ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

南京事件の総括 - 12 ( 世間での、南京事件論争紹介 )

2019-01-19 17:46:30 | 徒然の記

 氏の著書から、記者の証言の続きを紹介予定でしたが、書評を離れ、別途調べたことを報告しようと思います。参考になるのか自信がありませんが、氏の著書の証言だけでなく、世間では多くの人々が論争していたと、息子たちに伝えたくなりました。

 日本では昭和45年から「南京事件論争」というものが、幾つもありました。虐殺の有無や規模などを論点とした、長期にわたる論争ですが、日中関係が背景にあり、常に政治的な影響を受け続けました。

 発端は、昭和45年の本多勝一と山本七平氏の論争で、それ以後平成22年まで続き、今も結論が出ないままです。日本と中国の問題になっていますが、東京裁判での捏造が始まりですから、アメリカも深く関わっています。

 日本の政治家はもちろんですが、論争に関わったマスコミ、学者、評論家、文化人など、誰も結論が出せませんでした。この状況を見ますと、憲法改正問題に取り組む日本がそっくり重なります。

 つまり、依然として日本の国論が二分されたままであると言う状況です。事件解決の困難さを理解してもらうため、コメントなしで年代ごとの関連事件を列挙します。

 1. 昭和45年代

   本多勝一・山本七平( 鈴木明 )の論争

 2. 昭和55年代

   家永教科書裁判  

   楷行社出版『南京戦史』  

   朝日新聞による歩兵第23連隊報道

 3. 平成  2年代

    米中における対日賠償請求運動   

   天安門事件以降の中国における愛国主義教育

   永野発言 ( 海軍軍令部長 )      

   南京大虐殺57周年世界記念会議 ( 注: 論争が国際化し、再び日本における論争が、活発化した。)

  「つくる会」と歴史教科書     

   吉田・東中野論争(戦時国際法)

   写真誤用問題    

   東中野修道裁判  ( 夏淑琴 名誉毀損事件 )

 4. 平成12年代

   百人斬り競争裁判  

   中国ホローコスト博物館   

   英語圏での研究や論説

   日中歴史共同研究

 5. 平成22年代

   中国「全民族抗戦爆発77周年」   

   3.1 安部談話   

   抗日戦争勝利70周年式典

   南京事件ユネスコ記憶遺産登録    

   一八事変(満州事変) 85周年

  最後に、南京事件論争に関係した人物名を、大虐殺派・虐殺肯定派と、まぼろし派・虐殺否定派と中間派の三つに分け紹介します。

  1. 大虐殺派・虐殺肯定派

    家永三郎   井上久士   小野賢二   江口圭一   笠原十九司

   高崎隆治   姫田光義    藤原彰   洞富雄    本多勝一

   吉田裕    渡辺春巳

   2. まぼろし派・虐殺否定派

   松尾一郎   阿羅健一   藤岡寛次   黄文雄    鈴木明

   石平     田中正明   富澤繁信   東中野修道  藤岡信勝

   水間政憲   山本七平   渡部昇一   百田尚樹

   3. 中間派

    板倉由明   北村稔    櫻井よしこ  中村    秦郁彦
 
    原剛     山本昌弘
 
 大虐殺派については、次のような注釈がついています。

  1.   日本の研究者の場合、例えば笠原十九司の様に、11万9千人以上の犠牲者を主張するが、南京城内の民間人犠牲は1万2千人程度と主張し、主たる違法殺人は中国兵への殺人であるとする。」

    2.   30万人-20万人以上という数字を示すのは、次のような、中国人関係者のみである。

   中華人民共和国政府

   南京大虐殺記念館館長 

   孫宅巍  (学者。南京事件研究者) 

      アイリス・チャン  (  作家 )

 論点は数字にあるのでなく、東京裁判の目的や仕組みですから、数字にこだわる議論に疑問を持ちます。虐殺肯定派の日本人学者は、見ればわかる通り、反日左翼思想の持ち主です。

 この分類で行きますと、私は「まぼろし派・虐殺否定派」となりますが、次回からまた書評を続けます。

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南京事件の総括 - 11 ( 南京にいた、日本人記者たちの証言 )

2019-01-19 14:05:36 | 徒然の記

 今回は、最初から記者たちの証言を紹介します。

   7. 佐藤振寿 同盟通信映画部カメラマン

   「同盟通信の中では、虐殺というようなことは話題になりませんでした。」「その頃、敗残兵や、便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが、戦争だと思っていましたから。」
 
   8. 田口利介 報知新聞記者
 
   「虐殺については、当時聞いたこともなかったし、話題になったことも、ありません。」
 
   9. 細波孝 同盟通信無電技師
 
   「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも、死体はありました。」「中には、針金で、繋いだものもありました。」「さあ、どのくらいか、100人くらいでしょうか。湯山にいた、捕虜をやったのでしょう。」
 
   10. 小池秋羊 都新聞記者  ( 13日 入城)
 
   「城内はどの家も空き家で、物音一つしない、死の都市でした。」「犬猫の姿一つ見られず、不思議な妖気が漂い、街路は、激戦の後とも見受けられない、」「整然とした町並みで、びっくりしてしまいました。」
 
   「難民区は、敗残兵探しの時は、難民も動揺していましたが、一般に平静でした。」「食糧がなく、飢餓状態で、食べものをくれと、我々に縋りつく人も、いました。」「私たちの宿舎には、発見された米が何俵もありましたので、難民区クのリーダーを、宿舎に連れて行き、」「米や副食品などを、大八車二台分やりました。」「難民区には、六、七万人いたので、これでは九牛の一毛だったと、思います。」
 
 「虐殺されたものか、戦死者か分かりませんが、中央ロータリーのそばに、作りかけのビルがあり、この地下に、数体の死体がありました。」「それと、挹江門だったと思いますが、軍のトラックでここに行った時、車に何遍も轢かれ、煎餅のようになっていた肢体が、一体ありました。」
 
 「下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような、円形の造船所ですが、そこに、累々たる死体が、投げ込まれているのも、目撃しました。」「五体や十体でなく、何十体かあったと思います。」「これは、戦死体だと思います。」
 
 「当時南京で、虐殺の話を聞いたことはありません。」( 注 : なお、小池記者は、13日に中正路で火事を見た時、二台の車に分乗した外人記者が、しきりにカメラのシャッターターを切っていたと、重要な証言をしている。)
 
    11. 樋口哲雄 読売新聞技師
 
  「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました。」「日本軍による虐殺があったと言われていますが、だいいち、そういう形跡を見たことがありません。」「あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか、中山陵など荒らされていないし、綺麗でした。」「やらなきゃ、こっちがやられるから、やったのを、虐殺と言っているのだと、思います。」
 
   12. 金沢喜雄 東京日日新聞カメラマン
 
  「戦後、この時何万人かの虐殺があったと、言われていますが、不思議でしようがないのです。」「私は南京を、やたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ、聞いたこともありません。」「南京には、一ヶ月ほどいましたが、戦後言われているようなことは、見てもいなければ、聞いてもいません。」「虐殺があったと言われていますが、ありえないことです。」「松井大将が絞首刑になったのも、不思議でしようがないのです。」
 
   13. 森博 読売新聞上海特派員
 
  「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を、怖がってもいなかったと、思います。」「便衣隊がいましたので、逆に、日本兵の方が、中国人を警戒していました。」「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない。」「それで困ってやった、とも言っていました。」「下士官が、単独でやったと思います。」「分隊長クラスの、下士官です。」
 
   14. 二村次郎 報知新聞カメラマン
 
  「南京にいる間、大虐殺は、見たことがありません。」「戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出してみますが、どういう虐殺なのか、私の方が聞きたいくらいです。」「アウシュビッツのように、殺す場所がある訳でもないですからね。」「私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判のときです。」
 
   15. 田中正明 著者自身
 
  「実は私も、雑誌大東亜主義の従軍記者として、南京事件の翌年の、13年8月、」「南京を、一ヶ月に渡って視察し、9月から始まった漢江攻略戦に、林芙美子氏らと、武漢一番乗りの部隊と共に、入城した。」
 
 「大亜細亜協会会長の、松井大将から、その後の南京一帯の、治安状況や民心の動向などを、よく観察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。」「一従軍記者であったが、南京の特務機関長や、報道部長の、特別の便宜を受け、」「南京城内の戦場跡はもとより、湯水鎮、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。」
 
 「私が宿泊したのは、難民区の入り口付近の兵站宿舎だったが、まだ歩哨も立っており、良民証の点検も行われていた。」「難民区内は、露天商、マーケットなどが軒を並べ、活況を呈し、喧騒を極めていた。」「当時人口は、50万人近くに膨らみ、昔からの色街あたりは、日本人経営の料亭や、食堂の女性が、夜の南京の街を、浴衣姿で歩いている姿さえ見られた。」
 
 「東京裁判や、国際委員会の報告書等では、市街の三分の一以上が、日本軍の放火で、灰燼に帰したと告発しているが、これは全くの嘘で、」「下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街が意外と整然としていたのに、むしろ驚いたほどである。」
 
 「多くの従軍記者や、カメラマン、現地にいた日本人作家や詩人などが、口を揃えて言うごとく、」「南京大虐殺などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも、聞いたこともない、事件だったのである。」
 
 今回は、著者自身の証言で終わりますが、次回は、南京にいた作家や詩人などの証言を、紹介します。
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