■「 ぶらあぼ 」10月号の案内と、「 ゴルトベルク変奏曲 」への誤解■
2010・9・23 中村洋子
★月刊音楽情報誌 「 ぶらあぼ 」 10月号 173ページに、
私の出版楽譜:
≪ 無伴奏チェロ組曲 第 1番 ≫ Ries & Erler、 Berlin と 、
≪ 虹のチェロトリオ集 ≫ Musikverlag Hauke Hack 、Dortmund の
案内が、掲載されています。
★また、179ページには、「 カワイ表参道・パウゼ 」 で、
10月 8日 ( 金 )と、11月 16日 ( 火 )に、開催いたします
「 バッハ平均律 第 1巻 全曲アナリーゼ講座 」 の、
案内も掲載されており、どうぞ、ご覧ください。
10月は、「 平均律第 1巻 8番 」、
11月は、「 平均律第1巻 9番 」 です。
★10月の講座で、勉強します 「 平均律 8番 」 は、
日本で、人気の高い 「 ゴルトベルク変奏曲 」 と、
深い、関係にあります。
★ここ数日、改めて、 「 ゴルトベルク変奏曲 」 を、
勉強していますが、この曲につきましても、
前回のブログで書きました、フォルケル 「 バッハ伝 」 の、
「 功罪 」 の 「 罪 」 のほうが、
日本では、はびこり、誤解が横行しているようです。
★フォルケル (1749-1818) の、間違った記述を、
検証することもなく、孫引きし、
それをまた、孫引きするという繰り返しです。
★フォルケルの伝記での、問題の部分:
< コルトベルク変奏曲は、ザクセン選帝侯、カイザーリンク伯爵の
すすめによって、生まれた。伯爵は、ライプツィヒにお抱えのチェン
バロ奏者ゴルトベルクを連れてきて、バッハから音楽の教授を受けさ
せた。伯爵は病気がちで、当時不眠症に悩まされていた。ゴルトベル
クは、そのようなおり、控えの間で夜をすごし、伯爵が眠れないあい
だ何かを弾いて聴かせなければならなかった。あるとき伯爵はバッハ
に、穏やかでいくらか快適な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れよう
なクラヴィーア曲、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申
し出た。変奏曲というものは基本の和声が常に同じなので、バッハは
それまでやりがいのない仕事だと考えていたが、伯爵の希望を満たす
には変奏曲が最もよいと思ったのである。 ( 略 )バッハは、変奏
曲の模範としてこれ1曲しか遺さなかった。伯爵はその後この曲を
「私の変奏曲」と呼ぶようになった。彼はそれを聴いて飽きることが
なく、そして眠れぬ夜がやって来ると永年のあいだ、「ゴルトベルク
君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ」といいつけるのだった。バッ
ハは、おそらく、自分の作品に対してこのときほど大きな報酬を得た
ことはなかったであろう。伯爵は、ルイ金貨が百枚つまった金杯をバ
ッハに贈ったのである >
( 角倉一郎訳:バッハ小伝から抜粋 )
★この “不眠症の伯爵のために書かれた ” という、曲の由来は、
日本で発売されている、たくさんの 「ゴルトベルク変奏曲」 C D の、
ジャケット解説など、いろいろなところで、ご覧になったり、
ラジオ放送の説明などで、耳にタコができるほど、
お聞きになっている、ことでしょう。
★権威ある、イギリスの音楽事典
「 THE NEW GROVE Dictionary of MUSIC & MUSICIANAS 」
( 1980年版に基づく 1995年 paperback edition )は、
ゴルトベルクが、バッハの pupil ( 生徒 ) であったことは、
speculation ( 推測 ) 、としています。
★さらに、GROVEは、
カイザーリンク伯爵が、ゴルトベルクに演奏させようとして、
バッハにこの曲を依頼した、という由来についても、
疑問を列記しています。
①ゴルトベルクが極めて、若かったことと、
②ゴルトベルク変奏曲の楽譜に、 ≪ 献呈 ≫ の記載が、
なされていない点です。
★ゴルトベルクは、鍵盤楽器での初見演奏の能力に、
優れていたのは、間違いなかったようですが、
作曲の能力については、フォルケルが書いているように、
「 特別な才能はなかった 」 のかどうかは、不明なようです。
★ 「 クラヴィーア ユーブング 」 の 第 4巻として出版された
「 ゴルトベルク変奏曲 」 の序文には、年月が書かれていませんが、
出版は、1741年ごろで、
作曲は、1739年より前と、現在では、推測されています。
伯爵が、ゴルトベルク ( 1727~1756 ) に弾かせようと、
バッハに、依頼したとすると、
彼が、 12歳になる前、ということになります。
若すぎるという指摘が、妥当かもしれません。
★音楽の友社から出ています、ヴィーン原典版の、
ライセンス出版でも、ユゲット・ドレフュスが、前書きで、
「 伯爵の依頼による作曲説 」 に、疑問を呈しています。
★ 「 貴族からの委嘱作品にはやはり正式の献呈の辞を付けることが、
バッハの時代には習慣的であった 」。
「 バッハはこのきわめて要求の高い作品を直接チェンバロ奏者
ゴルトベルクのために書いたはずはおそらくなかったであろう 」。
( しかし、ドレフュスは、「 ゴルトベルクが1737年ごろから、
バッハの弟子であった 」 、と書いています。 )
★ 「 ドレフュスの前書き 」 には、また、残念ながら、
フォルケルの孫引きが、見られます。
≪ ヴァイマル時代のオルガンのための変奏曲以来、
おそらくフォルケルがあげた理由から、
バッハは変奏曲を書くことにもはや特別の興味は示さなかった ≫
と、ドレフュスは、書いています。
★ 「 フォルケルが挙げた理由 」 というのは、
「 変奏曲というものは基本の和声が常に同じなので、
バッハはそれまでやりがいのない仕事だと考えていたが、
伯爵の希望を満たすには変奏曲が最もよいと思ったのである 」
★ 「変奏曲は、やりがいのない仕事」 という、
フォルケルの言葉を、真に受け、
「変奏曲を書くことに、もはや特別の興味は示さなかった 」
としています。
★私は、この考え方には、大反対です。
私の講座をお聴きになった皆さまには、既に、
ご理解いただいていると、思いますが、
≪インヴェンション&シンフォニアと、
平均律クラヴィーア曲集 1巻を、
大きな変奏曲と、捉えてもよい ≫ くらい、
壮年期のバッハは、変奏曲を追求していたと、思います。
★バッハが出版した 「 クラヴィーア・ユーブング 」 の、
「 第 4巻 」 としての、 「 ゴルトベルク変奏曲 」 は、
バッハの鍵盤作品の集大成として、
最も、凝縮され、切り詰められたテーマで、
どれだけ、多彩な変奏を追求し尽くせるか・・・という、
バッハの挑戦であり、作曲の集大成が、
ここに、見られるのです。
★私には、ゴルトベルク変奏曲が、
“ 睡眠導入剤 ” になるとは、到底、思えません。
★インヴェンション 15曲と、
シンフォニア 15曲を合わせた 「 30曲 」 と、
ゴルトベルク変奏曲の 「 30曲 」 は、
偶然の一致では、ないのです。
★フォルケルの 「 やりがいのない仕事 」 という言葉は、
大変に、愚かしい言葉でしょう。
これは、「 ブクステフーデ 」 の作品を研究すれば、
分かることです。
★バッハが、ブクステフーデから、どれだけ大きな影響を、
受けていたか、如実に、分かります。
少年時代、鍵のかかった兄の書庫から、こっそりと抜き出し、
月明かりで、書き写した楽譜の一つが、このブクステフーデです。
★ この場合、月明かりで写譜したかどうか、果たして、
本当に、鍵がかけられていたかどうかなどは、
瑣末なことです。
エピソードとして、少々、出来過ぎな気もします。
要は、ブクステフーデを一生懸命、勉強していた、
ということが、重要なのです。
★「 バッハが、変奏曲を、やりがいのない仕事とは、断じて、
考えていなかったことと、ブクステフーデの作品との関係 」
についても、
10月の講座で、少し触れてみたいと思います。
★「 変奏曲 」 というものは、
主題による、各変奏への拘束力が、あまりに強すぎるため、
変奏曲の各曲を、個性的に、豊かに作曲するということは、
作曲家にとって、最高の腕の見せところとなります。
“ 最も、やりがいのある仕事 ” なのです。
★この例は、モーツァルト、ベートーヴェン、
ブラームスなどの、有名な変奏曲のテーマが、
一見単純で、しかし、実に、底知れぬ力強さを、
秘めていることからも、お分かりと思います。
後世の、彼らの手法の 「 源泉 」 が、
バッハの、この 「 ゴルトベルク変奏曲 」 なのです。
★作曲家にとって、最高度の難易度をもつ挑戦、
“ エヴェレスト登山 ” は、 「 変奏曲 」 なのです。
★私も、ことし6月、新作の 「 変奏曲 」 を、
ベッチャー先生に、ベルリンで、初演していただきました。
≪ YOKO NAKAMURA
Einleitung,Thema und Variationen über ein japanisches
„Erntelied“ ≫
≪ 日本の収穫の歌による、序奏とテーマ、変奏 ≫
http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/d/20100620
★ヨーロッパの、真の音楽愛好家の皆様は、
変奏曲の主題が、どのように変容していくか、
それを、聴き取り、楽しんでくださいます。
これこそが、本当の 「 音楽の楽しみ 」 です。
( 大犬蓼、柿のお菓子、雑草 )
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