■ ヴィルヘルム・ケンプ、85歳、最後のコンサートと彼の言葉 ■
08.2.10 中村洋子
★2月17日の「第7回 インヴェンション・アナリーゼ講座」の
準備で、忙しい毎日です。
第7番は、インヴェンション、シンフォニア各15曲の、
真ん中に、当たる曲です。
第6番で、新しい出発をしたインヴェンションは、
ここから、さらに大きなスペクタクルが、忽然と開けてきます。
★このため、私の講座も、いままでの「アナリーゼ(分析)」から、
「アナリーゼ」の反対語である「シンセサイズ(統合)」へと、
舵を切って行きたい、と思います。
「統合」、即ち、分析したものを、演奏にどのように結びつけるか、
ということです。
★ただし、この弾き方しか駄目である、とか、
この装飾音は、この演奏法しか認めない、というような
狭量な方法は、とりません。
アナリーゼしたものを、どのように演奏に結び付けていくか、
一人一人が見つけていく、その方法を、
ご一緒に考えて行きたい、と思います。
★私の尊敬するピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプは、
彼の教授法を、次のように、語っています。
「どこでペダルを踏むか、踏まないかは、
その人その人の演奏によるものであって、
一般的な規則はないのです」。
「私のスタイルを真似ることなく、自分自身の方法を、
見つけてください」
★最近、ヴィルヘルム・ケンプの演奏で、シューマンを聴いています。
「シューマンのピアノ作品 CD4枚組セット」、
ドイツグラモフォンで録音したもので、ワーナーの発売です。
シューマンのピアノ曲に関しましては、奏者の陶酔感ばかり
目立つ演奏が、日本ではよく見受けられ、
辟易することも、時々あります。
このセットには、ケンプが70代になってからの録音も、、
数多く、含まれています。
一人の偉大な芸術家が、到達した最後の世界を、
居ながらにして体験できる、素晴らしいCDです。
★CDのブックレットに、ケンプへのインタビューを基にした
文章が、英文と独文とで掲載されています。
自己顕示のかけらも無く、音楽を、人間を、自然を愛した、
一人の芸術家の一生と、心構えが、
髣髴と、浮かび上がってきます。
本人が語った、生の言葉は強いですね。
味わい深い内容ですので、印象に残ったところを
ご紹介いたします。
★ヴィルヘルム・ケンプは、1895年12月25日、
プロシアのユーテボルクという町に、生まれました。
1991年5月23日、南イタリアのポジターノで、亡くなりました。
ドイツグラモフォンで、録音を60年にわたって続けました。
ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲を、
40年間にわたり、3回レコーディングしています。
★彼の先生は、ハインリッヒ・バルト Heinrich Barthで、
ケンプの言によりますと「indescribable technique
wonderfull intellect」な先生だった、そうです。
さらに、オイゲン・ダルベール Eugen d'Albert から、
大きな影響を、受けています。
「A phenomenon of nature 」というほどの、
大先生だった、そうです。
★また、フェルッチョ・ブゾーニ Ferriuccio Busoniの、
複雑な対位法の楽曲を、分かりやすくして、自在に操る
「transparante」な、技術と能力は、若いピアニストにとって、
「感嘆」の対象だった、と語っています。
★これら3人を、モデルにして、
ケンプは、20世紀のピアニストのモデルとなったのです。
1918年、アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリンフィルで、
ベートーヴェンの第4ピアノ協奏曲を弾き、
実質的なデビューを、果たします。
1920年、ドイツグラモフォンから、最初のレコードを出します。
曲目:ベートーベンのエコセーズとバガテル OP33 。
★その後、演奏会とレコーディングで、世界中を回ります。
ドイツグラモフォンでの録音は、ベルリンで、
さらに後には、ハノーファーで、なされました。
1936年、最初の日本訪問をします。
1954年には、ヒロシマを訪れました。
これが、彼の記念碑的な訪日です。
「平和祈念の教会で、バッハのオルガン作品を弾きました」。
★作曲家のヤン・シベリウスは、彼のハンマークラヴィーア
の演奏後、楽屋で尊敬を込めて、こう言いました。
「あなたはピアニストのように弾かない。
ヒューマンビーイングのように弾く」。
彼の引退は、1980年代。
★彼の最後のコンサートについて、こう書かれています。
85歳のある日、親しい友人たちの小さなサークルで、
コンサートの最中、突然、彼は演奏を止め、
ピアノの蓋を閉め、目に涙をため、
哀しみに満ちた、小さな声で、
「私は、大変疲れました。私の全生涯を通して、
音楽によって、人々に喜びと愛をもたらそうと、
努めてきました。もはや、いま、私にはそれが、
もう出来ないのです」と、語りかけました。
★そして、南イタリアのポジターノに引退しました。
弟子の一人が書いていますが、
“美しい庭で、ケンプはすべての花、石、鳥の鳴き声、
夜星を眺めると、どの星座の名前も、
説明することができたのです”。
★インタビューは、1975年になされています。
「どこでペダルを踏むか、踏まないかは、
その人その人の演奏によるものであって、
一般的な規則はないのです」。
「私のスタイルを真似ることなく、自分自身の方法を、
見つけてください」
「レッスンを受けに、ポジターノへと来た生徒には、
そのように、お願いしているのです」。
「私はいつも、ヴィルヘルム・フルトベングラーが、
私に言った言葉、『自分が美しいと思う曲しか、指揮できない』
これを、心のなかで思っています」。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
08.2.10 中村洋子
★2月17日の「第7回 インヴェンション・アナリーゼ講座」の
準備で、忙しい毎日です。
第7番は、インヴェンション、シンフォニア各15曲の、
真ん中に、当たる曲です。
第6番で、新しい出発をしたインヴェンションは、
ここから、さらに大きなスペクタクルが、忽然と開けてきます。
★このため、私の講座も、いままでの「アナリーゼ(分析)」から、
「アナリーゼ」の反対語である「シンセサイズ(統合)」へと、
舵を切って行きたい、と思います。
「統合」、即ち、分析したものを、演奏にどのように結びつけるか、
ということです。
★ただし、この弾き方しか駄目である、とか、
この装飾音は、この演奏法しか認めない、というような
狭量な方法は、とりません。
アナリーゼしたものを、どのように演奏に結び付けていくか、
一人一人が見つけていく、その方法を、
ご一緒に考えて行きたい、と思います。
★私の尊敬するピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプは、
彼の教授法を、次のように、語っています。
「どこでペダルを踏むか、踏まないかは、
その人その人の演奏によるものであって、
一般的な規則はないのです」。
「私のスタイルを真似ることなく、自分自身の方法を、
見つけてください」
★最近、ヴィルヘルム・ケンプの演奏で、シューマンを聴いています。
「シューマンのピアノ作品 CD4枚組セット」、
ドイツグラモフォンで録音したもので、ワーナーの発売です。
シューマンのピアノ曲に関しましては、奏者の陶酔感ばかり
目立つ演奏が、日本ではよく見受けられ、
辟易することも、時々あります。
このセットには、ケンプが70代になってからの録音も、、
数多く、含まれています。
一人の偉大な芸術家が、到達した最後の世界を、
居ながらにして体験できる、素晴らしいCDです。
★CDのブックレットに、ケンプへのインタビューを基にした
文章が、英文と独文とで掲載されています。
自己顕示のかけらも無く、音楽を、人間を、自然を愛した、
一人の芸術家の一生と、心構えが、
髣髴と、浮かび上がってきます。
本人が語った、生の言葉は強いですね。
味わい深い内容ですので、印象に残ったところを
ご紹介いたします。
★ヴィルヘルム・ケンプは、1895年12月25日、
プロシアのユーテボルクという町に、生まれました。
1991年5月23日、南イタリアのポジターノで、亡くなりました。
ドイツグラモフォンで、録音を60年にわたって続けました。
ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲を、
40年間にわたり、3回レコーディングしています。
★彼の先生は、ハインリッヒ・バルト Heinrich Barthで、
ケンプの言によりますと「indescribable technique
wonderfull intellect」な先生だった、そうです。
さらに、オイゲン・ダルベール Eugen d'Albert から、
大きな影響を、受けています。
「A phenomenon of nature 」というほどの、
大先生だった、そうです。
★また、フェルッチョ・ブゾーニ Ferriuccio Busoniの、
複雑な対位法の楽曲を、分かりやすくして、自在に操る
「transparante」な、技術と能力は、若いピアニストにとって、
「感嘆」の対象だった、と語っています。
★これら3人を、モデルにして、
ケンプは、20世紀のピアニストのモデルとなったのです。
1918年、アルトゥール・ニキシュ指揮のベルリンフィルで、
ベートーヴェンの第4ピアノ協奏曲を弾き、
実質的なデビューを、果たします。
1920年、ドイツグラモフォンから、最初のレコードを出します。
曲目:ベートーベンのエコセーズとバガテル OP33 。
★その後、演奏会とレコーディングで、世界中を回ります。
ドイツグラモフォンでの録音は、ベルリンで、
さらに後には、ハノーファーで、なされました。
1936年、最初の日本訪問をします。
1954年には、ヒロシマを訪れました。
これが、彼の記念碑的な訪日です。
「平和祈念の教会で、バッハのオルガン作品を弾きました」。
★作曲家のヤン・シベリウスは、彼のハンマークラヴィーア
の演奏後、楽屋で尊敬を込めて、こう言いました。
「あなたはピアニストのように弾かない。
ヒューマンビーイングのように弾く」。
彼の引退は、1980年代。
★彼の最後のコンサートについて、こう書かれています。
85歳のある日、親しい友人たちの小さなサークルで、
コンサートの最中、突然、彼は演奏を止め、
ピアノの蓋を閉め、目に涙をため、
哀しみに満ちた、小さな声で、
「私は、大変疲れました。私の全生涯を通して、
音楽によって、人々に喜びと愛をもたらそうと、
努めてきました。もはや、いま、私にはそれが、
もう出来ないのです」と、語りかけました。
★そして、南イタリアのポジターノに引退しました。
弟子の一人が書いていますが、
“美しい庭で、ケンプはすべての花、石、鳥の鳴き声、
夜星を眺めると、どの星座の名前も、
説明することができたのです”。
★インタビューは、1975年になされています。
「どこでペダルを踏むか、踏まないかは、
その人その人の演奏によるものであって、
一般的な規則はないのです」。
「私のスタイルを真似ることなく、自分自身の方法を、
見つけてください」
「レッスンを受けに、ポジターノへと来た生徒には、
そのように、お願いしているのです」。
「私はいつも、ヴィルヘルム・フルトベングラーが、
私に言った言葉、『自分が美しいと思う曲しか、指揮できない』
これを、心のなかで思っています」。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲