ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

南京事件の総括 -15 ( 賀屋興宣氏の言葉 )

2019-01-21 13:42:10 | 徒然の記

 田中氏の目的は、キーナン主席検事が取り上げた資料や証言に関する、事実の真偽と数字への反証です。

 しかし私はそれらを割愛し、事件の周辺状況を紹介しました。理由は、前に述べた通りでした。

 「東京裁判に関する、アメリカとマッカーサーの目的を知れば、細かな数字を検証すること自体が無意味だ。」

 田中氏の意思に沿わないのかも知れませんが、一連のブログで、「南京事件の事実は明らかにされた。」と考え、今回で書評を終わりたいと思います。

  終わるにあたり、賀屋興宣氏の言葉を紹介ます。いつ読んだ本かもう忘れましたが、石原慎太郎氏の著作で教えられました。賀屋氏の経歴は、次の通りです。

  「賀屋は明治22年に広島で生まれ、東大卒業後に大蔵省へ入り、」「近衛内閣と東条内閣で、大蔵大臣を務めた。」

 「東京裁判でA級戦犯となり、巣鴨刑務所で10年間服役し、」「昭和35年に、岸信介氏たちと共に赦免され、」「池田内閣で法務大臣になった。」

 「その後、日本遺族会の会長を務め、昭和52年に88才で没した。」「政治家は誰もが勲章好きだが、氏は身を律することに厳しく、叙位・叙勲の全てを辞退している。」

 あまり人を褒めない石原真太郎氏が、氏を評価していましたので興味を持ちました。おぼろげな記憶ですが、石原氏りの言葉を紹介します。

 「賀屋氏は、戦争前から戦争にかけて無類の財政能力を発揮したために、戦争犯罪人に仕立て上げられた。」「この人物は、私が今まで政界で眺め渡した限り、最も知的な人物だった。」

 「当時彼は左の陣営だけでなく、右側にも嫌われていた。」「この事実は、氏が左の人間のインチキを軽蔑していたように、大方の右も、いい加減なものでしかなかったということの証拠だ。」

 私が注目したのは、石原氏が東京裁判への法的疑義を口にした時の、賀屋氏の返事です。鮮明な文字として心に刻まれています。

 「でもね、勝った者が、勝って奢って、負けた者を裁くのは、当たり前じゃありませんか。」「個人にせよ、国家にせよ、人間のやることは、所詮いい加減なものですよ。」「万が一、我々が勝っていたら、もっと無茶な裁判をやったでしょうな。」

 この答えを得て石原氏が、「冷静に、物事の本質を見通している」と、感心していたのをおぼえています。

 占領軍により、軍国主義者の一人としてA級戦犯にされ、10年間も刑務所にいた賀屋氏の言葉です。東京裁判の不条理を体験しながら、恨みの一言も言わず自己弁護もしていません。一方では、復讐劇でしかない東京裁判の判決を、金科玉条として押し頂き、日本批判を展開して恥じない人間たちがいます。

  息子たちに言います。ブログの第一回目で、南京記念館を尋ねた政治家について説明しました。参考のため、父はその叙述をもう一度、ここに転記します。 

 平成30年6月24日に福田康夫元首相が、中国江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」( 正式には、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 ) を、訪問しました。中国共産党の機関紙「人民日報」が、この様子を大きく報じました。

 福田氏は犠牲者に花輪を手向け、黙とうを捧げるなど一連の行事を終えた後、記者団に語りました。

 「日本人は、もっと過去の事実を、正確に理解しなければならない。」「より多くの日本の政治家が記念館を訪れ、この歴史に触れてほしい。」「多くの日本人が、記念館を参観すべきだ。」

 氏は同館を訪れた日本の総理経験者として、4人目になります。先に訪ねている元総理経験者の名前は、村山富市、海部俊樹、鳩山由紀夫の各氏です。
 
  息子たちに言います。これが現在の日本の政治家です。主流の政治家でなく、亜流の亜流、国民の多くに軽蔑されている議員たちです。しかし笑って済ませられないのは、彼らが全員首相経験者だという事実です。彼らを選ぶバカな国民が、かくも多数存在しているという日本の現状です。
 
 愚かしい元総理たちに、賀屋氏の言葉を聞かせてやりたくなります。  

 「でもね、勝った者が、勝って奢って、負けた者を裁くのは、」「当たり前じゃありませんか。」「個人にせよ、国家にせよ、人間のやることは、所詮いい加減なものですよ。」

  氏が私たちに語っているのは、東京裁判にいつまでもとらわれるな、東京裁判を乗り越えなさいと、そういうことだと思います。いつまでも、アメリカや連合国を恨むのでなく、戦時のことは戦時のこととして、割り切るべしと、そういう思考です。
 
 連合国の統治が完了した時から、全ては日本の問題となりました。これ以後の政治の貧困と、反日左翼の跋扈、節操のないマスコミなど、他国のせいではありません。アメリカでも、中国、韓国・北朝鮮のせいでもなく、ぜんぶ私たち国民の責任と、そう考えるのが正しいのです。
 
 南京事件、慰安婦、徴用工と、過去を執拗に蒸し返し、針小棒大な捏造で、不毛な対立を煽り立て、自分の責任を忘れている恥知らずな国の真似は、間違ってもしてはなりません。賀屋氏がそれを教えています。
 
 息子たちに言います。いつかお前たちが父のブログを読んでくれる日のことを願いつつ、田中氏の著書に別れを告げます。
 
   書評につき合ってくださった方々にも、心からお礼を言います。
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南京事件の総括 - 14 ( 日本軍兵士の証言 )

2019-01-21 07:59:02 | 徒然の記

 南京事件に関する不合理な点を上げていくと、切りがありません。

 この機会に、他の事実も氏の遺書から紹介します。次の指摘も大きな問題提起ですが、世間は何の注意も払いませんでした。

 「戦火が南京に及んだ12月12日、多くの外国人記者はパネー号に乗り、南京を脱出した。」「南京に残った記者は、次の5人である。」

   1. ダーディン ( ニューヨーク・タイムズ )

   2. マクダニエル ( AP通信 )

   3. アーチポールド ( シカゴ・ディリーニュース )

   4. スミス ( ロイター通信とブリティシュニュース代理人 ) 

   5. アーサー ( パラマウントニュース映画 )

 虐殺があったとされる期間にこれらの記者が書いた記事は、日中兵士の戦闘や、衝突事件など、ほとんどが小さな一段ものの雑記事でした。

 「当時、中国のニュースを独占していた、ロイター、AP、UP、アブスなどといった大通信社の記者が、」「南京や上海に常駐していながら、アウシュビッツに匹敵するような、中国人の大量虐殺事件を、見過ごしていたなどということは、とうてい考えられない。」

 事件に関する特大ニュースも社説も無かった事実を指摘し、氏は、南京事件の捏造を訴えています。小規模な戦闘行為や、殺人事件があったとしても、裁判で語られるような大量殺人は無かったと、氏が語ります。しかしここで私は、「両論併記」を考え東京日日新聞の記者と、早大教授の主張を紹介します。二人は、南京虐殺を肯定しています。

  1. 鈴木次郎 東京日日新聞  ( 東京裁判が終わった後、南京での虐殺を見たと名乗り出た 。)

  「光華門に通じる道路の両側に、えんえんと続く散兵壕とみられる中は、無数の焼けただれた死体で埋められ、」「道路に敷かれた沢山の丸太の下にも死体があり、腕、足の飛び出している有様は、まさにこの世の、地獄絵図である。」

    2. 洞(ほら)富雄 早稲田大学教授 ( 自身の目撃した意見でなく、虐殺肯定派の証言に基づく主張。)

  「12月13日の、城内掃蕩後の惨状は、目を覆いたくなる体のものであった。」「南京の一部の城門近くで見られた、中国人の遺棄死体の状況はそんな、生易しいものでは無かった。」

 「日本軍はいく日もの間、通路の死体さえ、片づけようとしなかった。いや、なかなか片づかなかったのだ。」

 「それほど、おびただしい死体の数だった。」「そうした累々たる遺骸の上を、あるいは、山と積まれた遺骸の上を、軍用車が、情け容赦なく、踏みにじって通っていた。」

  今回まで日本人の証言の中から、南京戦に参加した下記軍人の意見を意図的に省略しました。事件当事者は不利なことを話さないと考え、ブログの公平さを考えそうしました。

 鈴木記者と洞教授の意見を読み、決めたルールを破り、土屋中隊長と西坂兵卒の証言を紹介することにしました。相反する証言なので驚かれるかもしれませんが、いずれかが嘘をついています。息子たちと、訪問された方々は、どうか自分で判断してください。

   1. 大西一(はじめ)大尉 上海派遣軍参謀

   2. 岡田尚(たかし)   松井司令官付き陸軍通訳官

   3. 岡田酉次少佐    上海派遣軍特務部員

   4. 谷勇大佐      第十軍参謀

   5. 吉永朴(すなお)少佐 第十軍作戦参謀 

   6. 金子倫介大尉    第十軍参謀

   7. 土屋正治      歩兵第十九連隊 第四中隊長

   8. 西坂中(あたる)   歩兵第三六連隊 兵卒

 〈  土屋正治 〉 ( 歩兵第十九連隊 第四中隊長 ) 

 「12月13日朝、光華門から先陣として進入して眺めると、」「城壁こそ、砲弾によって破壊されていたが街並みの家々は全く破損しておらず、瓦礫一つ落ちていない。」「ただ不気味な静寂、異様な寂寞感が我々を包み、勇敢な部下も、一瞬佇んだ。」
 
 「市街に深く進入するほど、まさに死の街という印象を強くした。」「敵弾の飛来もなく、人影一つ見えず、粛然とした街並みが、果てしなく続いていた。」「何キロくらい前進したであろうか。」「とある大きな、鉄筋コンクリートの建物に到達したが、ここで、思いがけないことに遭遇した。」
 
 「講堂らしい室内に入ると、重傷兵の枕辺に、白衣の多数の看護婦が毅然として立っていた。」「私たちは深く頭を垂れて、そこを退去した。」「戦闘を覚悟して入城したが、この日は無血の内に、夕刻を迎えた。」

  〈 西坂中 (あたる) 〉 (  歩兵第三六連隊 兵卒  )

  「光華門の城壁の一角を占領したが、たび重なる敵の襲撃を受けて、死傷者が続出し、悲惨な戦闘を続け、12日の夜を迎えた。」「ところが夜中に、敵の射撃がピタリと止まった。」「どうも、様子がおかしい。」「よくある、支那軍の退却パターンである。」

 「次の日城壁をよじ登って、夜明けの南京市内を見れば、各所に黒煙が上がるのみ、敵兵は、一人もいない。」「実に森閑たる、街の風景である。」「場内には、敵死体もなければ、ほとんど破壊の跡もなかった。」「問題は、城門の外や、城壁上である。」

 「部隊は直ちに戦場掃除に取りかかり、敵味方とも遺体を集め、友軍のものは荼毘に付し、敵の屍体は、ねんごろに埋葬した。」「福井県には門徒が多いので、兵隊の中で読経できる者を集めて、その夜は一晩中読経し、恩讐を超えて、読経したことを覚えている。」

  余計なコメントをせず、今回はここで終わりとします。

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