今回は、田中氏の著作の第4章の書き出しの部分を紹介します。
・マッカーサー元帥の、6年8ヶ月に及ぶ長期日本占領政策の究極の目的は何であったか。
・アメリカ統合参謀本部は、昭和20年8月29日、当時マニラにいたマッカーサーに、「伝令使」によって、有名な「第1号アメリカ政策文書」を伝達した。その第一部、究極の目的の項にはこう記されている。」
・日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること。
・すなわち、「日本弱体化政策」の使命をおびてマッカーサーは、厚木に降り立ったのである。
・彼は厚木に到着すると真っ先にソープ准将に、東条以下の戦犯狩りを指令した。
・これを受け、戦犯容疑者逮捕令が次々と発表され、A級戦犯の逮捕、監禁が始まった。
GHQの日本統治については、沢山の本が出されていますので、多少は知っていますが、マッカーサーが厚木到着後に最初にやったことが、ソープ准将への逮捕指令だったとは初耳でした。
アメリカ政府からの日本占領の「目的」が、こういう形で伝達されていたことも、初めて知りました。
・吹きまくる戦犯狩りの嵐の中で、敵軍の裁きを潔しとしない幾人かの軍人は、逮捕を前に自ら命を絶った。
杉山元陸軍元帥が、拳銃自殺し、
東条内閣の厚生大臣、小泉親彦軍医中将が続いて
文部大臣橋田邦彦博士が、服毒自殺し、
東条大将は、自殺未遂、
元関東軍司令官、本庄繁大将が割腹自殺を、
元首相公爵近衛文麿が、服毒自殺を遂げた。
・こうしてA級戦犯容疑者約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁された。
マッカーサー元帥への司令は「日本の完全な武装解除」という話でなく、二度と戦争ができない国とするため、何でもやれという全権委任だったことが分かりました。
・同時にB、C級戦犯約5,600名が、各地で逮捕、投獄された。
・彼らは、横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々、南方各地50数カ所の牢獄へ入れられ、簡単な軍事裁判にかけられた後、約1,000名が戦犯の名の下に処刑された。
・B、C級戦犯とは、主として捕虜の扱いに関する不法行為の摘発でした。B級戦犯は指揮・監督に当たった将校・部隊長を言い、C級戦犯は直接捕虜の取扱に当たったもので、主として下士官、兵、軍属である。
・捕虜の扱に関する上官による乱暴な命令や、態度、捕虜の置かれた環境の粗悪さなど、それらがあったことは事実であろう。
・しかし彼らを裁く裁判とは名のみで、」「ほとんど弁護人もなく、あっても形式だけで、甚だしきは、三、四回法廷に呼び出されただけで、死刑を宣告されるという杜撰な断罪が多かった。
・中には、人違いのまま処刑された者もあった。
・犯罪事実に至っては、懲罰のため食事を減じたという、ただそれだけで銃殺刑に処せられた兵もあった。
「東京裁判」においても、アジア各地で行われた「BC級裁判」においても、マッカーサー元帥の結論は最初から決まっていました。
「日本の軍人は、一人残らず処刑する。」
「将官であれ、兵卒であれ、容赦なく処刑する。」
連合国軍最高司令官として、元帥は次の本国の指令を忠実に実行したのです。
・日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること。
1. 巣鴨遺書編纂会による 『世紀の遺書』
2. 巣鴨法務委員会による 『戦犯裁判の実相』
3. 角田房子氏著 『責任 ー ラバウルの将軍 今村均』
4. 上坂冬子氏著 『残された妻 ー 横浜裁判BC級戦犯秘録』 『巣鴨プリズン13号鉄扉』
私はこの紹介本に、昭和61年に角川書店が出版した文庫本、『戦犯 ( 新聞記者が語り継ぐ戦争) 』全三巻を、追加いたします。読売新聞・社会部記者の共著です。同じ「社会部」という名前がついていても、共同通信社の「社会部」に比べますと、輝く水晶と石ころです。
5年前に『戦犯』を手にし、新聞記者には碌な奴がいないと常々口走る自分を恥じ、「中には、素晴らしい記者もいる。」と訂正しました。