■平均律第 1巻 1番前奏曲で、「反復」のもつ大きな意味■
10.1.24 中村洋子
★「平均律第 1巻 1番」の前奏曲は、あまりに有名で、
なんら疑問をもたず、スラスラと弾いてしまう、
そんな傾向に、なり勝ちです。
★「第 1巻 1番 前奏曲」は、「第 1小節の前半」で、
分散和音から成る「音型」が、まず現れ、
「第 1小節の後半」では、それを全く同じ形で、反復します。
1小節目から、32小節目までは、これが続きます。
★この「第 1小節後半」の弾き方について、
前半の「反復」、または「影」のような形として、
安易に捉えられては、いないでしょうか?
私は、そのようには、捉えておりません。
では、この後半の反復の弾き方、をどのようにするか?
その答えは、実は「34小節目」に、隠されています。
★「34小節目」のバスの「ド」の音は、ほとんどの原典版、
校訂版で、「全音符」と、しているようです。
ところが、バッハの自筆譜では、「2分音符二つ」で、
記譜しています。
「全音符」では、ないのです。
★バッハが、「タイ」を書き忘れたのでしょうか?
「タイ」をつければ、もちろん、「全音符」になるのですが、
≪書き忘れたのではない≫、ということは、
「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」
からも、分かります。
妻のアンナにより、写譜された「この曲」の同じ部分が、
やはり、「タイ」ではなく、「2分音符二つ」になっています。
★作曲家本人と、妻の二人が、同じミスをするとは、考えられません。
「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」は、
「1725年」の日付が、あります。
この曲が、実際に、写譜されたのが何年かは、不明ですが、
「1725年」は、平均律が成立した「1722年」以降であるうえ、
このアンナの小曲集は、家族全体で楽しむための曲集でしたから、
もし、「タイ」が、書き忘れていたのでしたら、
夫のバッハにより、直ちに、訂正されていたことでしょう。
★何故、このように、改竄されてしまったのでしょうか。
私の持っております「 KALMUS 」社の
「 Hans Bischoff 校訂版」Traslaed by Alexander Lipsky に、
「全音符」とした理由が、脚注に書かれています。
★This tie from C to C is very logical ;
yet we must admit the uncertainty of its having been
handed down from the manuscripts ; even the tie in
the previous measure is omitted in some of them.
訳してみますと、
ここでCからCへと「タイ」で結ぶことは、大変にロジカルである。
手稿譜を写すことにより、伝えられてきた、という
不確かさがあることを、認めなければならない。
というのは、その前の小節であるはずの「タイ」が、
いくつかの手稿譜では、書き落とされているからである。
★以上の英文が、言いたいことは、
問題の 34小節の前の 33小節で、バッハの自筆譜で存在する
「タイ」を、書き忘れれているものすらある、
それほど、筆写譜は不正確である。
バッハの自筆譜には、34小節で「タイ」が書かれていないが、
「タイ」を付けたほうが、論理的である。
ということのようです。
★「 Hans Bischoff 校訂版」は、この「34小節目」を、
一応、「タイ」で結び、「全音符」としていますが、
その「タイ」は、≪括弧≫で書いています。
つまり、「全音符」でも「2分音符」でも、どちらでもいい、
と、言っているようにみえます。
この「Bischoff 校訂版」が書かれた 19世紀末の時代は、
慣習的に、「全音符」となっていたかもしれません。
このように「括弧」で、「タイ」を書いたのは、
大変に、良心的であり、評価できると、と思います。
★「ヴィーン原典版」(日本語版)と、「 旧ヘンレ版 」は、
明確に、「全音符」としています。
その理由を、「ヴィーン原典版」は脚注で、
「第 34小節ではバッハは、ちょうど段の変わりめに
かかったため、タイの記入を忘れている」と、しています。
しかし、この理由は、間違っていると、思います。
その理由は、上述のとおりです。
★「べーレンライター版」は、「タイ」を、
実線ではなく、≪点線≫で、書いています。
「Bischoff 校訂版」と、同じ考えでしょう。
★「Hans Bischoff版」の「タイがあるほうが、ロジカルである」
という脚注は、前回のブログでも書きましたように、
「タイ」があるほうが、一見、明解で分かりやすい、ということです。
しかし、バッハの手書譜どおりに、
「タイ」を付けないで、3拍目のバスの「 ド 」を、
もう一度、弾き直しますと、天才バッハの狙った、
素晴らしい効果が、実は、現れてくるのです。
★ 1小節目から 32小節目までの、各小節内の前半部分を、
もう一度、後半で反復させている理由も、そこにあります。
これが分かりますと、演奏するうえで、
とても、大きなヒントが得られます。
★要は、この前奏曲の各小節の後半が、単なる「反復」や「影」
ではなく、独立した、重要な意味をもっている、ということです。
どうぞ、皆さまも、まず、34小節目の 3拍目の「 ド 」を、
(テノール声部の、長く延びた「 シ 」の音を聴きながら)、
心を込めて弾き直し、35小節目の終止和音を、弾いてみてください。
「反復」ではない理由が、自ずと体得できると、思います。
★「第 2番ハ短調」前奏曲の、1小節目~ 24小節目までも、
この 1番の 1小節目~ 32小節目までと同様、
1小節の前半を、後半で繰り返しています。
★以上の点につきましては、
26日の「平均律アナリーゼ講座 第1回」で、
詳しく、分かりやすくお話いたします。
★このように理解して弾きますと、実は、クラシック音楽の
あらゆる大作曲家の曲が、特に、フレーズの作り方の点で、
大変に、弾きやすくなります。
シューベルト「 即興曲 Op.90-2 」を、その例として、
講座で、ご説明いたします。
★この小さな「前奏曲」のどこに、それ以降の、
クラシック音楽の形を、規定するほどの力が、秘められているか、
お分かりになると、思います。
(椿:嵯峨本阿弥)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
10.1.24 中村洋子
★「平均律第 1巻 1番」の前奏曲は、あまりに有名で、
なんら疑問をもたず、スラスラと弾いてしまう、
そんな傾向に、なり勝ちです。
★「第 1巻 1番 前奏曲」は、「第 1小節の前半」で、
分散和音から成る「音型」が、まず現れ、
「第 1小節の後半」では、それを全く同じ形で、反復します。
1小節目から、32小節目までは、これが続きます。
★この「第 1小節後半」の弾き方について、
前半の「反復」、または「影」のような形として、
安易に捉えられては、いないでしょうか?
私は、そのようには、捉えておりません。
では、この後半の反復の弾き方、をどのようにするか?
その答えは、実は「34小節目」に、隠されています。
★「34小節目」のバスの「ド」の音は、ほとんどの原典版、
校訂版で、「全音符」と、しているようです。
ところが、バッハの自筆譜では、「2分音符二つ」で、
記譜しています。
「全音符」では、ないのです。
★バッハが、「タイ」を書き忘れたのでしょうか?
「タイ」をつければ、もちろん、「全音符」になるのですが、
≪書き忘れたのではない≫、ということは、
「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」
からも、分かります。
妻のアンナにより、写譜された「この曲」の同じ部分が、
やはり、「タイ」ではなく、「2分音符二つ」になっています。
★作曲家本人と、妻の二人が、同じミスをするとは、考えられません。
「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集」は、
「1725年」の日付が、あります。
この曲が、実際に、写譜されたのが何年かは、不明ですが、
「1725年」は、平均律が成立した「1722年」以降であるうえ、
このアンナの小曲集は、家族全体で楽しむための曲集でしたから、
もし、「タイ」が、書き忘れていたのでしたら、
夫のバッハにより、直ちに、訂正されていたことでしょう。
★何故、このように、改竄されてしまったのでしょうか。
私の持っております「 KALMUS 」社の
「 Hans Bischoff 校訂版」Traslaed by Alexander Lipsky に、
「全音符」とした理由が、脚注に書かれています。
★This tie from C to C is very logical ;
yet we must admit the uncertainty of its having been
handed down from the manuscripts ; even the tie in
the previous measure is omitted in some of them.
訳してみますと、
ここでCからCへと「タイ」で結ぶことは、大変にロジカルである。
手稿譜を写すことにより、伝えられてきた、という
不確かさがあることを、認めなければならない。
というのは、その前の小節であるはずの「タイ」が、
いくつかの手稿譜では、書き落とされているからである。
★以上の英文が、言いたいことは、
問題の 34小節の前の 33小節で、バッハの自筆譜で存在する
「タイ」を、書き忘れれているものすらある、
それほど、筆写譜は不正確である。
バッハの自筆譜には、34小節で「タイ」が書かれていないが、
「タイ」を付けたほうが、論理的である。
ということのようです。
★「 Hans Bischoff 校訂版」は、この「34小節目」を、
一応、「タイ」で結び、「全音符」としていますが、
その「タイ」は、≪括弧≫で書いています。
つまり、「全音符」でも「2分音符」でも、どちらでもいい、
と、言っているようにみえます。
この「Bischoff 校訂版」が書かれた 19世紀末の時代は、
慣習的に、「全音符」となっていたかもしれません。
このように「括弧」で、「タイ」を書いたのは、
大変に、良心的であり、評価できると、と思います。
★「ヴィーン原典版」(日本語版)と、「 旧ヘンレ版 」は、
明確に、「全音符」としています。
その理由を、「ヴィーン原典版」は脚注で、
「第 34小節ではバッハは、ちょうど段の変わりめに
かかったため、タイの記入を忘れている」と、しています。
しかし、この理由は、間違っていると、思います。
その理由は、上述のとおりです。
★「べーレンライター版」は、「タイ」を、
実線ではなく、≪点線≫で、書いています。
「Bischoff 校訂版」と、同じ考えでしょう。
★「Hans Bischoff版」の「タイがあるほうが、ロジカルである」
という脚注は、前回のブログでも書きましたように、
「タイ」があるほうが、一見、明解で分かりやすい、ということです。
しかし、バッハの手書譜どおりに、
「タイ」を付けないで、3拍目のバスの「 ド 」を、
もう一度、弾き直しますと、天才バッハの狙った、
素晴らしい効果が、実は、現れてくるのです。
★ 1小節目から 32小節目までの、各小節内の前半部分を、
もう一度、後半で反復させている理由も、そこにあります。
これが分かりますと、演奏するうえで、
とても、大きなヒントが得られます。
★要は、この前奏曲の各小節の後半が、単なる「反復」や「影」
ではなく、独立した、重要な意味をもっている、ということです。
どうぞ、皆さまも、まず、34小節目の 3拍目の「 ド 」を、
(テノール声部の、長く延びた「 シ 」の音を聴きながら)、
心を込めて弾き直し、35小節目の終止和音を、弾いてみてください。
「反復」ではない理由が、自ずと体得できると、思います。
★「第 2番ハ短調」前奏曲の、1小節目~ 24小節目までも、
この 1番の 1小節目~ 32小節目までと同様、
1小節の前半を、後半で繰り返しています。
★以上の点につきましては、
26日の「平均律アナリーゼ講座 第1回」で、
詳しく、分かりやすくお話いたします。
★このように理解して弾きますと、実は、クラシック音楽の
あらゆる大作曲家の曲が、特に、フレーズの作り方の点で、
大変に、弾きやすくなります。
シューベルト「 即興曲 Op.90-2 」を、その例として、
講座で、ご説明いたします。
★この小さな「前奏曲」のどこに、それ以降の、
クラシック音楽の形を、規定するほどの力が、秘められているか、
お分かりになると、思います。
(椿:嵯峨本阿弥)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲