今回は、東京裁判が南京事件をどのように判定したのか、氏が判決文を要約していますので紹介します。
・ 南京が占領された後、最初の二、三日の間に、少なくとも、一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が、無差別に殺害された。
・ 占領の一ヶ月の間に、約二万の強姦事件が発生した。
・ 一般人になりすましている中国兵を掃討すると称して、兵役年齢にあった中国人男子二万人が集団的に殺害された。
・ さらに捕虜三万人以上が、武器を捨て、降伏してから72時間のうちに虐殺された。
・ 南京から避難していた市民のうち5万7千人が、日本軍に追いつかれて収容された。彼らは飢餓と拷問に会い、多数の者が死亡し、生き残った者の内の多くは機関銃と銃剣で殺された。
氏の説明によりますと、判決文は南京事件の犠牲者を、12万7千人と見ているとのことですが、同じ判決の別の箇所で、次のように述べていると指摘しています。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、」「南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。」
総括判決の中で、二万人と言った強姦された婦人の数が、何千人へと変わり、殺害された人数は、20万人以上から、10万人以上と半減しています。氏は、一つの判決文の中に、異なる数字が三通り書かれている不合理を指摘しています。
異なる死亡者数を取り上げながら、総括判決とされていますが、判決なら基礎となる数字を確定させるはずですから、ウエッブ裁判長の杜撰さが見えます。
異なる犠牲者の数につき、述べた人物と捏造の根拠を、一つ一つ、氏が反証していますが省略します。他人から聞いた話でも、噂でも、証拠として採用すると裁判所が言い、集めた資料や証言ですから、紹介するだけ時間の無駄です。
最初に述べたように裁判そのものが、米国とマッカーサー元帥による復讐裁判ですから、数字の矛盾を検証すること自体が無意味な気がします。
法廷で証言台に立った証人の話と、宣誓口述書によりますと、当時の南京市街は、至る所足の踏み場もないほど虐殺された屍体が転がり、流れた血が道に流れ、歩くのにも難渋し、まさに阿鼻叫喚の状況だったとなります。
ここで私は、第1章に戻ります。書かれている氏の説明を読めば、裁判の嘘が判明します。
「鎌倉市より狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、約120人も占領と同時に入場し、取材に当たっているのである。」
「朝日、毎日、読売、日経など全国紙の支局や、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。」「朝日新聞の取材班は、約80名、毎日新聞は、約70名だった。」
氏がインタビューした新聞記者たちへ、話が紹介されています。
1. 原四郎 読売新聞上海特派員
「私が、南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して、三ヶ月後のこと。」「当時、軍による箝口令が、敷かれていたわけではないので、なぜ今頃、こんなニュースがと、」「各支局に確認をとったが、ハッキリしたことは、つかめなかった。」「また中国軍の宣伝工作だろう、というのが、大方の意見だった。」
2. 五島広作 東京日日新聞特派員
「自分が南京戦取材を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京で大虐殺があったらしいという、噂を耳にした。」「驚いて上海に支局を持つ、朝日や読売や同盟など、各社に電話を入れてみた。」「どの社も全然知らぬ、聞いたことも見たこともないという。」「おそらく敵さんの、例の宣伝工作だろうというのがオチだった。」
3. 橋本登美三郎 朝日新聞上海支局次長 (元自民党幹事長)
「南京事件ねえ。全然聞いていない。」「もしあれば、記者の間で、話に出るはずだ。」「記者は、少しでも記事になりそうなことは、互いに話するし・・。」「それが、仕事だからね。」「朝日新聞では、現地記者ばかり集めて座談会もやったが、あったのなら、そんな話がでるはずだ。」
4. 足立和夫 朝日新聞南京特派員
「私は、南京大虐殺なんて見ていません。」氏は、虐殺の目撃者として名乗り出ていた、同社の今井正剛記者についてはこう語った。
「あれは、自分で見て記事を書く人でなかった。」「人から聞いたことを、脚色するのがうまかった。」
5. 森山喬 朝日新聞南京特派員 今井正剛記者と南京で共に取材していた。
「そんな話は、ついぞ聞いたことがない。」
6. 佐藤振寿 東京日日新聞カメラマン
「虐殺は、見ていません。」「虐殺があったと言われますが、16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出ました。」「多くの中国人が、日の丸の腕章をつけて、日本兵の所に集まっていましたから、とても残虐な殺しがあったとは、信じられません。」
「南京事件について聞いたのは、戦後です。」「アメリカ軍が来てからですが、昭和21年か、22年頃だったと思います。」「NHKに、〈 真相箱 〉という番組があって、それで南京事件があったと知りました。」「その放送を聞いた時が、初めてだったと思います。」
記者たちの証言は、まだ続きます。120名も南京にいたのですから、彼らの話が、一番の証言となるはずです。東京裁判では、ウエッブ裁判長もキーナン首席検事も、彼らの証言を受けつけませんでした。マッカーサー元帥がマスコミの統制をしていたので、新聞もラジオも、彼らの証言を報道することは許されませんでした。
東京裁判から73年が経過し、 マッカーサー元帥も亡くなった今、記者たちの貴重な証言を、遠慮なく伝えることができます。
次回も、記者たちの証言の紹介から始めます。