眺めつつ  マニラの土となるもまたよし」

 本間中将の辞世の句です。

 次の氏の説明は多くの人が知っていますが、息子たちは知らないはずですから紹介しておきます。

 「彼らがA級戦犯被告の28名を、起訴したのは昭和天皇の誕生日でした。」「昭和21年4月29日です。」「東条以下7名が絞首刑に処せられたのは、皇太子殿下 ( 今上陛下 ) の誕生日である、昭和23年12月23日だ。」「最も聖なる日にキリストを磔 (はりつけ ) の刑にした故事にならった、文字通りの復讐裁判であった。」

 さらに氏が、東京裁判の根本的な欠陥を指摘します。これも多くの人が知っていますが、息子たちは知らないはずですから転記します。

 「いまだかって聞いたこともない、平和に対する罪、人道に対する罪などという、」新しい法概念を打ち立てて、その法によって裁いたのが東京裁判である。」「文明国が等しく掲げている罪刑法定主義を無視した、法なき裁判を強行したのが東京裁判である。」

 「清瀬弁護人は、この点をとらえ、法の不遡及は法治国家の鉄則であり、」「本条例は、これを犯すものであるとし7つの動議を掲げ、開廷早々法律論で挑んだ。」「これに対し裁判所は、理由を述べないまま動議を却下した。」

 不都合な動議や資料は説明なしに却下するという、東京裁判のいびつさが、ここから始まります。結論ありきの裁判劇につきましては、氏の本に従い次回から紹介します。

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南京事件の総括 - 4 ( 「東京裁判」の仕組みと全体像 )

2019-01-14 08:11:51 | 徒然の記

 今回は、田中氏が説明する「東京裁判」の仕組みと全体像です。

 「このような、占領軍による恐怖政治の嵐の中で、昭和21年5月3日 午前11時20分、市ヶ谷の、旧陸軍士官学校講堂において、国際東京軍事裁判が開かれた。」

 「約200人のA級戦犯容疑者の中から、28人が選び出され、」「27億円の裁判費用は、当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。」

  「判事は、連合国のうちイギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソ連の7カ国と、」「イギリス連邦の自治領であったオーストラリア、ニュージランド、カナダ、」「そして当時、独立のブロセスにあったインドとフィリピンが、派遣した。」「検事もまた、同じ国から派遣された。」
 
 「裁判長は、オーストラリア代表判事のウエッブ、主席検事は、アメリカのキーナンで、」「マッカーサーがこの裁判を主催し、裁判の法的根拠となった極東国際軍事裁判所条例の発布、」「および判事、検事の任命も、彼の手によって行われた。」

  後年になり裁判長のウエッブや主席検事キーナンの横暴さが、日本人の間で論争されますが、私に言わせれば、そのような議論は無意味です。ウエッブもキーナンも、道端に転がっている石コロみたいな役割です。肝心なことは、偏見に満ちた日本蔑視の判事と検事の任免権を、一手に握っていたのがマッカーサー元帥だったという事実です。

  「マッカーサーが主宰する裁判だった」と、田中氏が説明しているように、東京とアジア各地での裁判は、マッカーサー元帥による「復讐裁判」でした。

 彼は、フイリピンから自分を追い出した日本軍に、烈しい敵意を持っていました。マレーの虎と言われ、猛将の名で知られていた山下奉文大将を、まるで一兵卒のように、囚人服のまま絞首刑にしたのもその一例です。

  元帥の父アーサー・マッカーサーは、フィリピンの初代軍政総督でしたから、さらに日本軍を憎悪して理由になります。彼にとって東京裁判は、母国アメリカへの忠誠心を示すものであると同時に、復讐を実現する絶好の機会でもあったという気がします。
 
 「敗戦国の指導者を、戦勝国が軍事裁判にかけ処刑するということは、かって歴史に、」「その例を見ないことであった。」
 
 「第二次大戦後、戦後処理を巡って、英、米、仏、ソの、4大国の代表が集まり、」「ヒトラーがひきいたナチス・ドイツの、傍若無人の侵略性と、凶暴性を、将来の見せしめのため、どう断罪すべきかについて協議した。」「戦勝した4大国は、次の2点に関し意見の一致をみた。」
 
    1.    独裁者ヒトラーが一握りのナチス指導者と共に、世界制覇の野望を遂げるため、近隣諸国をむやみに侵略し領土や財物を強奪するなど、暴虐の限りを尽くした。
 
            これは断じて許しがたいことである。将来の平和のため、断固として裁判にかけ処罰すべきである。
 
  2.      アウシュビッツに殺人工場まで作って、ユダヤ人狩りを行い、600万人という大量の人間を、大掛かりな組織のもとに、計画的に殺害した。このような非人道的な行為は断じて許すことができない。
 
 次に続く田中氏の説明は、息子たちに伝えたい重要な事実です。
 
  「四カ国の合意により、ニュルンベルクに国際軍事裁判所が設けられ、」「ナチス・ドイツの首脳を、裁判にかけ、」「処刑することになった。」「この裁判を行うため、従来の戦時国際法にはない、平和に対する罪と、」「人道に対する罪の、二項目が設けられた。
 
 「ニュルンベルク国際軍事裁判条例 が作られ、これにより、リッペンドロップ以下ナチス・ドイツの戦犯が処刑された。」「22人の被告のうち、死刑12人、終身刑3人、有期刑4人、無罪3人であった。」
 
  ニュルンベルク裁判については別の数字がありますので、正確な説明をするため今回はここで止めます。
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