音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■日本のバッハ解説本が孫引きを繰り返す、フォルケル著「バッハ伝」の功罪■

2010-09-19 23:45:18 | ■私のアナリーゼ講座■

■日本のバッハ解説本が孫引きを繰り返す、フォルケル著「バッハ伝」の功罪■
                            2010.9.19   中村洋子



★バッハについての、最初の伝記は、

ヨハン・ニコラウス・フォルケル

Johann Nikolaus Forkel  ( 1749 ~ 1818 ) による、

「 ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯、芸術、

および芸術作品について。真の音楽芸術の愛国的賛美者のために 」

( Ueber Johann Sebastian Bach Leben, Kunst und Kunstwerke,

Fuer patriotische Verehrer echter musikalischer

Kunst.Leipzig, 1802 ) です。


★バッハが死去したのは、1750年ですから、フォルケルは、

バッハには、会っていません。

フォルケルは、ドイツで最初の音楽史を書いた人だそうです。


★この伝記は、バッハの長男のフリーデマンと、

二男のエマヌエルから得た情報を基にして、書いた、

といわれています。

ここで、今回は、フォルケルのバッハ伝の、

「 功罪 」について、見てみます。


★功罪の「 功 」 は、息子たちからの話を通じて、

バッハの生き生きとした姿が、伝わってきます。

バッハが、和声や対位法に対し、

どのような考えを、もっていたか、

生きた証言が、残されている、という点です。

バッハの日常生活のこまごましたお話では、ありません。


★それによりますと、バッハは、作曲のレッスンを始める際、

≪ 対位法から始めることはなく、まして、

音程比の計算で、弟子たちの時間をとることもなかった。

それは、もっぱら、理論家や、楽器製作者の仕事と、考えていた。

直ぐに、通奏低音に基づく、4声体和声から、始めた ≫

 ( 角倉一郎訳 白水Uブックス:邦題は「バッハ小伝」、

以下の翻訳引用は、この本による )

ということです。


★バッハが、「 2声、3声から始めなかった 」ということは、

「 4声 」 という、最もスタンダードな和声の形態を、

しっかりと、根付かせれば、その後、変幻自在に、

声部を減らしたり、あるいは、増やしたりすることが、

可能である、と考えていたからでしょう。


★私の各地での「 インヴェンション・アナリーゼ講座 」 で、

皆さまに、お伝えしていますことは、

『 2声のインヴェンション、3声のシンフォニアは、

バッハのしっかりとした 「 4声体の設計図 」 に基づく、

「 2声 」 あるいは、「 3声 」である 』 、ということです。


★2声の場合、上声がソプラノであるのか、アルトであるのか、

下声が、テノールであるのか、バスであるのか、それを、

常に考えて、演奏しなくては、なりません。


★極端な例では、インヴェンションで、

2声の上声がソプラノ、下声がアルトである部分すら、

存在するのです。

その部分を演奏する場合、休止しているであろう、

テノール、バスの音の空間を、

頭の中で、十分に意識する必要があるのです。

 

★バッハは、その後の作曲レッスンでは、

「 コラール 」 を、教材として使用します。


★ 「 ソプラノ声部 」に、「 コラール 」 のメロディーを,

当て、そして、バッハ自身が、

「 バス 」 の声部を書き、最後に、

生徒に、内声の 「 アルトとテノール 」 の,

声部を、書かせたそうです。


★ここで分かりますのは、バッハのすべての作品が、

そうであるように、内声すべてを、無駄なく、

ソプラノのように、歌わせていることです。

フォルケルは、 ≪ その内声がソプラノとしても、

使えるほどであった ≫ 、と書いています。


★プロテスタント教会で、歌われる「コラール」」とは、

“誰でも一般の人が歌えるメロディー ”なのです。

その力強く美しいメロディーに、匹敵するような内声部を、

バッハは、弟子にも書かせた、ということです。

つまり、 「 ソプラノであるコラールが、メロディで、

アルト、テノール、バスの下 3声は、

“  無味乾燥な和声を付けた伴奏  ” 」 、 では、

決して、なかった、ということです。

その4声の各声部が、独立した価値を、

持っているのです。

これが、バッハの和声、つまり、対位法なのです。

 


★幼くして、両親に死別したバッハが、

兄のヨハン・クリストフのもとに、身を寄せ、

兄が、鍵を掛けてバッハに、見せなかった曲集を、

バッハが夜になって、こっそりと引き出し、

月明りで、半年かかって、

写譜したエピソードは、有名です。

さて、バッハは誰の曲を、写譜したのでしょうか。


★このフォルケルの伝記によりますと、フローベルガー、

ヨハン・カスパル・ケルル、パッヘルベル、ブクステフーデ、

ブルーンス、ベーム、そして、私がアナリーゼ講座で、

取り上げています「(ヨハン・カスパル・フェルディナンド・)

フィッシャー」などです。


★私の講座でも、お話しましたように、バッハが、突然、音楽史に

出現したのではなく、バッハの背後にこれだけの、大音楽家が、

ひしめいて、バッハを、月夜のもとで、育て上げたのです。

このため、彼らの作品を、研究していく必要もあると、思います。


★「功」は、このように、たくさんあり、

フォルケルの伝記は、参考にすべき書として、必要です。

しかし、後世になって、

フォルケルが、想像もしなかったような、伝記の一部を、

孫引きされるという 「 罪 」も、たくさん見受けられます。


★以前の、日本のバッハ解説書では、「 フォルケルによれば 」

というように、前置きしての引用が、よく見られました。

しかし、最近は、その「フォルケルによれば」という、

前置きすらなしで、孫引きに孫引きを重ね、

バッハに対する愚かな、考えを、

開陳している解説書も、見受けられます。


★それを、見破るためにも、まずは、

フォルケルをしっかりと、読むことが、大切です。


★実は、フォルケルの伝記には、事実に反する記述や、

間違いが、大変に多いのです。


★「 平均律クラヴィーア曲集 」 に対する、記述一つとりましても、

非常に、いびつな評価をしています。

≪ 平均律クラヴィーア曲集の第2巻は、初めから終わりまで、

傑作ばかりで、できている。それに反して、第1巻のなかには、

青年期の未熟さをもつ前奏曲とフーガが、まだ若干見出され・・・、

不完全だと非難しうる曲は、イ短調、ト長調、ト短調、ハ長調、

へ長調、ヘ短調などのフーガ・・・≫

( 角倉一郎訳 バッハ小伝 ) と、あります。




★以上のフォルケルの評価が、いかに、いい加減であるか、

その証拠を、お見せします。

「 フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集 」

 ( 1720年から書き始めた )

=以下 「 フリーデマン曲集 」 と略す = の中には、

平均律 ( 1722年に完成 ) の第1巻 1番から12番

( 7番を除く ) までと、

インヴェンション&シンフォニアの、ほぼ全曲の、

元になる 「 初稿 」 が、収められています。


★フォルケルは、初稿 ( フリーデマン曲集 )と、

最終稿 ( 平均律 )  の比較の例として、

≪ 1巻1番のハ長調、3番嬰ハ長調の前奏曲は、

2曲とも、フリーデマン曲集の無駄な部分を削り、

半分の長さにしたものが、平均律である ≫

という内容のことを、書いています。


★しかし、これは、明らかな間違いです。

まず、フリーデマン曲集を半分の長さにしたものは、

平均律には一つも、ありません。

全く、逆です。

フリーデマン曲集を、さらに豊かにしたのが平均律です。

約 2倍の長さにしたものは、5番 ニ長調、 6番 ニ短調、

10番 ホ短調 などです。

1番の ハ長調について、平均律では、全曲を分散和音に

していますが、フリーデマン曲集では、

和音として分散する前の、元の和音の形に、簡略化して、

記載しています。

長さは、平均律より、短くなっています。


★3番嬰 ハ短調 につきましては、長さは、

フリーデマン曲集と平均律の長さは、ほとんど同じです。

テーマの形を、 1小節目を例にして、比較しますと、

平均律のテーマは、「 E♯、C♯、G♯、C♯、E♯、C♯ 」

 (  ミ ド ソ ド ミ ド  ) ですが、

フリーデマン曲集では、「 G♯、C♯、E♯、C♯、E♯、C♯ 」

(  ソ ド ミ ド ミ ド  ) と、なっています。


★フリーデマン曲集では、テーマの開始3音が、

上行形であったり、下行形であったり、

統一が取れていませんでしたが、

平均律では、すべて、下行形に統一されています。


★バッハが、フリーデマン曲集を書いた後に、

推敲して、平均律のテーマへと、辿り着いた、

ということが、 いえます。

明らかに、平均律のテーマが、

優れていると、思います。


★以上のような明白な間違いが、フォルケルの伝記に、

記載されていることは、

「 フォルケルは、実際には、フリーデマン曲集を、

見ていなかったのか、あるいは、見ていたとしたら、

まともに、分析できない音楽家であった 」

というのが、結論です。


★日本の、平均律・解説書には、

そのフォルケルの、尻馬にのって、

≪ 平均律 1巻 のなかには、若書きの作品があり、

出来、不出来がある ≫ というような、

記載が、よくみられます。 


★そのような解説を、載せている本は、

信用しないほうが、いいでしょう。


★若いバッハは、本当に未熟であったのか?

それに対する、答えは、

「 大作曲家による編曲作品とは何か 」
 ★旧・私のアナリーゼ講座 2007/2/16 (金)
http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/c/60af0c399fb1d77a1e5f08288998957e 

に、ヒントがあります。


★若いころのバッハは、既に、

類稀な大作曲家であった、ということです。

若いころから、段々と、「作曲が進歩していった」

のでは、決してないのです。




                                 ( 矢羽根薄、茗荷、秋の草 )

▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

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