今回は、田中氏が説明する「東京裁判」の仕組みと全体像です。
・このような、占領軍による恐怖政治の嵐の中で、昭和21年5月3日 午前11時20分、市ヶ谷の「旧陸軍士官学校講堂」において、「国際東京軍事裁判」が開かれた。
・約200人のA級戦犯容疑者の中から、28人が選び出され、27億円の裁判費用は、当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
・判事は連合国のうち
イギリス アメリカ 中華民国、
フランス オランダ ソ連 の6カ国と、
・イギリス連邦の自治領であった
オーストラリア ニュージランド カナダ、
・そして当時独立のブロセスにあった
インド フィリピン
が派遣した。
・検事もまた、同じ国から派遣された。
・裁判長は、オーストラリア代表判事のウエッブ、
主席検事は、アメリカのキーナンで、
・マッカーサーがこの裁判を主催し、裁判の法的根拠となった「極東国際軍事裁判所条例」の発布、および判事、検事の任命も、彼の手によって行われた。
後年になり裁判長のウエッブや主席検事キーナンの横暴さが、日本人の間で論争されますが、私に言わせれば、そのような議論は無意味です。ウエッブもキーナンも、道端に転がっている石コロみたいな役割です。
肝心なことは、偏見に満ちた日本蔑視の判事と検事の任免権を一手に握っていたのがマッカーサー元帥だった、という事実です。
「マッカーサーが主宰する裁判だった」と、田中氏が説明しているように、東京とアジア各地での裁判は、マッカーサー元帥による「復讐裁判」でした。
彼は、フイリピンから自分を追い出した日本軍に、烈しい敵意を持っていました。マレーの虎と言われ、猛将の名で知られていた山下奉文大将を、一兵卒のように扱い、囚人服のまま絞首刑にしたのがその実例です。
元帥の父アーサー・マッカーサーは、フィリピンの初代軍政総督でしたから、元帥がさらに日本軍を憎悪して理由になります。元帥にとって「東京裁判」は、母国アメリカへの忠誠心を示すものであると同時に、復讐を実現する絶好の機会でもあったという気がします。
・敗戦国の指導者を、戦勝国が軍事裁判にかけ処刑するということは、かって歴史にその例を見ないことであった。
・第二次大戦後、戦後処理を巡って、英、米、仏、ソの、4大国の代表が集まり、ヒトラーがひきいたナチス・ドイツの傍若無人の侵略性と、凶暴性を、将来の見せしめのため、どう断罪すべきかについて協議した。
・戦勝した4大国は、次の2点に関し意見の一致をみた。」
1. 独裁者ヒトラーが一握りのナチス指導者と共に、世界制覇の野望を遂げるため、近隣諸国をむやみに侵略し領土や財物を強奪するなど、暴虐の限りを尽くした。
これは断じて許しがたいことである。将来の平和のため、断固として裁判にかけ処罰すべきである。
2. アウシュビッツに「殺人工場」まで作ってユダヤ人狩りを行い、600万人という大量の人間を、大掛かりな組織のもとに計画的に殺害した。このような非人道的な行為は断じて許すことができない。
次に続く田中氏の説明は、息子たちに伝えたい重要な事実です。
・四カ国の合意により、「ニュルンベルクに国際軍事裁判所」が設けられ、ナチス・ドイツの首脳を裁判にかけ、処刑することになった。
・この裁判を行うため、従来の戦時国際法にはない、「平和に対する罪」と、「人道に対する罪」の二項目が設けられた。
・ニュルンベルク国際軍事裁判条例 が作られ、これによりリッペンドロップ以下ナチス・ドイツの戦犯が処刑された。
22人の被告のうち、
死刑 12人 終身刑 3人、
有期刑 4人 無罪 3人 であった。
ニュルンベルク裁判については別の数字がありますので、正確な説明をするため今回はここで止めます。