田中氏の目的は、キーナン主席検事が取り上げた資料や証言に関する、事実の真偽と数字への反証です。
しかし私はそれらを割愛し、事件の周辺状況を紹介しました。理由は、前に述べた通りでした。
「東京裁判に関する、アメリカとマッカーサーの目的を知れば、細かな数字を検証すること自体が無意味だ。」
田中氏の意思に沿わないのかも知れませんが、一連のブログで、「南京事件の事実は明らかにされた。」と考え、今回で書評を終わりたいと思います。
終わるにあたり、賀屋興宣氏の言葉を紹介ます。いつ読んだ本かもう忘れましたが、石原慎太郎氏の著作で教えられました。賀屋氏の経歴は、次の通りです。
「賀屋は明治22年に広島で生まれ、東大卒業後に大蔵省へ入り、」「近衛内閣と東条内閣で、大蔵大臣を務めた。」
「東京裁判でA級戦犯となり、巣鴨刑務所で10年間服役し、」「昭和35年に、岸信介氏たちと共に赦免され、」「池田内閣で法務大臣になった。」
「その後、日本遺族会の会長を務め、昭和52年に88才で没した。」「政治家は誰もが勲章好きだが、氏は身を律することに厳しく、叙位・叙勲の全てを辞退している。」
あまり人を褒めない石原真太郎氏が、氏を評価していましたので興味を持ちました。おぼろげな記憶ですが、石原氏りの言葉を紹介します。
「賀屋氏は、戦争前から戦争にかけて無類の財政能力を発揮したために、戦争犯罪人に仕立て上げられた。」「この人物は、私が今まで政界で眺め渡した限り、最も知的な人物だった。」
「当時彼は左の陣営だけでなく、右側にも嫌われていた。」「この事実は、氏が左の人間のインチキを軽蔑していたように、大方の右も、いい加減なものでしかなかったということの証拠だ。」
私が注目したのは、石原氏が東京裁判への法的疑義を口にした時の、賀屋氏の返事です。鮮明な文字として心に刻まれています。
「でもね、勝った者が、勝って奢って、負けた者を裁くのは、当たり前じゃありませんか。」「個人にせよ、国家にせよ、人間のやることは、所詮いい加減なものですよ。」「万が一、我々が勝っていたら、もっと無茶な裁判をやったでしょうな。」
この答えを得て石原氏が、「冷静に、物事の本質を見通している」と、感心していたのをおぼえています。
占領軍により、軍国主義者の一人としてA級戦犯にされ、10年間も刑務所にいた賀屋氏の言葉です。東京裁判の不条理を体験しながら、恨みの一言も言わず自己弁護もしていません。一方では、復讐劇でしかない東京裁判の判決を、金科玉条として押し頂き、日本批判を展開して恥じない人間たちがいます。
息子たちに言います。ブログの第一回目で、南京記念館を尋ねた政治家について説明しました。参考のため、父はその叙述をもう一度、ここに転記します。
平成30年6月24日に福田康夫元首相が、中国江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」( 正式には、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 ) を、訪問しました。中国共産党の機関紙「人民日報」が、この様子を大きく報じました。
福田氏は犠牲者に花輪を手向け、黙とうを捧げるなど一連の行事を終えた後、記者団に語りました。
「日本人は、もっと過去の事実を、正確に理解しなければならない。」「より多くの日本の政治家が記念館を訪れ、この歴史に触れてほしい。」「多くの日本人が、記念館を参観すべきだ。」
「でもね、勝った者が、勝って奢って、負けた者を裁くのは、」「当たり前じゃありませんか。」「個人にせよ、国家にせよ、人間のやることは、所詮いい加減なものですよ。」