■たった一つの音が曲の全体構造を支える要石に■
~「Goldberg-Variationen」第17変奏曲29小節目の下声冒頭「h」音~
~21日の第2期第1回「ゴルトベルク変奏曲」アナリーゼ講座~
2017.1.19 中村洋子
★20日の大寒を前に、日本列島は冷え切っています。
外出も控えがちとなり、Bachの勉強に集中しています。
Bach先生、学べば学ぶほど、次の新しいハードルを示されます。
★とても267年前に亡くなった人とは思えません。
「次はこれ」、「次はもう少しここを考えてみましょう」と、
語りかけてきます。
芸術家が亡くなっても、その芸術は不滅という意味が
ようやく、分かってきました。
★21日の「Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲」アナリーゼ講座
https://www.academia-music.com/academia/m.php/20161026-0
では、第16、17、18変奏曲を勉強いたします。
「自筆譜」は失われていますので、「初版譜」を書き写すことから始めます。
★写せば写すほど、Bachのアイデア(着想)が、
泉から水が湧き出るように、次々と伝わってきます。
★「自筆譜」は失われていますが、幸いなことに
Bachが≪所有≫していた「初版譜」が、
ドイツ国境に近いフランスのStrasbourg ストラスブールで
1974年、Olivier Alain オリヴィエ・アランによって、発見されました。
★ここには、初版譜への「訂正」や「追加」が、
Bachの手書きで、丁寧に書き込まれていますので、
私たちは、安心して勉強できます。
★「初版譜」ファクシミリと、「Bachの追加、訂正済み」ファクシミリとを、
見比べてどこが追加され、どこを手直ししたか、
それを知ることにより、Bachの考え、構想、アイデアが明確に伝わってきます。
その意味でも、極めて重要な、宝物的存在です。
★それ以外の資料として、「Notenbüchlein für Anna Magdalena Bach
アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」ファクシミリに、
「Goldberg-Variationen」の主題「Aria」が、あります。
Bachの自筆譜を、 Annaが写譜したものでしょう。
(当ブログ 参照)
これは、21日の講座にも持参し、皆さまにお見せいたします。
★それ以外の「Goldberg-Variationen」の写譜は、
「初版譜」を写したものです。
結論として、Bachの所持していたBach自身による書き込みのある
「初版譜」ファクシミリが、唯一無二の資料といえます。
★それでは、今回の講座で勉強いたします第16、17、18変奏曲に、
Bachの「書き込み」はあるのでしょうか?
★第17変奏曲の「初版譜」17小節目は、このようになっています。
Bachの「書き込み」は、
★第18変奏曲の「初版譜」の30小節目は、
Bach「書き込み」は、
★Bachが詳細に丹念に、出版譜に目を通していたことが、
実によく分かります。
彼の芸術の集大成「Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲」を、
いかに、愛おしんでいたかが伝わってきます。
★写譜をする際、念のために、
「Goldberg-Variationen」の、いろいろな実用譜を点検しました。
驚愕するような、事実に気付きました。
★第17変奏曲29小節目1拍目(左手)下声の「h」の8分音符が、
Bärenreiter と Wiener Urtext Edition
(音楽之友社ライセンス版 UT505159 ©1996)では、
なんと、驚くべきことに「g」に、変わっていたのです。
★Bärenreiter版は、この変更の理由については、何も書いていません。
ヴィーン原典版では、このように書かれています。
≪1st note on new page b, but custos and parallel passage in bar 30,
u.s.,require g.
ページが変わった後の第1音のロ音(h)は、クストス(ダイレクト、指示音符)と
第30小節上段の対応した箇所から類推してト音でなければならない。≫
★変更した理由が、二つ書かれていますが、
まず、初めの「custos」の意味が判然としません。
二番目の「第30小節上段の対応した箇所から類推して
ト音でなければならない」につきましては、
この編集者の《勇み足》としか言いようがないでしょう。
★上記のように、Bachが満を持して発表した「Clavier Übung
クラヴィーアユーブング」第4巻、つまり、
「Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲」は、
細心の注意を払って、出版されています。
★私も経験があるのですが、どんなに万全の注意を払って出版しても
やはり、ミスはあるものです。
それから、その出版譜をさらに推敲したくなることもあります。
★Bachの初版譜のみしか現存しないのであれば、
第三者による「類推」も、可能かもしれません。
しかし、Bachが所有していた「初版譜」に、彼自身の手で訂正し、
「書き込みを加えた楽譜」が残っているのです。
★それを見ますと、
第17、18変奏曲に、Bachは臨時記号を追加しています。
特に、第18変奏曲の30小節目左手4拍目「c」に加えられた「♮」は、
当時の「臨時記号はその一音のみ有効」という原則に照らしますと、
あえて書かなくても、通用するのです。
★ここから分かりますことは、Bachがこの「初版譜」を、
隅から隅まで徹底的に点検し、
訂正や追加を加えている、という事実です。
その結果として残された楽譜に、“誤り”があり得るのでしょうか。
天才Bachが、“舐める”ように見直した楽譜です。
★この第17変奏曲は、「初版譜」18ページから書き始められ、
19ページ1段目で、終っています。
第18変奏曲は、19ページ2段目~5段目に書かれています。
そして、19ページの6、7段目には、
第19変奏曲の前半16小節が記譜されています。
★当然、第17、18変奏曲の二か所の訂正、追加は、
見開き2ページ、即ち18、19ページに書かれています。
問題の第17変奏曲29小節目の左手冒頭「h」音は、
右ページの1段目「冒頭」に位置する音なのです。
「1段目冒頭」という場所は、レイアウト上、最も目につく場所、
最重要の役割を担っている位置です。
★私は、作曲家ですから断言できますが、
作品が完成した後、Bachが細かい臨時記号について、
念入りに推敲したり、修正していたということは、
繰り返しますが、Bachがいかに、細部にわたって
“舐める”ように目を通し、点検し、推敲し直したか、ということです。
★では、何故この編集者が、29小節目下声1拍目「h(G-Durの第3音)」を
「g(G-Durの主音)」にしたかったのでしょうか、
その意図は、簡単に読み取れます。
★29小節目上声1拍目の「d²」は、28小節目3拍目からタイで結ばれています。
このため、29小節目1拍目の打鍵された音は、下声「h」音のみなのです。
次に、上声の二番目の音は、「h¹」が打鍵され、その際、下声は先ほどの
「h」音が8分音符で延びていますので、「h - h¹」のオクターブ音程が
むき出しで聴き取れます。
★この“むき出し”にこそ、Bachの天才的アイデアが表出しているのですが、
曲を小奇麗にまとめようとする場合には、逆に、
大変に「目障り」で、「調和を乱す」ように感じる人がいるのでしょう。
★Bachの意図とは何でしょうか。
見開きの右ページ冒頭(左端)は、レイアウト上、
最重要の音と位置付けられます。
その次に重要な場所は、冒頭1段目の右端です。
ここは、第17変奏曲の最後の小節である「32小節目」です。
その最後の音は、下声が「G」で上声は「g²」です。
つまり、3オクターブの音程をもつ「G-Dur」の主音なのです。
★それでは、この29小節目冒頭音と、32小節目最後の音、
この二つをつなげますと、何が起こるのでしょうか?
★それは、主題「Aria」の1小節目上声「g² - h²」と
下声「g - h」からできる「3度音程」を展開、即ち、変奏したものなのです。
このため、この29小節目1拍目の音「h」が、際立ち、
飛び出して来るように、聴こえなければいけないのです。
★さらに、目を左の18ページに移しますと、最も重要な位置の、
1段目冒頭(左端)は、第17変奏曲1小節目ですが、
これは、下声が「G - H」で始まり、29、32小節目と対応していることが分かります。
もちろん、17変奏の1小節目1拍目下声の「G」と、上声「h¹」も、
「G-Dur」 の「主音」と「第3音」の関係になります。
★また、目を右19ページに戻しますと、
29小節目の真下は、第18変奏曲の第1小節目です。
これも、下声は「g - a - h」で、「a」を挟んで主音と第3音の関係になっています。
上声は、アルト声部の「h¹」、ソプラノ声部の「g²」が記譜され、
これも「第3音」と「主音」の関係です。
★さらに、2段目右端は、凝りに凝っています。
ここでは、8小節目前半(四分音符2拍分)まで記譜され、
後半は、3段目冒頭(左端)から始まります。
どうして、このような中途半端な記譜にしたのでしょうか。
★この変則的記譜により、
下声の「g - a - h」を、1小節目下声の「g - a - h」と
見事に、揃えているのです。
上下に、つまり、2段目と3番目の冒頭に
「g - a - h」を、据えているのです。
「g - a - h」の3度音程「g - h」は、
「ト長調G-Dur」の肝心要の音程であり、
主題「Aria」の1小節目から導き出され、変奏されている最重要音程です。
★ざっとレイアウトを見ましただけでも、
この17変奏曲29小節目の下声冒頭「h」音が、
見開き2ページを、統率する音であるといえます。
もしこれが、「h」でなく「g」音でしたら、
ここまでのBachの練りに練った着想が、
ガラガラと音を立てて、崩れ去ります。
★これを「g」音にしますと、安定し、調和的な流れとなるため、
29小節目冒頭で、この曲は、終止してしまいます。
そうしますと、29小節目~32小節目までの4小節は、
あたかも「コーダ」の性格に変容します。
★音一つが変わっただけで、実は、演奏も大きく変化させざるを得ません。
29小節目の「h - h¹」を、意識の中に強く残し、
32小節目最後の音「G - g²」まで、大きなアーチを描くように演奏しますと、
雄渾なBachの音楽が姿を現しますが、
29小節目で一度終止し、尾ひれのように4小節のコーダを付けますと、
こじんまりと、まとまりますが、
とりとめのない演奏に成らざるを得ません。
★編集者は、30小節目上段の対応した箇所から「類推」したとしていますが、
多分、これは29小節目上段か
30小節目下段
の間違いでしょう。
おそらく、28小節目下段2拍目~29小節目の冒頭音までの旋律を、
29小節目上段2拍目~30小節目冒頭音や、
30小節目下段2拍目~31小節目冒頭音までと同じ旋律の形に、
揃えたかったのでしょう。
★このようにBachの音楽を、編集者の「類推」によって直されているのを、
時々、見つけますが、Bachは機械的な同型反復をほとんどしない作曲家でした。
まして、当該箇所は、ご説明しましたように、
この「h」音は、天才を証明する音です。
このように「類推」で変更することができましたら、
現存する曲のほとんどに、変更を加えられることになってしまいます。
★あえて言いますと、Bachの意図は、
この28小節目下声の動きを「g」で終わるように"期待させつつ"、
しかし、「h」に進行させるという意外性により、
この「h」音を、より鮮明に心に留めるということであった、
とも言えます。
★また、この「h」音を、第18、19変奏曲から“逆照射”しますと、
さらに、≪「h」でなくてはならない≫驚くべき理由が、見つかるのです。
Bachは、第19変奏曲で、禁則すれすれの和声の“サーフィン”を、
スリリングに楽しんでいます。
講座で、詳しくお話いたします。
★たった一つの音であっても、蔑(ないがし)ろにしますと、
演奏は、土台を欠いた軟弱な砂上の楼閣となります。
その一つの音が、どうしてそうなっているかを、考え抜くことにより、
その音だけではなく、その曲がどういう曲なのか、
ということが明確に分かり、演奏も飛躍的に良くなります。
鑑賞する際の楽しみ、ともなります。
皆さま、お手持ちの楽譜を開き、この29小節目の音を、
是非、ご確認下さい。
★「Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲」の、
「初版譜」ファクシミリは、現在、二種類が入手可能です。
1)Performers' Editions版は、「初版譜」のファクシミリです。
https://www.academia-music.com/academia/search.php?mode=detail&id=1501229213
2)Fuzeau版は、Bachが書き込みをしたBach所持の「初版譜」ファクシミリです。https://www.academia-music.com/academia/search.php?mode=detail&id=0000890009
この二つを丹念に仔細に見比べますと、
Bachが推敲し直し、どこを追加したり、訂正したりかが、
よく分かることでしょう。
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