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南京事件の総括 - 11 ( 南京にいた、日本人記者たちの証言 )

2019-01-19 14:05:36 | 徒然の記

 今回は、最初から記者たちの証言を紹介します。

   7. 佐藤振寿 同盟通信映画部カメラマン

   「同盟通信の中では、虐殺というようなことは話題になりませんでした。」「その頃、敗残兵や、便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが、戦争だと思っていましたから。」
 
   8. 田口利介 報知新聞記者
 
   「虐殺については、当時聞いたこともなかったし、話題になったことも、ありません。」
 
   9. 細波孝 同盟通信無電技師
 
   「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも、死体はありました。」「中には、針金で、繋いだものもありました。」「さあ、どのくらいか、100人くらいでしょうか。湯山にいた、捕虜をやったのでしょう。」
 
   10. 小池秋羊 都新聞記者  ( 13日 入城)
 
   「城内はどの家も空き家で、物音一つしない、死の都市でした。」「犬猫の姿一つ見られず、不思議な妖気が漂い、街路は、激戦の後とも見受けられない、」「整然とした町並みで、びっくりしてしまいました。」
 
   「難民区は、敗残兵探しの時は、難民も動揺していましたが、一般に平静でした。」「食糧がなく、飢餓状態で、食べものをくれと、我々に縋りつく人も、いました。」「私たちの宿舎には、発見された米が何俵もありましたので、難民区クのリーダーを、宿舎に連れて行き、」「米や副食品などを、大八車二台分やりました。」「難民区には、六、七万人いたので、これでは九牛の一毛だったと、思います。」
 
 「虐殺されたものか、戦死者か分かりませんが、中央ロータリーのそばに、作りかけのビルがあり、この地下に、数体の死体がありました。」「それと、挹江門だったと思いますが、軍のトラックでここに行った時、車に何遍も轢かれ、煎餅のようになっていた肢体が、一体ありました。」
 
 「下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような、円形の造船所ですが、そこに、累々たる死体が、投げ込まれているのも、目撃しました。」「五体や十体でなく、何十体かあったと思います。」「これは、戦死体だと思います。」
 
 「当時南京で、虐殺の話を聞いたことはありません。」( 注 : なお、小池記者は、13日に中正路で火事を見た時、二台の車に分乗した外人記者が、しきりにカメラのシャッターターを切っていたと、重要な証言をしている。)
 
    11. 樋口哲雄 読売新聞技師
 
  「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました。」「日本軍による虐殺があったと言われていますが、だいいち、そういう形跡を見たことがありません。」「あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか、中山陵など荒らされていないし、綺麗でした。」「やらなきゃ、こっちがやられるから、やったのを、虐殺と言っているのだと、思います。」
 
   12. 金沢喜雄 東京日日新聞カメラマン
 
  「戦後、この時何万人かの虐殺があったと、言われていますが、不思議でしようがないのです。」「私は南京を、やたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ、聞いたこともありません。」「南京には、一ヶ月ほどいましたが、戦後言われているようなことは、見てもいなければ、聞いてもいません。」「虐殺があったと言われていますが、ありえないことです。」「松井大将が絞首刑になったのも、不思議でしようがないのです。」
 
   13. 森博 読売新聞上海特派員
 
  「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を、怖がってもいなかったと、思います。」「便衣隊がいましたので、逆に、日本兵の方が、中国人を警戒していました。」「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない。」「それで困ってやった、とも言っていました。」「下士官が、単独でやったと思います。」「分隊長クラスの、下士官です。」
 
   14. 二村次郎 報知新聞カメラマン
 
  「南京にいる間、大虐殺は、見たことがありません。」「戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出してみますが、どういう虐殺なのか、私の方が聞きたいくらいです。」「アウシュビッツのように、殺す場所がある訳でもないですからね。」「私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判のときです。」
 
   15. 田中正明 著者自身
 
  「実は私も、雑誌大東亜主義の従軍記者として、南京事件の翌年の、13年8月、」「南京を、一ヶ月に渡って視察し、9月から始まった漢江攻略戦に、林芙美子氏らと、武漢一番乗りの部隊と共に、入城した。」
 
 「大亜細亜協会会長の、松井大将から、その後の南京一帯の、治安状況や民心の動向などを、よく観察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。」「一従軍記者であったが、南京の特務機関長や、報道部長の、特別の便宜を受け、」「南京城内の戦場跡はもとより、湯水鎮、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。」
 
 「私が宿泊したのは、難民区の入り口付近の兵站宿舎だったが、まだ歩哨も立っており、良民証の点検も行われていた。」「難民区内は、露天商、マーケットなどが軒を並べ、活況を呈し、喧騒を極めていた。」「当時人口は、50万人近くに膨らみ、昔からの色街あたりは、日本人経営の料亭や、食堂の女性が、夜の南京の街を、浴衣姿で歩いている姿さえ見られた。」
 
 「東京裁判や、国際委員会の報告書等では、市街の三分の一以上が、日本軍の放火で、灰燼に帰したと告発しているが、これは全くの嘘で、」「下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街が意外と整然としていたのに、むしろ驚いたほどである。」
 
 「多くの従軍記者や、カメラマン、現地にいた日本人作家や詩人などが、口を揃えて言うごとく、」「南京大虐殺などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも、聞いたこともない、事件だったのである。」
 
 今回は、著者自身の証言で終わりますが、次回は、南京にいた作家や詩人などの証言を、紹介します。
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