音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■■ 「蝶々雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」に感動 ■■

2007-12-19 23:55:56 | ★旧・ とびきり楽しいお話
■■ 「蝶々雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」に感動 ■■~テレビや放送と「音楽」とのかかわりについて~
2007/1/9(火)


★皆さま、新しい年が巡ってまいりました。

本年こそは、平和で、人々が安心して生活できる世の中であって欲しいものですね。

このブログを始めましてから、間もなく一年となります。

ことしも、美しい音楽とともに生きることの喜び、幸せを

皆さまとご一緒に体験してまいりたいと思っております。


★お正月のテレビは、スイッチを押しても、新年恒例のスポーツや芸能人の隠し芸、

ドタバタのお笑い番組などが多く、なかなか見たいものがありません。

しかし、ケーブルTVの映画専門チャンネルで、感心する映画に出会いました。


★「蝶々雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」1965年の東映映画です。

脚本は依田義賢、マキノ雅弘監督の作品です。

「ミヤコ蝶々原案」となっていますところから、彼女の自伝に近い作品のようです。

1965年は、昭和40年、つまり、新幹線開通、東京オリンピックの翌年です。

室内の造作も木戸もすべて、まだ建具屋さんの手により、木で丹念に作られていた時代です。

下駄や草履の音が聞こえてくるようなこじんまりとしたお店、

商店街の町並みが、白黒の画像に美しく映えています。

懐かしさから、“ながら”で見ていましたが、途中から座りなおして画面に釘付けになりました。

蝶々さん、雄二さんだけでなく、登場する俳優すべてが名人ばかり、全部が飛び切りの芸達者。

話芸の極致といえるほど緩急自在な会話、寸分の隙なく練りこまれた演技の連続です。


★女性を見たら誰にでも「美人ですなー。わて、あんたが好きになりそうや。映画いかへんか」と、

ちょっかいを掛ける元板前の雄二、現在はヒモ稼業。

その姉さん女房が、法善寺横町で小さなお汁粉屋さんを経営する蝶々さん。

雄二が何度浮気しても、心底惚れ抜いている蝶々さんは、いつもいつも許してしまいます。

金、色、欲が渦巻き、どうしようもないようにもみえる世間ではありますが、

決してやりたい放題ではなく、それに蹂躙されるのではなく、

それほどのワルでもない、ちょぼちょぼの弱いもの同士が、助け合う。

いい面を見つめ合い、愛し合って生きていくことで、

なんとか平和に保たれているのが人の世です、と蝶々さんが、

映画の全編を通じて、愛情もって語りかけているかのようです。

チャップリンの映画に通じるものがあります。

寅さんの映画で、蝶々さんが、関西のラブホテル経営者として登場したことがあります。

寅さんを生んで、捨てて逃げた実の母親役としてです。

母恋しさに、捜し当てて来た寅さんを、冷酷に追い返すシーンは、記憶に残る名演技ですが、

この映画もそれに劣らず優れた演技に思えます。

小柄な蝶々さんが、大きく大きく見えます。

蝶々さんにプロポーズする金満家・柳家金語楼の切れのいい練れた話ぶりと、

歌舞伎の千両役者のような、歳を忘れさせる軽い身のこなし。

(金語楼は落語界で、最高の名人になれる人だったそうですが、突如転身したそうです)

板前の先輩である藤山寛美と茶川一郎による迫真のいじめとしごき、

「成金馬主」役の藤田まことや、中田大丸、ラケット、白木一郎等々、

いまさらながら、当時の関西の役者の名人ぶりを再認識させられました。

惹きつけられて、一時も目が離せませんでした。


★この映画の音楽のつけ方にも大変、好感をもちました。

ほとんど音楽らしい音楽が流れず、ヤマ場のシーンで効果音が入るだけ。

それが、とても新鮮に聞こえました。

それで十分です、必要な場面に最小限の音楽でいいのではないでしょうか。

だから効果があるのです。


★最近のテレビを見て、最も不快なことは、ニュースやドキュメンタリー番組にまで

絶え間なく、音楽もどきの騒雑音をバックに流していることです。

その音楽の質たるや、貧困としかいいようがない質の低さ。

どうして深刻なドキュメンタリーに、ポップやロック、ムード音楽、

コンピューターで作成した反復音などを執拗に入れる必要があるのでしょうか。

そういう音楽もどきしか、音楽的ストックをもたない人たちが作っているのでしょう。

飲食店、商店街でも、獣の叫び声のような騒音を、常時流している店が本当に増えております。


★なぜ、そのような事態になってしまったのかを考えてみますと、

「不必要な公共事業」と同じである、という結論に達します。

その恩恵はほとんどゼロ、あるいは、逆に被害さえもたらす。

その工事を施工するものだけが潤う世界。

ニュースにさえ、音楽をつけることを当然のこととし、

それが、利権になってしまっていますから、「不可欠な予算」として計上され続け、

それを切ることが出来ないところまで、来ているのでしょう。


★「蝶々雄二の夫婦善哉」が、お正月に、普通の民放でゴールデンアワーに

放映されたならば、どういうことになるでしょうか。

いまのテレビ番組に食傷している方、お年寄りなどが拍手を送り、

他の娯楽番組、スポーツ番組を“食ってしまう”ことは間違いありません。

高い視聴率を獲得するかもしれません。

そのような事態は、多分、絶対に避けたいのでしょう。

なぜなら、現在の娯楽番組に出演している「タレント」を、これからも売り込み、

宣伝することで、それに寄宿、寄生しているテレビ、芸能業界が潤う構図だからでしょう。

蝶々さん、金語楼の足元にも及ばない乏しい演技力でも、

そういう「タレント」をいつも、出演させ続ける必要がある世界なのでしょう。


★クラシック音楽でも同じことがいえます。

テレビ、ラジオに登場するのは、現存する演奏家、“新進気鋭”の若手です。

かつて一世を風靡した「帝王カラヤン」は、最近とんと登場させませんね。

ルービンシュタインやケンプなど真の芸術家の演奏を、放送で聴くことはほとんど稀でしょう。

現存する演奏家を宣伝し、放送することで、CDが売れ、演奏会が盛況になる訳ですので、

過去の歴史的な名演を放送することは、いわばご法度に近いものになります。


★ここに、現代人の不幸があります。

大宣伝されている生身の演奏家、テレビのCMに出て、

美しい横顔を見せたりするソリストが、いい演奏をするとは限りません。

そのような演奏を聴いても、感動するとは限らず、

初心者でせっかく、音楽に興味をもち始めても、

演奏に感動しなかった場合、失望して「なんだかつまらない世界」と、

関心を失ってしまう逆効果もおおいにありえます。

聴く人が、優れたものを自発的に努力して選択しなければ、

本当に優れた演奏を聴くことができない、不幸な時代ともいえます。


★NHKラジオも、私は時々聞きますが、2、3日は朝からずっと、駅伝生中継だけ。

駅伝に興味をもてないため、TBSにたまたま切り替えましたところ、

大沢悠里という方が、紅白歌合戦について貴重な意見をおっしゃていました。

「おじさんの私には、全部同じ歌のように聞こえ、最後まで聞け通せなかった」という趣旨です。

私も同感です。

最近の流行曲は、素人の方が、歌っているというよりは、

ひたすら“叫んでいる”ような印象です。

無意識のうちに、抑圧された苦しみを叫びで表現しているのかもしれませんね。

現代という時代を反映しているのでしょうか。


★そういう「歌」や、芸能人の隠し芸、駅伝、ラグビーなどの放送を、放送し続けて

日本国民が納得しているのでしょうか、いまひとつ分かりません。



▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲

コメント(2) ■■ 「蝶々雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」に感動 ■■~テレビや放送と「音楽」とのかかわりについて~ 傑作(0)
2007/1/9(火) 午後 1:39その他のとびきり楽しいお話その他音楽 Yahoo!ブックマークに登録 ★皆さま、新しい年が巡ってまいりました。

本年こそは、平和で、人々が安心して生活できる世の中であって欲しいものですね。

このブログを始めましてから、間もなく一年となります。

ことしも、美しい音楽とともに生きることの喜び、幸せを

皆さまとご一緒に体験してまいりたいと思っております。


★お正月のテレビは、スイッチを押しても、新年恒例のスポーツや芸能人の隠し芸、

ドタバタのお笑い番組などが多く、なかなか見たいものがありません。

しかし、ケーブルTVの映画専門チャンネルで、感心する映画に出会いました。


★「蝶々雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」1965年の東映映画です。

脚本は依田義賢、マキノ雅弘監督の作品です。

「ミヤコ蝶々原案」となっていますところから、彼女の自伝に近い作品のようです。

1965年は、昭和40年、つまり、新幹線開通、東京オリンピックの翌年です。

室内の造作も木戸もすべて、まだ建具屋さんの手により、木で丹念に作られていた時代です。

下駄や草履の音が聞こえてくるようなこじんまりとしたお店、

商店街の町並みが、白黒の画像に美しく映えています。

懐かしさから、“ながら”で見ていましたが、途中から座りなおして画面に釘付けになりました。

蝶々さん、雄二さんだけでなく、登場する俳優すべてが名人ばかり、全部が飛び切りの芸達者。

話芸の極致といえるほど緩急自在な会話、寸分の隙なく練りこまれた演技の連続です。


★女性を見たら誰にでも「美人ですなー。わて、あんたが好きになりそうや。映画いかへんか」と、

ちょっかいを掛ける元板前の雄二、現在はヒモ稼業。

その姉さん女房が、法善寺横町で小さなお汁粉屋さんを経営する蝶々さん。

雄二が何度浮気しても、心底惚れ抜いている蝶々さんは、いつもいつも許してしまいます。

金、色、欲が渦巻き、どうしようもないようにもみえる世間ではありますが、

決してやりたい放題ではなく、それに蹂躙されるのではなく、

それほどのワルでもない、ちょぼちょぼの弱いもの同士が、助け合う。

いい面を見つめ合い、愛し合って生きていくことで、

なんとか平和に保たれているのが人の世です、と蝶々さんが、

映画の全編を通じて、愛情もって語りかけているかのようです。

チャップリンの映画に通じるものがあります。

寅さんの映画で、蝶々さんが、関西のラブホテル経営者として登場したことがあります。

寅さんを生んで、捨てて逃げた実の母親役としてです。

母恋しさに、捜し当てて来た寅さんを、冷酷に追い返すシーンは、記憶に残る名演技ですが、

この映画もそれに劣らず優れた演技に思えます。

小柄な蝶々さんが、大きく大きく見えます。

蝶々さんにプロポーズする金満家・柳家金語楼の切れのいい練れた話ぶりと、

歌舞伎の千両役者のような、歳を忘れさせる軽い身のこなし。

(金語楼は落語界で、最高の名人になれる人だったそうですが、突如転身したそうです)

板前の先輩である藤山寛美と茶川一郎による迫真のいじめとしごき、

「成金馬主」役の藤田まことや、中田大丸、ラケット、白木一郎等々、

いまさらながら、当時の関西の役者の名人ぶりを再認識させられました。

惹きつけられて、一時も目が離せませんでした。


★この映画の音楽のつけ方にも大変、好感をもちました。

ほとんど音楽らしい音楽が流れず、ヤマ場のシーンで効果音が入るだけ。

それが、とても新鮮に聞こえました。

それで十分です、必要な場面に最小限の音楽でいいのではないでしょうか。

だから効果があるのです。


★最近のテレビを見て、最も不快なことは、ニュースやドキュメンタリー番組にまで

絶え間なく、音楽もどきの騒雑音をバックに流していることです。

その音楽の質たるや、貧困としかいいようがない質の低さ。

どうして深刻なドキュメンタリーに、ポップやロック、ムード音楽、

コンピューターで作成した反復音などを執拗に入れる必要があるのでしょうか。

そういう音楽もどきしか、音楽的ストックをもたない人たちが作っているのでしょう。

飲食店、商店街でも、獣の叫び声のような騒音を、常時流している店が本当に増えております。


★なぜ、そのような事態になってしまったのかを考えてみますと、

「不必要な公共事業」と同じである、という結論に達します。

その恩恵はほとんどゼロ、あるいは、逆に被害さえもたらす。

その工事を施工するものだけが潤う世界。

ニュースにさえ、音楽をつけることを当然のこととし、

それが、利権になってしまっていますから、「不可欠な予算」として計上され続け、

それを切ることが出来ないところまで、来ているのでしょう。


★「蝶々雄二の夫婦善哉」が、お正月に、普通の民放でゴールデンアワーに

放映されたならば、どういうことになるでしょうか。

いまのテレビ番組に食傷している方、お年寄りなどが拍手を送り、

他の娯楽番組、スポーツ番組を“食ってしまう”ことは間違いありません。

高い視聴率を獲得するかもしれません。

そのような事態は、多分、絶対に避けたいのでしょう。

なぜなら、現在の娯楽番組に出演している「タレント」を、これからも売り込み、

宣伝することで、それに寄宿、寄生しているテレビ、芸能業界が潤う構図だからでしょう。

蝶々さん、金語楼の足元にも及ばない乏しい演技力でも、

そういう「タレント」をいつも、出演させ続ける必要がある世界なのでしょう。


★クラシック音楽でも同じことがいえます。

テレビ、ラジオに登場するのは、現存する演奏家、“新進気鋭”の若手です。

かつて一世を風靡した「帝王カラヤン」は、最近とんと登場させませんね。

ルービンシュタインやケンプなど真の芸術家の演奏を、放送で聴くことはほとんど稀でしょう。

現存する演奏家を宣伝し、放送することで、CDが売れ、演奏会が盛況になる訳ですので、

過去の歴史的な名演を放送することは、いわばご法度に近いものになります。


★ここに、現代人の不幸があります。

大宣伝されている生身の演奏家、テレビのCMに出て、

美しい横顔を見せたりするソリストが、いい演奏をするとは限りません。

そのような演奏を聴いても、感動するとは限らず、

初心者でせっかく、音楽に興味をもち始めても、

演奏に感動しなかった場合、失望して「なんだかつまらない世界」と、

関心を失ってしまう逆効果もおおいにありえます。

聴く人が、優れたものを自発的に努力して選択しなければ、

本当に優れた演奏を聴くことができない、不幸な時代ともいえます。


★NHKラジオも、私は時々聞きますが、2、3日は朝からずっと、駅伝生中継だけ。

駅伝に興味をもてないため、TBSにたまたま切り替えましたところ、

大沢悠里という方が、紅白歌合戦について貴重な意見をおっしゃていました。

「おじさんの私には、全部同じ歌のように聞こえ、最後まで聞け通せなかった」という趣旨です。

私も同感です。

最近の流行曲は、素人の方が、歌っているというよりは、

ひたすら“叫んでいる”ような印象です。

無意識のうちに、抑圧された苦しみを叫びで表現しているのかもしれませんね。

現代という時代を反映しているのでしょうか。


★そういう「歌」や、芸能人の隠し芸、駅伝、ラグビーなどの放送を、放送し続けて

日本国民が納得しているのでしょうか、いまひとつ分かりません。



▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽

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