ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

共同通信 社会部 - 6 ( 朝日に劣らない、反日左翼会社 )

2019-01-06 16:06:22 | 徒然の記

 共同通信社社会部編  (高橋宏氏著 )『共同通信社 社会部』に関する、最後のブログとします。平成の悪書の一冊であるこの本と今回でケリがつくと思うと、それだけでサッパリした気持ちになります。

 313ページの本の284ページの部分ですから、あと少しです。「昭和の終焉」と題された、不謹慎極まる罰当たり記者の叙述を、紹介します。

 「社会部のロッカーに、黄ばみ始めたノート20冊が保管されている。」「昭和63年9月19日の吐血から始まり、翌年1月7日の死去まで三ヶ月以上に及んだ、昭和天皇の闘病取材に当たった、宮内庁の張り番記者たちの日誌だ。」

 「朝から晩まで秋の長雨と、真冬の寒さに耐えて、張り番に励んだ記者たちの記録だ。」「塀の中の付き人たちと、待ちの取材に疲れた恨みを皮肉たっぷりに示す落書きもある。」

 皇室の私事の公表と同じように、外部に出す必要の全くない、自分たちの卑しい心根を恥じらいもなく叙述しています。

 「闘病取材は、長期に及ぶ待ちの取材だった。ひたすら、〈Xデー〉を待つ。」「しかも、いつとの見通しもつかない。」

 〈Xデー〉という言葉は、オウム真理教の本部への強制捜査の日が何時になるかとか、悪徳政治家の事務所へのガサ入れが何時になるのかなど、そういうときに使われます。昭和天皇がなくなられる日を、共同通信社の番記者たちはなぜこのような言葉で共有していたのでしょう。野次馬根性がいくら記者に不可欠の精神だからと言っても、この姿勢に国民が納得するのでしょうか。

 危篤状態にある親を傍らに見ている時、果たして家族の者たちが、このように残酷に語れるものなのか。陛下は親ではありませんが、歴史の中で思い致せば、時には親のように「汝臣民」について、心を砕かれたことがありました。

 大東亜戦争の開戦から、敗戦に至るまで、多少とも昭和史をかじった者なら、反日左翼の人間でない限り、昭和天皇の苦しまれた日々を心に留めています。その陛下のそばにいる記者たちが、いかにもその日が待たれるとでも言うように、忌まわしい〈Xデー〉と呼び合うなど、不謹慎極まる話です。

  「この年の9月2日吐血する前、昭和天皇は那須御用邸で、記者会見した。」「植物学に造詣の深い天皇は、毎夏那須高原で、植物分類も兼ねて静養していた。」

 「記者団と対面した天皇は、振り絞るような声で、風邪をひいて皆が心配したが、すっかり良くなったから、安心してもらいたいと、話した。」「声はかすれ、しばしば戸外の雨音にかき消された。ほほがこけ肩も落ち、痩せているのが、目立った。」「会見を終え、壁や戸につかまりながら、階段の向こうへ姿を消した。」

 この乾いた文章には、弱られた陛下への労りの気持ちがありません。病を押して記者たちと会われた陛下のお気持ちへ感謝の念がカケラでもあれば、こんな文章を世間に出しません。むしろ陛下を大切に思う国民のためには、弱られたお姿の叙述は削除すべきものです。

 「おそらくこの時も、微熱が続いていたのだろう。」「立っているのが、やっとという状態なのに、両手をピンと伸ばし、口をもごもごさせながら、必死に質問に答える姿には悲壮感さえ漂っていた。」「既にこの頃から、体調悪化の兆しはあったのだ。」

 悪化の兆しどころか、この文章を読めば、ひどい体調であったと即座に分かります。ゴミ屑のような記者も「汝臣民」の一部ですから、昭和天皇はおろそかにされず、姿勢を正しお相手をされたのです。こうしてみますと陛下の病状の悪化を促進させたのは、この記者どもであったのではないでしょうか。

 「天皇の死去は、政府にとっても最重要マターである。」「死去を受けての改元、それに続く大葬の礼など重要儀式が控えている。」「しかし渦中にいた、記者たちの思いは様々だった。昭和を象徴する一人の人間の最後と、それに伴う社会の激動をしっかり記録したい、そして、歴史の証人たり得たいという思いは、多かれ少なかれ誰もが持っていた。」

  しっかり記録したい、歴史の証人になりたいと、野次馬記者の我欲は理解しても、文章を職業とするプロの誇りがあるのなら、大切な陛下への配慮がなぜできなかったのか。彼らはこの悪書を世に出すことによって、間違いなく日本の歴史に名を残します。「こんな馬鹿者たちが、陛下の番記者だった。」と。

 文字を追いながら私が考えたことは、「共同通信社の記事」は、以後読みたくないと言うことでした。

 そうなりますと、千葉日報の定期購読を止めなくてなりません。私が実行するのは、共同通信社との絶縁ですから、千葉日報ではありません。掲載された共同通信社記事だけを、「朝日新聞と同じく、日本に害をなす報道だ」と、読み捨てることにします。

 私がこの本の中で最も怒りを覚えた文章を、息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々に紹介します。

 「昭和天皇の死去をめぐって新聞各社は、昭和史の発掘でしのぎを削った。」「天皇の死を契機に、改めて昭和史の謎に迫るのが目的だった。」

 「日中戦争や、それに続く太平洋戦争の開戦、敗戦、連合国による占領、」「その中で昭和天皇が、どのような発言をし行動したかは、戦後40年以上過ぎても、まだ未公表の点が多い。」

 「社会部では昭和天皇の手術以降、宝探し班と名付けたチームを作り、太平洋戦争を挟んだ宮内庁関係者や、旧皇族らをリストアップし、生存者や遺族ら関係者にあたり、生の証言や、日記、写真など、資料を集めた。」

 「政府に公開を求めていくことはもちろんだが、歴史の発掘者として、記者に何ができるか、今、それが問われている。」

 自分の国を憎むことしか知らない、反日左翼記者たちのやることに、何の期待があるでしょうか。本多勝一、植村隆、加藤千洋など、かっての朝日の記者たちが、吉田清治の大嘘を特ダネにしたように、碌でもない捏造資料を手に入れ、反日運動の足しにしようと、そんな魂胆しか見えません。

 昭和天皇のご逝去を、国民の一人として悼むこともせず、見当違いの「社会正義」に自己陶酔する高橋氏を、私は軽蔑するだけです。叙述はまだ続きますが、これで止めます。

 新年早々歪んだ書物に触れていますと、心まで歪みます。爽やかだった晴天の正月を過ごしたのですから、これ以上不愉快になるのは止めます。

 息子たちに言います。「共同通信社は、朝日新聞に劣らない反日左翼会社です。」「眉に唾して読みなさい。」

 ( もしも「ねこ庭」を、訪問されている方がおられましたら、お悔やみを申し上げます。)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同通信 社会部 - 5 ( 天下の悪書の一冊 )

2019-01-06 07:58:43 | 徒然の記

 今回も「平成の皇室」の続きです。不愉快なので、そのまま文章を転記します。

 「平成4年1月、天皇はブッシュ大統領を赤坂御所に招いて、ペアでテニスをしたり、3月には、ペルーのフジモリ大統領を、車に乗せて、御所内をドライブするなどのもてなしをした。」

 「公式行事でのやりというのは、とかく堅苦しくなりがちだから、家族的な雰囲気で暖かくもてなしたいという、両陛下の意向の表れだ。」

 今上陛下だけのお考えでなく美智子様とご相談の上と、ちゃんと説明してあります。これが皇室に吹く、新しい風です。

 「赤坂御所内で、時折、茶会が開かれる。」「立食形式で簡単なつまみと、飲み物が出される。」「天皇はジュースかチェリー酒だが、皇后はさっと日本酒のグラスを手にする。」「側近によると、ブランディーもお好きという。お酒は、強いようだ。」

 「その血は皇太子に継がれ、皇太子も特に日本酒に目がなく、弟の秋篠宮からうわばみと評されている。」「学習院大在学中、学友らとのコンペで飲みすぎ、一時意識を失ったエピソードもある。」

 私は取り立てて、尊皇の意識が厚い人間ではありません。頑迷保守の人のように、殊更かしこまったり、仰ぎ見るような気持ちもありません。ただ天皇は、遠い昔からご先祖様の心の中心におられ、荒武者の武家でさえ、不可侵の存在として接していました。なぜそうなったのか詳しくは知りませんが、何時からか私は、天皇の存在こそが日本の宝でないかと思うようになったのは、事実です。

 なんの意味があるのか、共同通信社の記者のように、このように取るに足りない事柄を公にする気持ちが理解できません。彼らに言わせれば、「人間らしい」とか、「微笑ましい」とか、そんな感想になるのでしょうが、私は苦々しい気持ちになるだけです。

  「天皇、皇后の新しい住まいとなる吹上新御所(仮称)は、半蔵門近くに建築中で、平成5年に、完成予定だ。」「現在の吹上御所には、皇太后が一人で住んでいるだけ。」「天皇一家は、元赤坂の赤坂御用地内に住み、天皇は公務のため週に二、三回、車で皇居に通勤している。」

 共同通信社には自社の出版物について、校正という手順がないのでしょうか。言葉遣いを知らない記者が、おかしな文章を書いたら修正したり、注意したり、そのようなことはしないのでしょうか。国民がすべて、皇室への礼節を欠いた愚か者でないことも知らないのか。それともこれが、高橋氏の言う「社会正義」なのでしょうか。

 天皇のお出ましを、こともあろうに「通勤」とは、とんでもない、通信社があったものです。

 「皇室取材の最前線、宮内記者会は宮内庁庁舎の二階にある。」「新聞、通信、テレビ、計15社が詰め、常勤、非常勤合わせて、その数585人。昭和天皇が死去した、昭和64年1月には、千人を超えた。」

 「皇室を取材する記者たちが、天皇、皇后、皇太子らに、直接取材できるのは、公式の記者会見だけである。」「春の植樹祭や、秋の国体に両陛下が出かけると、毎夕刻、その日の感想が出されるが、」「これは侍従が感想を聞き、それを発表する形式をとっている。肉声は、なかなか聞けない。」

 この本を読み終わったら、どうするのか。私はすでに決めています。5年前に、朝日新聞の記者本多勝一の著書、『中国の旅』を読み終えた時、フログに残した言葉を今も覚えています。

 「この本は生ゴミと一緒に袋へ入れ、ゴミステーションに打ち捨て清掃工場で灰にしてしまう。」「たとえそうしても、私の怒りは治まらない。」

 「昭和天皇の時代、記者会見という言葉は使わず、お会い、ご会釈、などとしていた。」「会見とは外国の元首など、天皇と対等の立場の場合に使い、記者とは、たまたま道で出会ったという形式をとる。」「記者が会見など、恐れ多いと言うわけだ。」

 まだあと一回、我慢してブログを書きますが、それ以後この本は、『中国の旅』同様の処置をします。

 「平成になってから宮内庁は、両陛下揃っての会見を、正式に記者会見と決めた。」「天皇の、意向に沿ったという。開かれた皇室への第一歩と見られたが、逆に回数は減った。」「昭和天皇は毎年、四月の誕生日のほか、夏の御用邸で、静養の折にも記者会見した。」

 今上陛下は即位後、誕生日前の一回に減らされ、美智子様は前の皇后様もされていなかったという理由で、誕生日前の記者会見を取り止められたと書かれています。

  「即位後初の記者会見で質問事項として、昭和天皇の戦争責任と大嘗祭のあり方を提出したが、宮内庁は難色を示した。」「このときは、最終的に記者会見側の主張が通ったが、天皇は、平和の大切さや、憲法の重要性を強調したものの、戦争責任については、答える立場にないと、した。」

 「国政に関する機能を有しないはずの、天皇のお言葉とは、いったい何なのだろう。」「昭和天皇の二回の外国訪問は、欧米で、日本の戦争責任についての外交的決着と受け取られ、ホワイトハウスでの、〈深く悲しみとする、あの不幸な戦争〉とのお言葉は、米国側に感銘を与えた。」

 「日本が侵略した、韓国、中国訪問が実現しても、お言葉が焦点になるのは、間違いない。」

  反日左翼の記者の意見は、どうせこのようなものでしょう。いったい日本が、いつ韓国を侵略したというのでしょう。第二次世界大戦で、韓国人は日本軍の一員として戦っており、韓国人の将軍が日本兵の指揮してもいました。

 日本の侵略という従来の意見も、米国やロシアでの資料が明らかになるにつれ、逆の見方が有力になっています。日本が侵略したのでなく、他国から泥沼の戦争へ追い込まれたという意見です。判で押したような記者の思考は、東京裁判で、連合国が押し付けた「東京裁判史観」から一歩も出ていません。

 陛下との会見で、「戦争責任」について質問するなど、日本人のすることでしょうか。東京裁判の不公正さについて、何度もブログにしてまいりました。戦後の日本が、米国の属国同様になったのは、この裁判がきっかけですから、この愚かしい共同通信社の記者に怒りを覚えます。ブログをここでやめるべきなのですが、毒を喰らわば皿までという気持ちで、あと一回続けます。

 この本は日本の歴史を汚し、国民の心を歪める天下の悪書の一冊です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする