共同通信社社会部編 (高橋宏氏著 )『共同通信社 社会部』に関する、最後のブログとします。平成の悪書の一冊であるこの本と今回でケリがつくと思うと、それだけでサッパリした気持ちになります。
313ページの本の284ページの部分ですから、あと少しです。「昭和の終焉」と題された、不謹慎極まる罰当たり記者の叙述を、紹介します。
「社会部のロッカーに、黄ばみ始めたノート20冊が保管されている。」「昭和63年9月19日の吐血から始まり、翌年1月7日の死去まで三ヶ月以上に及んだ、昭和天皇の闘病取材に当たった、宮内庁の張り番記者たちの日誌だ。」
「朝から晩まで秋の長雨と、真冬の寒さに耐えて、張り番に励んだ記者たちの記録だ。」「塀の中の付き人たちと、待ちの取材に疲れた恨みを皮肉たっぷりに示す落書きもある。」
皇室の私事の公表と同じように、外部に出す必要の全くない、自分たちの卑しい心根を恥じらいもなく叙述しています。
「闘病取材は、長期に及ぶ待ちの取材だった。ひたすら、〈Xデー〉を待つ。」「しかも、いつとの見通しもつかない。」
〈Xデー〉という言葉は、オウム真理教の本部への強制捜査の日が何時になるかとか、悪徳政治家の事務所へのガサ入れが何時になるのかなど、そういうときに使われます。昭和天皇がなくなられる日を、共同通信社の番記者たちはなぜこのような言葉で共有していたのでしょう。野次馬根性がいくら記者に不可欠の精神だからと言っても、この姿勢に国民が納得するのでしょうか。
危篤状態にある親を傍らに見ている時、果たして家族の者たちが、このように残酷に語れるものなのか。陛下は親ではありませんが、歴史の中で思い致せば、時には親のように「汝臣民」について、心を砕かれたことがありました。
大東亜戦争の開戦から、敗戦に至るまで、多少とも昭和史をかじった者なら、反日左翼の人間でない限り、昭和天皇の苦しまれた日々を心に留めています。その陛下のそばにいる記者たちが、いかにもその日が待たれるとでも言うように、忌まわしい〈Xデー〉と呼び合うなど、不謹慎極まる話です。
「この年の9月2日吐血する前、昭和天皇は那須御用邸で、記者会見した。」「植物学に造詣の深い天皇は、毎夏那須高原で、植物分類も兼ねて静養していた。」
「記者団と対面した天皇は、振り絞るような声で、風邪をひいて皆が心配したが、すっかり良くなったから、安心してもらいたいと、話した。」「声はかすれ、しばしば戸外の雨音にかき消された。ほほがこけ肩も落ち、痩せているのが、目立った。」「会見を終え、壁や戸につかまりながら、階段の向こうへ姿を消した。」
この乾いた文章には、弱られた陛下への労りの気持ちがありません。病を押して記者たちと会われた陛下のお気持ちへ感謝の念がカケラでもあれば、こんな文章を世間に出しません。むしろ陛下を大切に思う国民のためには、弱られたお姿の叙述は削除すべきものです。
「おそらくこの時も、微熱が続いていたのだろう。」「立っているのが、やっとという状態なのに、両手をピンと伸ばし、口をもごもごさせながら、必死に質問に答える姿には悲壮感さえ漂っていた。」「既にこの頃から、体調悪化の兆しはあったのだ。」
悪化の兆しどころか、この文章を読めば、ひどい体調であったと即座に分かります。ゴミ屑のような記者も「汝臣民」の一部ですから、昭和天皇はおろそかにされず、姿勢を正しお相手をされたのです。こうしてみますと陛下の病状の悪化を促進させたのは、この記者どもであったのではないでしょうか。
「天皇の死去は、政府にとっても最重要マターである。」「死去を受けての改元、それに続く大葬の礼など重要儀式が控えている。」「しかし渦中にいた、記者たちの思いは様々だった。昭和を象徴する一人の人間の最後と、それに伴う社会の激動をしっかり記録したい、そして、歴史の証人たり得たいという思いは、多かれ少なかれ誰もが持っていた。」
しっかり記録したい、歴史の証人になりたいと、野次馬記者の我欲は理解しても、文章を職業とするプロの誇りがあるのなら、大切な陛下への配慮がなぜできなかったのか。彼らはこの悪書を世に出すことによって、間違いなく日本の歴史に名を残します。「こんな馬鹿者たちが、陛下の番記者だった。」と。
文字を追いながら私が考えたことは、「共同通信社の記事」は、以後読みたくないと言うことでした。
そうなりますと、千葉日報の定期購読を止めなくてなりません。私が実行するのは、共同通信社との絶縁ですから、千葉日報ではありません。掲載された共同通信社記事だけを、「朝日新聞と同じく、日本に害をなす報道だ」と、読み捨てることにします。
私がこの本の中で最も怒りを覚えた文章を、息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々に紹介します。
「昭和天皇の死去をめぐって新聞各社は、昭和史の発掘でしのぎを削った。」「天皇の死を契機に、改めて昭和史の謎に迫るのが目的だった。」
「日中戦争や、それに続く太平洋戦争の開戦、敗戦、連合国による占領、」「その中で昭和天皇が、どのような発言をし行動したかは、戦後40年以上過ぎても、まだ未公表の点が多い。」
「社会部では昭和天皇の手術以降、宝探し班と名付けたチームを作り、太平洋戦争を挟んだ宮内庁関係者や、旧皇族らをリストアップし、生存者や遺族ら関係者にあたり、生の証言や、日記、写真など、資料を集めた。」
「政府に公開を求めていくことはもちろんだが、歴史の発掘者として、記者に何ができるか、今、それが問われている。」
自分の国を憎むことしか知らない、反日左翼記者たちのやることに、何の期待があるでしょうか。本多勝一、植村隆、加藤千洋など、かっての朝日の記者たちが、吉田清治の大嘘を特ダネにしたように、碌でもない捏造資料を手に入れ、反日運動の足しにしようと、そんな魂胆しか見えません。
昭和天皇のご逝去を、国民の一人として悼むこともせず、見当違いの「社会正義」に自己陶酔する高橋氏を、私は軽蔑するだけです。叙述はまだ続きますが、これで止めます。
新年早々歪んだ書物に触れていますと、心まで歪みます。爽やかだった晴天の正月を過ごしたのですから、これ以上不愉快になるのは止めます。
息子たちに言います。「共同通信社は、朝日新聞に劣らない反日左翼会社です。」「眉に唾して読みなさい。」
( もしも「ねこ庭」を、訪問されている方がおられましたら、お悔やみを申し上げます。)