音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■「森繁 久彌」さんと「萩原朔太郎」の「純情小曲集」、そして「西洋音楽」■

2009-11-22 19:56:16 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■
■「森繁 久彌」さんと「萩原朔太郎」の「純情小曲集」、そして「西洋音楽」■
               09.11.22      中村洋子


★ベルリンのベッチャー先生から、お手紙があり、

お孫さんのアントン君が、チェロのコンクールで、

1位に、なられたそうです。


★彼が弾いた曲のなかに、私の作品が入っていました。

「Marsch von drei Baeren jungen」 という曲で、

これは、私が本年(2009)5月に、ベッチャー先生にお送りしました、

チェロ三重奏のための≪曲集≫

「 Trios fuer drei jungen Cellisten 」の、

の中の、一曲です。



★11月10日、森繁久彌さんが、96歳でお亡くなりになりました。

森繁さんを追悼した、テレビ番組「徹子の部屋」で、

彼の過去の映像を、拝見しました。

その中で、萩原朔太郎の詩を暗誦している場面が、大変に心に残りました。

朔太郎の「純情小曲集」(1925年出版)にある、≪利根川のほとり≫でした。


★≪利根川のほとり≫

きのふまた身を投げんと思ひて/

利根川のほとりをさまよひしが/

水の流れはやくして/

わがなげきせきとむるすべもなければ/

おめおめと生きながらへて/

今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。

きのうけふ/

ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしとおもふうれしさ/

たれかは殺すとするものぞ/

抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。


★この詩は、全10行で、読点が二つしかありません。

バッハの「インヴェンション」と、同じように、

ほぼ、3分の2の場所に当たる「6行目」に、最初の読点。

詩の最初の頂点が、この6行目にあることが、

この読点から、分かります。

森繁さんは、この6行目

「今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。」まで、

一気に、朗読していました。

心地好いスピード感、しかし、重い内容。


★そして「7行目」で急に転調し、希望の光が差し込んできます。

「・・・わが身をばかくばかりいとしとおもふうれしさ」、

絶望の淵にたたずむことで、「死」への願望から、

一転して、「生」のいとおしさへと転化します。

湧き上がってくる創造意欲を、

「抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。」で、

暗示して、終わります。


★終結部の残り「4行」のうち、コーダに当たる「9、10行目」の、

9行目 「たれか殺すとするものぞ」で、

この詩を終えても、十分と思いますが、

「抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。」を、

加えることで、“死なないぞ”、“死んでたまるものか”と、

「生への意思のスパーク」を確認し、

未来の燃焼への、導線とします。


★この最終10行目は、音楽での「コーダ」の考えともいえます。

コーダとは、その前のところまでで、楽曲を終了しても、

構成上は、曲が成立しますが、

コーダがあることにより、さらに、曲の深みが増し、

最も主張したかったことが、コーダにある、

という、位置づけです。


★朔太郎が、この詩集を、「純情≪小曲集≫」とした意味が、

分かって、きました。

音楽にも造詣の深かった朔太郎が、西洋クラシック音楽の構造を、

詩の世界に移すことを、実験したのではないか、とも思えます。


★森繁さんが、この≪詩=曲≫を、暗誦していたことは、

ピアニストが、「インヴェンション」や、

「平均律クラヴィーア曲集」を、暗譜することと、

同じ意味があると、思います。

真に優れた芸術作品を、テキストなしで、

朗読、演奏できるということは、その作品を、

自分のなかに取り込んでいる、ということになります。


★森繁さんは、徹子さんとの会話の、自然な流れの中から、

この詩の朗読を、即興でなさったようです。

徹子さんが「若い頃、満州でいろいろ苦労されたことでしょう」と、

水を向けますと、

「満州で人の三倍、勉強した。それまでは劣等生だったけれど・・・」と、

森繁さんは、おっしゃっていました。

この詩に限らず、膨大な詩、名文を、森繁さんは暗誦し、

勉強されていた、ということは、間違いないでしょう。


★森繁さんのように、自然に即興で、口に出てくるまで、

繰り返し朗読し、暗誦しますと、

日々、作品のもつ新しい魅力が発見でき、

自然なリズムや、時間の流れ、頂点の作り方、

クライマックスはどこか、などが、身につき、

それが、自分の内部でのスタンダードとなり、

他の作品を見る際の、評価の基準ともなります。


★楽曲のように、この≪利根川のほとり≫を、分析しますと、

3行、3行、3行、それに1行のコーダを伴った

「三部形式」に、思えます。

声を出して、読んでみますと、

1行目:きのふまた身を投げんと思ひて/ 最後はteで、母音はe。

利根川のほとりをさまよひしが/ 最後はgaで、母音はa。

3行目:水の流れはやくして/ 最後はteで、母音はe。

わがなげきせきとむるすべもなければ/ 最後はgaで、母音はa。

5行目:おめおめと生きながらへて/ 最後はteで、母音はe。

音楽的です。


★3行ずつの纏まりとは別に、2行ごとに文末の母音を「e」に、

していることは、クラシック音楽の「同型反復 3回」の、

原則にも、当てはまります。


★朔太郎の年譜を、音楽との関係で、見てみます。

1886年    前橋で生まれる。
1893年  8歳、ハーモニカや手風琴をいつも手にしていた。
1911年 26歳、マンドリンを習い、東京では音楽会、オペラに盛んに通う。
1912年 27歳、上野音楽学校の入学試験を受けるため、楽曲の初歩を習う。
1912年    神田の女子音楽学校で、ギターを習う。
        同年、本格的に、詩作を志す。
1914年 29歳、「月に吠える」の冒頭の章を“噴出的”に書いた。
1915年 30歳、ゴンドラ洋楽会を組織し、指揮者となる。
1916年 31歳、ゴンドラ洋楽会の第一回試演会、
1917年 32歳、「月に吠える」自費出版 500部印刷。
1920年 35歳、「上毛マンドリン倶楽部」の演奏で、指揮をする。
1923年 38歳、「青猫」を出版。
1924年 39歳、1月と4月に高崎市と桐生市で、ギターとマンドリンを演奏。
1925年 40歳、2月「上毛マンドリン倶楽部」による
                「萩原朔太郎氏上京送別演奏会」
       8月「純情小曲集」を出版。
1934年 49歳、「氷島」出版。
1936年 51歳、「郷愁の詩人 与謝蕪村」を出版。
1942年 57歳、死去。


★朔太郎は、“本当は音楽家になりたかった”

のかもしれません。

しかし、当時の日本における音楽界の事情からしますと、

朔太郎が、十分なクラシック音楽の勉強を受けることができたか、

はなはだ疑問であり、通った音楽会のレベルも想像できます。

しかし、朔太郎は、その天才の嗅覚により、

自分が接した、わずかな西洋音楽の断片から、

その真髄を、誰よりも鋭敏に、自分なりの方法で、

吸い取っていた、ということでしょう。


★この≪利根川のほとり≫の文章は、ヨーロッパの詩人の影響も、

多大にあると思われ、いまひとつ、難解なところもありますが、

何度も何度も反復して読み、思い出し、暗誦しますと、

ある日、突然、雲が晴れるように、

完全に、理解できることがあることでしょう。

それは、バッハの音楽でも、全く同じです。


★来年から、カワイ表参道で開始します、

「平均律クラヴィーア曲集のアナリーゼ講座」では、

(第1回:1月26日(火)午前10時、第2回:2月18日(木)午前10時)

毎回、練習の仕方と同時に、どうやって、それを暗譜していくか、

バッハ以降の大作曲家が、音の時間の流れを、

バッハからどのように、汲み上げていったか、

詳しく、ご説明する予定です


                           (落ちた花梨の実)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■2声のインヴェンションを終... | トップ | ■「シンフォニア15番」の最も... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■」カテゴリの最新記事